業界独り言 VOL190 学校は今

忙しい一週間が終えて週末を迎えたのだが、生憎と雨である。予定表によれば母校の木更津高専の文化祭であり、朝食もそこそこにアクアライン経由のバスに乗りに横浜東口を目指した。気が付くと髭もまともに処理していない情けないありさまで受信しかけのメールや電池の切れかかった携帯などモバイル機器も惨憺たる状況であった。比較的に早い時間のバスに乗れたこともあり木更津で髭剃りだけでも頼もうかと考えていた。今は、湾岸線からスムーズにアクアラインに接続されるようになったために以前の記憶とは大分違ってより時間的にも着実かつ短くなったような気がした。

長い長い海底トンネルを抜けると、もう木更津の金田海岸に続く海上ハイウェイである。クラスで同窓の仲間には、漁師をしているものがいて、クラスの首席であり千葉大学工学部への編入を果たして後に、なぜか医学部にも入りなおして今では家業を継いで漁師をしているらしい。そんな彼の家や海域は、この辺りであるらしかった。袖ヶ浦バスターミナルには駐車場も完備していて通勤でバスを使って欲しいと言う背景などがあるようだ。バスの金額は横浜と袖ヶ浦との間では1350円であり、木更津のそれは1500円である。JRなどで通勤する費用と比べる可能な金額にも思えるし55分という時間は魅力的かも知れない。

国立の高専という学校組織の意義が最近の業界の状況に照らして合致しているのかどうかという点については意見が色々分かれているようだ。自分が通学していた四半世紀も前の時代背景とは明らかに異なっているらしい。そうえいえば当時は横浜と木更津の間でフェリーがまだ就航していて、これで通学しているという猛者の先輩がいたらしい。とはいえ直ぐにフェリーは廃止されてしまい、しばらくは遠距離電車通学を続けられた後に木更津市内に下宿されるようになったらしい。まあ高専はあるいみで短大までの学年となり、内容は大学教育のそれと実践を重んじる風土でありバンカラな感じの先輩が多かったようだ。

そんなことを思い出しながらバスは木更津に向かっていった、切出されたバイパスのルートは昔とは異なるアングルで町にアプローチさせてくれる。アクアライン設置などのバブルの弾けた木更津の町には昔からあった百貨店はすべて巨大デパートの進出で崩壊して、そうしたデパート自体もバブルとともに泡と消えてしまった。残されたインフラとしてのビルを利用する地元の人たちが必死に再建させようとしているのたが、駅前という立地は現在では必須とはいえない状況になり町には影が忍び寄っているようだった。駅前につき物のパチンコ屋までも閉店してしまったようすなのだ。

かつて在ったダイエーも撤退したと聞く東口に到着して、探し出した理髪店で順番を待ちつつメールを落としたりしていた。髭剃りだけの依頼であれば時間は掛からないはずなのだが待っている時間には物理的な差は無かった。横浜辺りの組合非加入の店に比べれば高いといわれるかもしれないが2000円で顔そりをしてもらい髭の整理もしてもらったのは私としては割安な散髪であった。立ち寄り先の数だけの茶菓を買い求めてからタクシーを駆って学校に向かう、小雨混じりの中の木更津の駅前には明るさが無いようだったが、タクシーにある広告などから上総アカデミアパークというコンセプトが高専から奥の辺りいったいを再開発してホテルまでも誘致しているようだった。

文化祭の初日の残念な小雨ではあったが、正門のところでおろしてもらい見知った関係者として構内に入っていった。毎年架けられている池の橋の展示はなく、逆にその地域に校舎建設がはじまっている様子だった。最近の高専生としては情報工学科や環境都市工学科といった学科の設置などからか女子学生も増えていて学校としての雰囲気も変わっているようすである。といって昔を回顧するつもりもないのだが・・・。今となっては古びた校舎に集う後輩達が頑張って学業に精を出している姿は、自分自身も新鮮な気持ちにさせてくれるのである。この階段を入っていけばクラスが始まるような錯覚を覚えるのだがやはり四半世紀の歴史の流れは風景も校舎にも影を落としている。

今では名物先生となっている先輩でもある先生を訪ねると、電子回路を理解させようと奮闘する姿と、若干乖離した感のある学生達がそうした展示紹介をそれでも彼らなりに一生懸命説明しようとしてくれていた。フィルタが専攻の先生の研究室で専攻研究を持っている学生や専攻科に進みながらも休学して海上保安庁を目指す逞しい学生など、この時代にしてはやはり変わっている若者達が集っているようにも見受けられた。自分自身、30年以上も前に中学三年の時に文化祭を訪ねて、当時の展示説明をしてくれた先輩に「来年入部しますからよろしく御願いします」といった変わり者であったし、入学式の当日にクラスを覗き込みにきた先輩もやはり変わり者に違いなかった。

枠にとらわれないという目的では、既に学校自体が枠から外れた教育を志向していた時代でもあり、実践教育を経験した技術者を送り出すという高度成長社会の要請に応えようとしていたのである。しかしオイルショックを迎えて実際に自分達が卒業する頃にはそうした約束手形は無効になり、求人が殆ど来ないと言う冬の時代だったりもした。そうした背景などからも大学進学を目指したり、電機メーカーなどではなくソフトハウスなどへの就職が始まったりもした。そうした中でも電機メーカーに就職できたのは幸いだったといえるのだろうか。変わり者を自負する自分にあう仕事が何かあるのではないかと漠と考えていたそんな時代だった。

実際に学校訪問を数度前の会社で行い、求人要請をしたりしたものの実際の配属先での仕事内容が果たして、自分の意識していたものと合致していたのかどうかを考えると悩ましい。まあ既に、学生達が自立しているのであれば、自分に合致した仕事を探していくだろうから良いのだが、最近の大学生などを見ていてカラーの無いあるいは覇気の無い学生が社会人として入ってくるような印象があるし、不景気な中でコストの安い人材として育成していくという方針を貫けるのかどうかは、少々疑問を感じたりもするのである。そんな会社の中で高専卒という扱いが会社の仕組みとして学卒と同等に扱われなかったりするのは日本の社会の縮図そのものだから致し方ない。

転職後訪問したころには、専攻科の設置で紛糾していたようだったがこれも果たしていまでは進学以外にも学究の路が広がったことは喜ばしい。そうして高専卒の方たちが学士の資格を取られて就職されていけるようになれば良いのだろうかと考えると首肯できないものを感じる。日本の国の仕組みとして、もう高専排除といった志向になりつつあるのが現状かも知れないのだ。学生が減っていくこれからの社会において大学自体の存亡といった動きが独立法人化としておきようとしているわけで高専自体が、そうしたながれを阻害するライバルとなっているのかもしれない。甘やかされて育った世の中を知らない中学の先生が、偏差値と進学率のみで高専を選択させたりする時代なのかもしれない。

文化祭の折には、将来の進学あるいは就職を考える全学年の学生の両親達を呼び保護者との対話を行うといったイベントが行われていて先生も中々忙しく、親御さんたちも自分の子供達を預けた学校の状況を先生と話し合うという目的が達せられることを願ってもいるだろう。子供達が巣立っていく先の業界の実情や未来を今度は高専の先生が正しく認識できているのだろうかという点もあるのかもしれない。もう日本での製造業が成立しなくなる中で、何を目指して行くのかといえば世界に通用する意識の学生を育てていくべきなのかもしれない。むしろ国費などで招待留学させているアジアの学生などとの場を通じて日本語でない教育も果たしていければ未来へのひとつのピースを埋めることが出来るのかもしれない。

今、学校の現場で見えるものは実は日本の企業での外人雇用などの実情も含めて、国際化という面においては同様な問題を含んでいるように見えるのだ。アジアの仲間達からみると、もう日本に学ぼうと思わなくなる時代が近づいているのではないかというのが言い知れぬ危惧である。国費で留学生を招致したりしてきたことで狙った国際意識の発揚などは、意識の低い子供達の教育といった社会の仕組みの変化などから、生かせなかったのだろうか。もう高専という仕組み自体が、やはり合わなくなってしまったのだろうか。まあ大学以上に特色あると感じてきた母校の仕組みなどが否定されるような事態には存在意義を考えさせられるのである。

専攻科という仕組みに期待をしてきたものの、高専自体の存亡を賭けるなかでのカタログアイテムのひとつであるのかもしれないといった思いには、情けなくも思うのだが・・・。始まってしまった新しいルールの中では致し方ない展開なのかもしれない。専攻科に進みながら休学して白い帽子などを目指そうとしている若者達に、製造業の素晴らしさあるいは技術屋の素晴らしさを伝えてあげたい思うのは時代錯誤なのだろうか。新しい教育ルールと新しい若者達の間のミスマッチは、いつの時代も変わらないのかもしれない。

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