業界独り言 VOL205 認識の相違

旧い話しで恐縮だが日本政府の話としてオープンソースで行こうという方針が出てきているようだ。デジタル家電時代に米国OSの台頭を許してしまうと国として破綻するというのだ。さて、同一条件でやっている韓国や中国に対しての優位性というものが果たして日本にあるのだろうかという話を基点にしているようなのだ。オープンソースの使いこなしなどについても、日本に優位性があるということは無いし単に自国の設計生産コストの比較論に陥ってしまうのであれば、それも根拠がないように見える。日本人のみが開発に日本語を利用している実情や技術を志向しない若者達を導出した今までの政策の結果が足を引っ張っているように見えるのだがいかがなものか。

中村さんのLEDにしても、旧くは三極鉱石の時代でも日本という国が突出を認めないという文化感情があることに起因しているのではないだろうか。いくらアイデアを出しても会社が認めずに特許足り得なかった事例など幾らでも挙げられるのではないだろうか。サブマリン特許におびえる現状と、逆にそうした特許を出せずにいた今までの国策にしても会社の方針なども幾らでも反省すべき点があるだろう。セキュアOSの調査研究という予算が大金の5000万ドルを用意したと聞いて、なかなか本気なのかなと思ったりしたら実は誤解らしく5000万円の間違いだったようだ。調査研究とはいえ何ができるのだろうか、恐らく調査研究会が開かれるホテルの会議室代で消えてしまうのが落ちなのだろうと思っている。

先を見据えた開発や研究投資といったものを進めていく風土を島津製作所の田中さんに乗じて作り上げていこうと言うのもいかがなものだろうか。今の時代を構成する人たちが、戦略も無いままに韓国と中国にやられまくっているのであって米国にやられているのではないという認識をもってほしいものだ。無論LDを開発したパイオニアが特許の継続する限りでの次期技術開発に傾倒してナビ開発に走った事例などもあるだろう。無線機から通信業界に入り込んでいったベンチャー企業も昨年限りで社名返上をしてしまったりもしている事例もある。ベンチャーが次々と技術を出しつづけていくことは困難なのだろうか、ベンチャーがベンチャー精神を忘れてしまうことに問題があるのではないだろうか。安住の路を模索するようなバブルの毒が、技術者や経営者の色々なところに回っているような気がしてならないのは何故だろうか。

技術者こそが夢を持ち、希望に向かい風に立ち向かっていくという姿を取りつづけなければならないと思うのだが、そうした余裕が無いのだと悲鳴のみが聞こえてくる。果たしてそうなのだろうか、ベンチャーとしてバカだチョンダと言われつづけてきた会社が自分達の開発した技術の対価を要求するというビジネスモデルを否定するというのだろうか。自分達が手を抜いて安住の路を選択した結果が、今の時代を導いてきたのはTRONの歴史をみても明白だといえる。あのときスーパー301条だといわれたときに何故政府は反論しなかったのだろうか、アメリカ軍に駐留してもらい自分達の身辺警護をしてもらっているから断れないとでもいうのか。国として自立できていない姿を認識せずにアンバランスな状態で見かけ上伸びてしまったように見える戦後の歴史を見直すべきだろう。

政治家のバカな案に乗せられたバカな経営者がいないとも限らないのだが、肝心の技術者達の認識がどうなっているのかが一番の問題なのである。仕事に忙殺されていて考えるということを忘れた技術者が多いようなのだが、果たして・・・。自分達の業界の状況を認識したうえで、今の仕事に対して意見を述べ仕事の進め方を考えて対応しているといえる人が居るのなら安心できるのだが。オープンソースな世界が日本を救うなどと考えている能天気な人は居ないだろう。いや正確には日本の業界を救うとは・・・だ。日本人が優位性を保てる部分があるとすれば日本語文化ということのみだろう、いや最近では、それも危ういものだが・・・。日本発の日本語ベースで公開するオープンソースな世界を始められるのであれば日本の範囲では安泰なのかもしれない。しかし、それではPDCの二の舞だ。

既に日本は日本だけで食べていけないのは、昔から社会の教科書で教えつづけられてきたことなのに何故、いまさら其のことを忘れた政策やら発言をするのだろうか。オープンソースな世界との間に横たわっている言語の問題を少なくとも、中国韓国なみに解決をした上で技術開発をしていくということが最も重要なことだろう。日本として日本語を使うなということは出来ないにしても、せめて英語と日本語をまともに扱えるような教育こそを果たしていくことが必要だろう。日本語が話せないような子供達を社会が受け容れられないという問題すら起こっている現状を打破しなければ、第二外国語としての完成度などおぼつくはずもない。歪んだ社会に振り回されている子供達に対して正しい方向性を示さないままに、単なる競争の結果として教育が変調していくさまには呆れ果てるしかない。

呆れ果てた会社が新たな学校を中高一貫教育で興すというのも理に適った話である。其のことの真意について深い問題点を認識しなければ、社会が正せるはずも無い。日本がこのまま自力再生も出来ずに朽ち果てていくとすれば、それには現在の状況全てが理由としてあげられるだろう。変化・突出を許容する新たな政策の提示でもなければ、新撰組となるような輩も出てきはしないだろう。自分達の論理にのみ立ち文句を言っているようにしか見えないのは何故だろうか。お金は動いてこその経済である、大事にしまいこんでも何にもならないのだが、使いがいのある仕組みが見えないのもひとつの問題だろう。政府経由で名指しに批判されるQuad社ではあるが、逆に投資対象となるベンチャーを模索している会社でもあるのだ、しかしそんな元気な会社が出てこないのも事実だ。

テクニカルリエゾンを作り、将来に向けて開発していくというのならばそんなベンチャーに投資するのはQuad社自身なのかも知れない。そうしたベンチャーが伸びた場合突出すると、また米国OS会社と同様に矢面に立たせて他の会社からの言い訳の対象にするのだろうか。パテントのロイヤリティで縛りたいというのであれば、現状のロイヤリティで縛られていることを受容するのは致し方ないことだろう。日本は、色々な技術や考え方を受容していきてきたというのであれば日本での物作りをやめて一億総エンジニアを目指して中国や韓国の会社に勤めて外貨を獲得してくればよいではないか。どこかの国との物価の差をベースに成立しているビジネスモデルは破綻するはずであり日本が輸出すべき製品は実はエンジニア自身なのではないかと思うのだが、そんな話をしつつ笑止に付されると思う自分自身もいるのは事実なのだが。

国の文化を大切にして観光立国するという路もあるだろう、そのためにもまともな国民を育成できるような教育や社会でなければいけないはすだ。躾も忘れて甘やかされた若者達を人材として捉えられない会社にとっては不良資産として使えない人材を計上しているやもしれない。自立した技術者を目指していこうとする若者達に、まともなテーマを与えられない会社なのであれば、先は無いだろう。技術者達の最近の流動性からみても互いを縛りつけあっている会社は自滅していくという以外に路はないのかもしれない。自分達が変わろうとしない限り会社は変われないものである。誰かが突出して変わろうとしているのであれば、その流れに同調するのであれば堂々と賛同して可能な限り協力を惜しまないことでようやく変化が達成できるものである。個別の組織が変われないのに会社の組織が変われるはずは無いのである。

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