業界独り言 VOL238 M君のこと、N君のこと

ソフトウェア開発ということで携帯電話業界を見たときに、やりがいのある仕事なのかは各人各様の意見があるだろうし、実際取り巻く環境も実はバラバラである。同じ仕事を示してみても、個人のそれまでの環境により反応は大きく異なるようだ。M君とN君は似たような境遇にある、それぞれが私たちのお客様の会社で働く技術者であったことが共通項であり、更にその会社が端末開発事業から撤退していったということも共通項である。お客様が事業から撤退するということは残念なことであるが、ビジネスモデルなどの不一致など撤退する理由は様々であるようだ。撤退の報を聞きつけると、営業マンはビジネスバランスの次の段階を考えるし、サポートしている我々は開発リソースのバランスを考える。

開発リソースとしての人材はかなり流動化してきているのが実情で、同様の仕事をしているのにお客様の間を渡り歩いて移り変わっていく人があるのは、プロジェクト運営の違いや社風の違いなどが多様なことをあらわしているようだ。ある人にとっては働きにくい環境が、ほかの人にとっては魅力的に映ったりもするからだ。M君の事例はといえば、会社の開発撤退の報を聞きつけて指示を出したのは他ならぬ弊社の経営トップだったりする。開発という仕事を支える経営バランスが崩れたことによりエンジニアが流出するのは必定であり、報を聞いてから訪ねたお客様のオフィスはもぬけの殻だった。プロパーのエンジニアは、失職するので転職していて残っているエンジニア達は元より借り物の外人部隊という実情だった。

携帯電話開発プロジェクトをまとめて受注したといえるシステムハウスというのが、かれの所属する会社の実態でありQuad社のソースに基づいて評価用セットを用いたり試作ユニットの開発までをこなしていた。そんなプロジェクトが終結せざるを得なかったのは、発注元であった外国メーカーの東京開発センターという組織運営と働いていたプロパー技術者達との感性の差がきっかけだったようだ。外国メーカーのサテライト開発センターとしてまとまり仕事にあたるなかで、実はその仕事自体が数ある社内開発プロジェクトの中の競争の産物だという考え方が、そのメーカーにはあったようだ。競争を勝ち得たデザインはラインに流れていくが、勝ち得ない開発プロジェクトもあるということである。

こんな競争していく感性を持ち得ないのがプロパー技術者として働く最近の若手技術者だったのかもしれない。外国メーカーのサテライト開発センターの最初の開発仕事が採用されなかったということを過剰に受け止めて自分たちの保身に走り、次の展開としての解雇に備えて自身から転職を固めていってしまったようだった。経営者と若手技術者の間の断絶が理由であったのかもしれないが興味深いことに、この経営者自身が、外国メーカーに対してはコンサルタント契約の社長というだったということだ。二つの草鞋を履く経営者の感性と、国内外の最先端メーカーと開発のしのぎを削っていた技術者の間のコミュニケーションについては興味深いものがあったようだ。

M君自体は、システムハウス創業に際して、まとまって大手FAXメーカーから転職した技術者であり創業の恩義を感じていたことがあり、このプロジェクト終了時点での転職は適わなかった。FAXというアナログかつシステマティックな動作の製品を開発していくという経験は、CDMA端末の開発にマッチングしたのは事実である。一つの製品についての寿命が終わり、モデムに関する技術者が必要なくなり新たな分野やテーマに移っていくというのが実のところソフトウェア技術者という仕事の際限ない組み込みの世界なのかも知れない。次々と新たな知識を深めつつ開発を通じての経験で自身としての開発手法を確立していくというサイクルをまわしていくというのが我々の考える姿でもある。彼の考えるところの恩義に報いるという気持ちが二年前にはあったために適わなかったのが我々のインビテーションでもあった。

いまも、M君は、私たちのお客様にシステムハウスとしてお世話しているのが現状であり、実態としての開発者主体としてスキルアップを進めているわけでもある。彼の仕事適性は、いつも我々と同質のものであり、前回のインビテーションから二年が経過した今、またインビテーションを送ろうかという気持ちにさせてくれるのである。実際問題、すでにボールは彼にあるので、後は彼の気持ち次第なのではあるが・・・。小さな会社としてのシステムハウスを創業時点から立ち上げてきたベンチャーとしての気持ちがきっと彼自身のなかにあるので会社を辞めるという気持ちになるためには、後輩を育てて仕事の一区切りをつけてからというのが、きっと彼の考える第二ステージへの展開なのだと思っている。お客様にとってはどちらの側にいても開発の手助けをしてくれるという視点に立てば同質な意味となっているはずだ。

さてN君はといえば、音響無線機器の会社で長らく無線通信機器のソフトウェア開発を続けてこられた。PDCを立ち上げたり、WCDMAの評価検討をしたりとしてきたものの競争の続く携帯開発のなかで経営からみて事業継続が難しくなっていき最終段階として弊社のソリューションを使って開発効率の達成をしようと考えてきたのである。結果として彼の会社は撤退し、我々はN君との接点を持つにいたった。早期退職奨励などでリストラクチャリングを進める段階で彼はWebサイトに直接申し込んできたのである。残念ながらすぐに転職という次第にはならなかったために彼自身は機会を逸してしまったものの、縁はつながり今は米国へお客様と一緒に滞在して問題解決コースの一週間を過ごしている。こうした実務を通じて研修として深めていくという姿がベンチャー的な教育の仕方といえるかも知れない。

初めての研修での渡米ではあったのだが、サポートリソースの問題もあり単独でお客様の現地支援に入ってもらった。これにより期待されるのは実務としての仕事の仕方が日々の日常発生する新たな問題に対して対応していくことで詰まれるということである。無論、一人で米国の仲間たちと対応することで早く英語耳を開けてもらうということでもある。残念ながら、よく仕事をしてくれるチームメイトはすでに我々の日本語英語耳を開いているので、彼ら以外の開発技術者との問題解決のやり取りこそが彼の研修の真骨頂ともいえるかも知れないのである。問題を期待するわけではないが、問題が解決されていくことを期待して、その過程で彼がキャッチアップされて彼自身の端末開発での経験がお客様へのサポートに活かせる段階に早く入ってもらえる手伝いになればと思うのである。

M君やN君などのように十分な経験を持ちつつも、任侠的なメンタリティーや英語会話といった面で踏み出せなかった技術者達が踏み出そうとしているのは、やはり世紀を越えてからのような気がしている。四年前に世紀末に悲観していた技術者がいたようだが、実際問題、世紀を越えてからはM君やN君のように自立した技術者が出てきたりしているのが実情で変化には対応していける人材が出てくるものなのかも知れない。最近知ったことだが、ある会社ではいわゆる第三世代携帯電話開発でのチップセットモデム周りを10名ほどの社内外メンバーのみで構成している会社もあるようだ。携帯開発の悲惨な状況を聞く中で、少なくともQuad社としての果たしている役割は十二分に世紀を越えて良くなったといえるのではないかと確信するようになってきたのである。次の課題に向けて日々足元を固めつつ、変わろうとしていくのがベンチャーであることの証になるのだろう。

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