業界独り言 VOL186 陽気なイヤーエンド

四度目のイヤーエンドとなった。九月で締めて2002年が終わったことになる。色々なチップやソフトのリリース、そしてそれらのサポートのサイクルが思い出される。入社してすぐに迎えたイヤーエンドから三年が経ち四度目のイヤーエンドなのである。しかし、イヤーエンドに行われる営業企画会議とイヤーエンドパーティの二つの一大イベントで締めくくられるのだが、実ははじめての経験だったりする。一年の総括として行われるこれらのイベントであるが出先地域のメンバーの招集は、各担当部門からの招待で為されている。最初の年は、私が新入社員であったことや免許を持たずに自転車で走り回っていたことなども含めて、あまり会場に到達するまでの方策について自分自身も含めて相互に認識できていなかったことが背景にあり米国にいたのにもかかわらず参加することは無かった。

二度目の際には、ハードウェア担当チームは呼び出されて米国までいったのだがソフトウェア担当チームが呼び出されることは無かった。会議やパーティ会場では「何故こないんだ」という話になり、呼ぶのを忘れていたという事実がようやく認識されたのであった。ハード担当・セールス・企画・物流といった各部門が集結されてにぎやかに行われたという話は後から聞いていた。翌年の三度目は、三度目の正直ともいうのだが、実際にチームからも招待状が来たり参加日程へのスケジュールやホテルの予約などを行っていた。また、当時はあるホットなお客様の支援も予定していて一週間早くに出張して対応したのちに迎えるという予定になっていた。そんな夜中に電話がなった。そう嫁さんからの、「すぐにテレビを見ろ」というあの9/11の事件を告げる電話だった。

そんな事件で当然、景気の良い会社でのイベントも米国全体のナショナリズムを高揚する非常事態のなかでキャンセルされていた。渡航も相互にかなわない状況の中でパーティだけは行われていたようだった。そうしてやっと参加することが出来たイベントが今回のものであった。あらかじめノーティスされたのはインビテーションのメールであり、内容はウェブページで申し込むようにと該当のURLがされていた。ログインするためのパスワードやアカウントが記載されていてどこかのホームページを思い起こさせた。この季節は毎年チップの提供時期と重なることもあり最初の説明会を実施する米国でのトレーニングに参加することがあわせて行われる時期ともなるのでそうした出張と連続前後して参加するようになっていた。それに加えて別のお客様のデザインレビューも行われることがあり米国での仕事が重なっていた。

当初のスケジュールでは別々に出張が一週間おいて続く事になっていたのだが移動費用のほうがさすがにホテルステイよりも高いのは明白なので米国で作業することにした。無論、このほうがお客様の問題解決に朗報なのは言うまでも無い。残念ながら日韓で進められている3GPPの開発状況と1x端末の状況でいえば、国内で先陣を切られてきた通信キャリアの思わしくない状況がそのまま写像されがちなのも事実である。そうした中でまともな選択を果たされて実情に見合った開発スケジュールを提示されてきた第三の通信キャリアの方を支援するという状況は、ある意味で3GPPの最先端を行っていることにも繋がっていた。オープンな規格の中で繰り広げられてきた3GPPの本当の姿は、相互理解の壁などが明らかになるにつれ困難を極めてきていたのが今年に入ってからは明らかだった。自信を持って進められてきた北欧メーカーのトーンダウンなどが影を落としてきてもいた。

ともあれ、そんな中で私のジョイントとときを同じうして始まったらしいQuad社の3GPPチップならびに通信ソフトウェア開発がQuad社の中でも大きなリソースを割いてきたのも事実である。そんな苦労の末に、3GPPチップがUMTS仕様としてGSM機能も果たして実装出来たこともあり、開発部隊はそうしたリリースを迎えたパーティも行っていた。お客様とのミーティングを終えた翌週にはそうした機会にも遭遇してQuad社の中での開発の精鋭メンバーたちとも面識が深まり、お客様の実装で打ち解けてきた問題解決などを通じて接点を良くすることも出来たのである。GSMのソフトウェアと3GPPのソフトウェアを同時にカバーするという来年度モデルの実情を本当の意味でワンチップで開発出来たのも大きな成果だっただろう。中にはまったく異なるプロセッサを抱き込んでひとつにしたメーカーもあるようだが、それは実装の方法論なのかも知れないが・・・。

まともな設計としてARM7ベースで、GSM/UMTSのデュアルモード端末が開発できるという実態を示せたのはビジネス的にも技術的にも大きな意味を持つのだろうと思う。このチップを韓国メーカーが採用したというニュース報道で、ようやく事態を正しく認識していただけたのか、株価などにも良い影響が出てきたようだった。現在の利益の柱は、なにをおいてもCDMA2000ではあるのだが、暗い3GPP市場に向けた策が提案できたのは大きな意味を持っているのだった。とはいっても通信キャリアで必要な基地局装置を納めているわけではないので、インフラメーカーの頑張りが無ければ意味をなさないのも事実であり、日本のようにWCDMAではなくてデュアルバンド仕様のPDC機器といった事情に実質的に回帰している事情などはお客様のまともな判断の成果ともいえる。意味と意義の二つをもつ端末としてUMTS端末を安価にかつ魅力あふれるものとして提供できるようにというのがQuad社のテーマでもある。

長い滞在で体調も快調であり、頭の回転もするどく廻るようになりお客さまの問題解決を果たしつつ、意義深いイベントを迎えた。セールス&マーケット会議は、リゾートホテルの会議場を借り上げて三日間にわたる年度総括を各部門ごとの発表の場という形で迎えていた。各国のメンバーが集い、各部門のリーダーの総括や自分達の総括を発表しあい次年度への方向性などを一同にしてコンセンサスを得ていくというスタイルをとっている。今回の統一服は、特製のアロハシャツでありあらかじめサイズや色をオーダーしておいたのである。といってもそんなことはすっかり忘れていて当日配布されてから思い出して初日の夕方には記念撮影をして壮大な夕食や二日目の締めくくりはディナークルーズをしていたようだった。生憎と初日以外はお客様の支援で参加できなかったものの、以前の会社でのバブリーな時期に事業部をあげて繰り出した東京湾クルーズを思い出したりもしていた。

東医研君は、ディナークルーズにジョイントしたようだったが、聞けば週末にかけてサンディエゴに来ていたお客様の支援作業を予定していることもあってかメリハリをつけた仕事の準備をしているようだった。水曜に到着したお客様は二名の日本メーカーの技術者達で、このメーカーからは一人同僚として迎えている事もあってQuad社との関係も良好なものであった。まずは、時差の慰労も兼ねて残りのメンバーと担当営業マンとで夕食にシーフードレストランまでお連れすることになった。お客様は営業マンがお連れして、支援チームの三名は別の車で二台で北のデルマーという海岸のレストランにお連れした。平日ということもあってかレストランはガラガラだった。支援チームのメンバーは皆メーカーの出身者であることもあり、話も弾みつつ楽しい夕食を取ることができた。昼間なら綺麗な太平洋に面しているレストランだったが夜ということもあって風景は少し残念であった。

週末となった四日目には、ゴルフコースやシーワールド観光に分かれて各国からのメンバー相互の交友が深まるという狙いもあったようなのだが、その夜に予定されていたイヤーエンドパーティにだけは参加することが出来そうだった。帰国に向けて作業してきたアイテムの総括をしつつ、併せて解決してしまった韓国のメーカーの問題などの整理などをしつつ関連デザイナーとのミーティングなどで最終日は忙殺されていた。おかげで名前と顔を売ることは果たせたので以降のメールでのやり取りなどにも効果を発揮しそうなことは有意義といえる。相互接続テストの担当をしている同僚の部屋を訪ねて、今夜のパーティで会おうやというと、彼は急なスペインへのテスト出張が入り夜遅くまでのパーティには出れないという彼の机の上には、奥様の分のチケットも置かれていたが残念そうだった。しばらくスペインや英国などを廻ってくる長期テストになるので、かれの成果はメーリングリストでの成果報告などになりそうだった。

東医研君はというと、二日目に突入したメーカー様の支援作業の目的である問題解決は半分解決したという状況のまま煮詰まっているようで、開発デザイナーと一緒にデバッグバトルの最中のようでありパーティには参加できそうもないということであった。担当制を基本的にはしいているので、それぞれの範疇では各人に頑張ってもらうしかないのである。期待の新チップでは、ローカライズ作業も製品ラインアップとして加えようという野心的な取り組みもあって実は日本事務所での作業は、このテーマについてはリーダーシップを取っている状況であり新しく加わったMickyも中核としてこれに参画しているのだった。日本メーカーの方々の移植の苦労を少しでも減らしたいというのが目的ではあるのだが、何故プロトコルを変えたりしたのかという観点でキャリアの方の開発経緯などを照らしてみるとPDCからの切り替えなどが起因しているとも言える様だった。

最後の日だったのでマイ自転車の格納を依頼して、たくさんの資料などは発送してもらうことにした。最終のシャトルバスで別ビルで仕事をしているMickyなどの仲間が、パーティチケットを入手できなかったといっていたのでテストチームの彼から譲り受けて持ち込むことにしたのだったが行ってみるとすでに一日早く帰国することになった営業メンバーなどから手渡されていたらしく空振りだった。パーティに参加することについては、「盛装して出なければいけないのではないか」といった不安があり、ほかの二人はどうしようか悩んでいたのだが、今回のパーティは気楽な形式だと聞いていたので、実際にこちらの仲間に聞いてもらい自分達の服で可能なのかどうかを尋ねてみたところ「ノータイ・ノージーンズ・ノースニーカ」ということだったのでチノパンスタイルはまったく問題ではなかった。残りの二人はそれでも悩んでいたようだったが、まあ会場であえればいいやと歩いてホテルまで帰った。パーティの招待状には開催時刻が夜の八時から二時までで、ダウンタウンの会場でジャズバンドを呼んでの形式だということだった。想像の範囲を超えていたので楽しみにしていた。

自転車も持たない自分ではダウンタウンまではタクシーでいくのも冴えないので、ホテルまで、3GPPの開発支援をしているリーダー夫婦に迎えにきてもらい行くことにしていた。しかし予定の時刻を過ぎても中々連絡がこないのでページの更新をしたりしていたのだが、九時半になり連絡がついてホテル前で拾ってもらった。彼はインド人で奥様もかなり素敵なインド美人である。昨年一度お会いしていたのだが彼女も覚えていてくれたようだった。黒のBMWは音楽を鳴らしつつ快適にハイウェイをダウンタウンへ目指していった。インビテーションレターに記載されている駐車場やアドレスを車中で読んだりしつつようやっと会場に到着した。あたりはいわゆるサンディエゴのブロードウェイ広小路といった場所である。そんな街中の一角を占拠して封鎖して屋外会場を構成していた。やるなぁQuadといった感じである。同僚いわくQuadはサンディエゴでは東京のソニーみたいなものだから普通じゃないのかといっていたが、そんなことはないと思う。彼らにとってのソニーは神話なのかもシレナイ。

ジャズのステージやパブコーナー、フードコーナーが沢山出来ていて、見慣れた仲間達が奥さんや彼女を連れてきていた。こうした場所には子供は連れてこないのであるらしい。すっかり酔いが廻った艶っぽいマーケティングの部長も「あぁら小窓さん元気ぃ」と声をかけてきたりしていたが、大分正体無く仕事の疲れが出ていたようだった。ぱぷコーナーでソフトドリンクを作ってもらいフードコーナーでステーキなどを更にもらってプラスチックのナイフやフォークでうまいニューヨークステーキを食べたりしつつ同僚たちのご夫婦連れの百花繚乱の美男美人の組み合わせや音楽あるいは民族ダンスなどを堪能していた。一匹狼のテクニカルVPなども来ていて声をかけてくれていた。すっかり顔を覚えてもらったようだ。世界各地の民族で構成されているというQuad社の実情に照らしてみても派手なパーティだといえる。みなが顔や服につけているのは発光ダイオードで点滅しているアクセサリーらしくどこかで配っているようすだった。ダウンタウンのビルの間の空間を占拠したナイトパーティの規模は想像を越えていた。

例のほかの日本人メンバーたちはすっかり楽しんでいるようだった。支援チームのリーダーが彼女を連れてきていたよと話をすると探そうといって会場のなかに消えていった。隣接するビルのフロアも借り切っているようでディスコなどでは、さらに音量もすさまじい中で各国料理が並べられたコーナーといっしょになっていた。地下のディスコでは以前の上司である南アフリカ出身のVPなども奥さんを連れてきていて挨拶をしていると艶っぽいマーケッティングの部長がきて「小窓さんも踊らなきゃ」といって絡むのでひと時はディスコの踊りの中でダンスに興じたりしていた。三年間の暮らしの中で出会ってきていた仲間たちの懐かしい顔を一同に会しつつ、奥様などにも挨拶が出来て現在のQuad社の順調な成果などを共有することが出来て楽しい晩となった。夜中の1時少しまえにはさすがに切り上げてリーダー夫婦にホテルまで届けてもらったのだが奥様はすっかり堪能できたらしく寝入っていたようだった。

来年も、また陽気なイヤーエンドパーティを迎えられるくらい平和で順調であることを願いつつ、そんな時間を奥さんとも共有したいものだと思いながら荷物を詰めて翌日の帰途に備えて浅い眠りについた。100名足らずの3GPP開発チームとの新たな一年をどんなお客さまと過ごすのか楽しみな新年度の開始でもあった。メリハリのついたすごし方に少しずつなれてきたそんなサンディエゴの夜だった。東医研君も来年にはパーティに出れるように頑張ってもらおうと思うのだ。

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