業界独り言 VOL268 Mr.エンベデッドを捜して

イチゴの季節から桜の季節に移ろい春一番が吹いたりもしたのだが、季節の変わり目には不幸も訪れてくるようで親類や知己の訃報が届いた。大叔母が紀元節を前に、97歳で逝去したという連絡が入ったおりしも母の誕生日の挨拶の電話口から聞こえてきた。100歳までは生きるだろうという元気のよい人であったのだが、具合が悪くなったのは年が明けてからだという。悪くなるきっかけがあると年老いた人達には厳しい状況になるようだ。自身の親の世代についても同様な事態は起こりはじめていてH君の家では義父がなくなったということだった。年老いた人に限らず訪れる訃報は、人からのメール返送に書き入れられた知己の訃報などからも、自身の年代も含めて健康管理について改めて考えさせる事態でもある。

組込みソフトウェアのレボリューションともいえる事態は、携帯でも始まってきていて開発速度の更なる要求が製品コストならびに開発コストも含めての圧縮要請が各キャリアから発信されるようになっている。生産ボリュームと利益率のバランスから売れっ子メーカーなどは通信キャリアを選択する時代にもなっているらしい。生産ラインの余力を持っているメーカーなどにしてみれば、もったいない話とも映るのかもしれないのだが、自身の身の丈に合わせてのビジネス選択ともいえるだろう。無理をして通信キャリアに呼応するということのみが求められていた時代ではなくなったのかも知れない。通信キャリア自身も、転機を迎えていて来年に予定されているナンバーポータビリティなどのイベントに呼応していくためにも実力が問い直されているということもある。

「PDCの端末はもう発注しません」というような事態に陥るのは、目に見えてきた。特色ある端末と低価格でサービスしているキャリアは残るのかもしれないのだが、メインな流れとしては早晩800MHz帯でWCDMAが始まり塗り替えられるのは自然な流れになってきたようである。このチャンスに呼応できるのかどうかは、国内メーカーにとっての大きなチャンスでもありオセロのように駒が入れ替わってしまうことも想定される。3G端末で手に届くボリュームゾーンの端末が安価に供給できるのかどうかというのが時代の要求なのである。PDCとWCDMAの共用機が求められたりもするのかも知れないのだが、そうした一時の時間稼ぎに付き合わされてしまうメーカーもあれば、着々と開発コストを下げてボリュームゾーンの端末開発に照準を合わせるメーカーもいるようだ。

先の無い技術として通信キャリアから2Gとして切り捨てられる状況が予想外にも早く訪れたように感じるのは、私の認識不足なのかもしれない。トップ通信キャリアとしての伸びが打ち止めになり3Gとしてのみ拡大の余地が残されているのが実情なので、ユーザーが離れていく前に魅力的名サービスや端末を提供するというのが今回のFOMA新型モデルの意義なのだろう。言い換えれば、売りを立てたい仕事のための大きな投資が現在の仕事なのかも知れない。コンセプトや戦略で打ち出してきた通信キャリアとしては万全の流れの中での動きとはいえ期待する姿の実情が、コンセプトや戦略に矛盾が生じるかも知れないともおもう。大転換を求められる流れのなかで、海外端末メーカーへの納入依頼の期待値が、どのような形で実現されるのかは興味深いものでもある。

端末業界の期待値が、ソフトウェア開発方法論の切り替えや通信キャリアを含めたアプリケーション流通などをベースにしているのは見て取れるようになってきている。そうした期待値が過去の流れと矛盾してしまうのも事実なのかも知れないが最終的にエンドユーザーが下しつつある端末動向といった流れが後押しをしているようだ。差別化として搭載してきたアプリケーションプロセッサなどのハードウェアの差異は、ボリュームゾーンを狙うメーカーにおいては、アプリケーション構築での構築力不足を見せてしまう結果になるようだ。とはいえシングルプロセッサで期待を越すアプリケーションを構築していくのも至難の業ということにもなる。やはり組込みの技術力が改めて問い直されるというのが、業界の技術者への期待値でもある。ソフトで手抜きをしていたのでは競争力は生まれないのだろう。

次代の組込みソフトの状況が、プラットホーム化が進みゆく中で期待される組込みエンジニア(“Mr.Embedded”)とは、所要のシステム設計をハード機能をよく理解してUI回りでの応答とバランスを考えたソフトウェア設計が出来るエンジニアなのだろう。やはり消費電力事情はチップとコンパイラ任せというのでは心許ない。無駄の無い良質なロジックを考えていくことでソフトウェアとハードウェアの両輪を回していける姿なのだろう。リアルタイム制御一辺倒でやってきたユーザーインタフェースとの速度差などを省みない無駄なコーディングしか出来ない技術者は不要になり、無駄の無いAPIの上で構築するアプリケーションエンジニアとそれに呼応するAPIを構築していくプラットホーム側のエンジニアとに分かれるのだろう。アップルのアプリソフト開発などをしてきたエンジニアなども対象に入るべきかも知れない。

知己の中には長年Windowsでシステム開発をしてきた強者もいるのだが、彼などはこうした時代の要求に応える技術者なのかも知れない。TRONの流れに進めてきた技術者達も変身を求められている。アプリ設計のプラットホームAPI化の流れの中でシステム実現するために必要な技術として今までの自分達の成果をプラットホームの内側に残すというのが期待される姿だろう。データをコピーしまくるだけのロジックではなく、本質的にアプリケーションの動作を把握してプラットホームのAPIの内側と外側とで実装するという技術者が期待されている。端末機器メーカーが、近年取り組んできた開発環境のプラットホーム化の流れがこうした局面で応用を求められてきているようだ。たとえ利用するプラットホームが異なっていたとしてもシステム構築の考え方に立脚して進めていくことで対応が出来るはずなのである。

応用の利く人・・・とは、アプリケーションエンジニアということに他ならないのだろうか。確かにアプリケーションを知らないままに設計されたAPIや実装例などをみると、そのメーカーの先行きに不安を感じてしまうのも事実なのだが・・・。世紀を越えてから、ソフトウェア技術者が流動的になってきたとはいえ、まだそうした技術者たちが働く環境として応用が利く状況を示せているのかどうかは、まだ不明である。旧態然とした流れの中に業界の先行きを不安視した上で、殻に閉じこもってしまう技術者も多いらしい。弾けたエンジニアを許容出来ている会社などは、その部門がライトハウスになっているような事例もあるようだ。重厚長大な歴史をもつ重電メーカーの歴史なども、いままさに変わりつつあるように見える。却って端末機器メーカーとして先陣をきってきたところが変われずにいるようにも見える。

弾けたエンジニアからは、結構前向きに自身のロードマップを描いた上でのレジメなどが、届くもののそうしたレジメ内容が必ずしも要求するものとマッチしないのも実情である。中々”Mr.Embedded”なる人物からの申し入れはないのである。裏を返せばそうした人材が、適材適所でうまくメーカーやキャリアなどの中で仕事をエンジョイできる環境にいるからなのかも知れない。弾けた人材以前に弾けた周囲という事例もあるようで、私も以前見合いの席に出されたときに向こうのご両親から切り出された話としていつまで技術者をするのですか。といったことを聞かれたように思い出す。似たような経験をお持ちの方もいるのかもしれないがエンジニアとしての人生のなかでいつまでという形で切ることなどは出来ないかとも思ったりしつつ、当時「ソフトウェア技術者は30歳で定年だ」などという話があったりもした。

自分自身としては、「ソフトウェア技術者が30といったら16進なんですよ」と笑い飛ばしてみたりもしたのだが、やばい今年は16進でも30を迎えてしまった・・・。導師など周囲を見ていても48歳などでは、洟垂れ小僧の域を出ないようにも思えるので、新たなソフトウェア技術者の定年については論陣をはる必要がありそうだ。自身の中に前向きな姿を見出せなくなった段階が定年なのではないかと思ったりもする。殻に閉じこもって時の過ぎるのをただ只管待つというような姿では、定年といえるのだろう。技を磨き精進しているとまでは、いかないにしても前向きな気持ちで日々の仕事に立ち向かっているのであれば、きっと若々しいエンジニアだといえる。気持ちが定年にならないように、過去に自身で定義をした定年の歳を迎えつつ併せて五年目の節目を迎えている。

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