VAXシミュレータ開発騒動記 後編

ノストラダムスの年は明けて

1999年の年が明けて、ノストラダムスの大予言の年を迎えてしまった。昨年の管理部門のへ異動から、スタッフ部門のエンジニアとして仕事を進めてきた東川だったが、開発プロセスの改善活動での日常、次世代サーバー技術の評価、インフラ環境整備などをしてきたのだった。
2000年問題を前にして納入したシステム機器のソフトウェア確認という要請に対応するための1999年でVAXサポート打ち切り宣言がなされていた状況に対応するために起草したプロジェクト「VAX BSDシミュレータ」をきっかけに初芝電器中央研究所OBの山野先生との出会いがあり、現在は母校の米子高専で教鞭をとられている先生とのパイプが出来ていった。

管理部門同士の横のつながりは

初芝電器は大阪をベースにする会社であり初芝通信もその衛星会社として一体の経営協力が出来る体制で運営されていて、大阪と新横浜の間の新幹線乗車券などは日常のことだった。管理部門としての大阪出張が金曜日にあり、米子高専に頼まれた講演に対応する出張が月曜日になることが分かったことから、その年度末の週末を夫婦で大阪に活用するという悪だくみが起きたのは、ごく自然なことだった。

会社から支給された二枚の乗車券は二人でシェアして、金曜の朝から大阪に出張した私を追って、細君が夜着で大阪にきて合流する。大阪の夕方を楽しむのにはラパレットもアランジアロンゾもいろいろある。お気に入りの神座でラーメンを食べればあとは明日の大阪-米子の家族旅行モードに入るだけである。

土曜の朝は、新大阪から500系のぞみに乗って岡山までのわずかな区間の旅で、神戸・姫路とやりすごしてコーヒーを呑んでいる間に岡山についてしまい消化不良な細君だったが、連絡するはずの伯備線は、何故か走って乗り換える始末となった。伯備線の旅は一転してのんびりしたルートに変わりゆったりと米子に向かって進んでいく。夜行で来るさいの伯備線の風景は朝がたなので昼間の移動の風景はまたちよっと違う。

米子につくと日ごろ私が囁く、山陰地区の喫茶店最強伝説を確認しようとさっそくスイーツを確認堪能してから、米子城址に向かい風景を一望してから境港線を使って境港まで進み、水木しげるロードなどを見て歩き、境港にあった国民宿舎に泊まって、翌日は朝から美保関へ繰り出して隠岐を展望したり、隕鉄落下の展示を見に行ったりした。私は月曜の講演があり、帰りは別々にしたがフライト代金は、講演の往復費用を片道二回で使った計算だ。

月曜日の講演は、スタッフエンジニアとして取り組んでいた当時の第三世代携帯電話が向かうサービスの世界やサーバーの世界についてを紹介することで終えたのだが、この米子高専との交流あたりから私の活動が様相を変えてきたのではと回想する次第だ。社畜とはいえないようなマイペースな暮らしをしつつ、芯棒は通していくという生活だったのだが、このあと大きな時代の流れに押し流される事態が待っているとは知る由もなかった。

山野先生と一緒に開発を進めてきた、このシステムは完成をみるのだが、そのときに自分がその場にはいないという未来は考えてもみなかったし、またFreeBSDを搭載したX86マシンの上で、VAXのバイナリーツールはVAX以上の性能で動作することにもなった。入社当時に見ていたミニコンのシミュレーションが実用性がないと思っていた時代からは、コンピュータの進化がはるかに進み、またシステムシミュレーションにしたことによりいわゆるアプリだけがシミュレーション動作となりIO処理はネイティブなOSが動作することも、当時のアプローチとは異なっていた。

どうやら、この仕事を契機に、東川はパラレルゾーンを移動してしまったのだといえる。これ以降も度々、山野先生のところを訪ねては少しずつ経歴の変わった内容で高専の学生たちに講演を重ねてきている。大きな会社という仕組みゆえに無駄になっていたかもしれない投下費用も見方を変えると活用して別の意義ある使い方に変換させることが出来たし、そうしたことはベンチャー的な活動の萌芽だったかもしれない。

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