業界独り言 VOL329 身体あっての仕事です

父の逝去に接してから、同年代の先生などのことについても気になってきていた。今年は卒業して30年という節目の年でもあったので母校の近くのホテルでクラス会を実施することになっていた。学んだ頃の若い先生方ですら定年の時期を迎えることが続いていたこともあり、担任の先生は既に定年退官されていて、父と同年代でもあった。叙勲の栄誉があったときには担任だったクラスである我々も中心になってお祝いの会を開いたりしてきた。当時は米国出張中であいにくと出席は出来なかったのだが・・・。中年街道真っ最中の我々と付き合うのも大変でしょうが確かに父の年代となるとお加減が悪くてお誘いしても宴会には出席できないという回答だった。今回は楽しみにしていたこともあって、残念でもあった。

高専という学校制度ゆえ学科=クラスで五年間共にしてきた仲間たち結束は固いもので、急遽、低学年の時の担任だった先生をお呼びして結局20人近くが集まった。同窓会便りといったもので名簿作成配布などをしているのはいずこも同じでしょうが何らかの事由で連絡が取れなくなったりるものです。業界が狭いことも手伝ってか、仲間同士が一緒に仕事をしたりという接点があるグループもいるようです、電気工学科という分野だったのはベースとしても実際問題として電力系・弱電系といった仕事だけではなくて、人によっては宗教活動をしているものもいるし大学進学を果たした上で、さらに医学を志して大学に入りなおして眼科医をしているものもいる。まだ友の訃報は聞くことがないのは、ありがたいことでもある。

宴席が時間になると集まってきた仲間なのだが、どうにも顔が一致しないメンバーがいるのである。自分自身もその分類にあるらしく、髭面になっている現状が傍からは想像がつかない様子らしかった。とはいえ最近の仲間との会合には顔を出しているので、そんな仲間には知られていたのだが・・。すっかり髪の色がロマンスグレーとなってしまった仲間などは、先生と見まごうような状況だった。髪の毛を手で翳して隠してみると顔に面影を見出して、声などはまったく変わらない事実に気づくには食事とアルコールが必要だったようだ。互いの異なった歴史の時間を取り払い30年のタイムスリップに至るのには大して時間を要することはなかった。

今回の同窓会で30年ぶりにあった仲間もいた。海外赴任をしたりしてきた彼の仕事柄か、連絡が取れなくなっていたのである。まあ、30年も経ち要職に就くような状況になるとインターネットでググルと見つかったりするかのかもと駄目もとで調べると見つけ出すことに成功したのである。勤務先の電話番号を検索して今回は懐かしく話しが盛り上がっていた。彼にして見れば、30年間クラス会は開かれていなかったのだと確信もしていたようだったが。中々連絡を取り続けるということは難しいことなのだと痛感する。各地に散らばっていることもあり、宴席に泊まりをきめる仲間も六名ほどになった。今回は学校の文化祭の日程にも合わせていたので翌朝は学校訪問をして今年で定年を迎える先生に挨拶をしたり懐かしい校舎や学寮をみたり最近の施設をみて感心したりといったことで楽しんだ。

学生時代には玉子丼ぐらいしか頼めなかった時代だったなあと思い出しつつ、当時の食堂が近くに移転してまだ営業しているということを聞きつけて懐かしさも手伝い昼食をとりつつ、来られなかった担任の先生の家を訪ねることにした。既に学校の事務所を訪ねて旧職員の住所として確認してきたばかりであり最近の高性能なカーナビは、そんな目的にかなうものでもあった。電話番号と個人名がわかると地図を示してくれるようだ。30年前の紙テープの時代を思い返すと時代の流れのすごさを改めて考えるのだった。マイコンに出会い、さまざまな開発をしてきた自身の流れと合わせると余計に感慨深いものである。カーナビの開発で急逝をしたエンジニアがいたりもするし、いままたQuad社でGPSの仕事があったりもする。そんな思いに囚われながら先生を訪ねた。

先生の生きてきた時代である戦争前夜を学生として生きてきた流れをお聞きして物理を志向されてきた先生が時代の要求に応える形で、色の研究を国(軍)のために行われていたそうです。何に使うのかといえば、迷彩服の作成だったようです。南方の戦地の写真などを入手してはジャングルの部分などの解析をしていたようです。産学協同ということは目的の方向性はともかくとして昔からつづけられていたDNAのようである。そんな先生が通信や電気工学をベースに千葉大学を立ち上げたりさらには木更津高専の立ち上げに参加されたのは、本流だといえるのだろう。そんな母校創立の背景を伺いエンジニアを産業界に輩出するという目的を遂げられてきた先生であり、その結果として我々だといえる。卒業して30年という時の流れを振り返りつつ産業界に貢献しているのかどうかは各自の思いが異なるのかもしれない。

週が明けて会社にくると、西海岸の訃報が届いていた。9.11の際に帰国出来なかった仲間だった。気さくな性格で誰からも好かれていたマーケティング担当で、よくよくみると自分と同期の会社の入社だったようである。まだ若いパパでもあり子供たちをつれてオフィスにきたりしていたのも思いだす。心臓発作での突然死だったようで、先週渡米していた仲間は「金曜日に挨拶したぞ」といったのりでよくよく悔やまれる。一昨年も技術リーダーが突然死していたこともあり大会社の様相となっているQuad社としてはいたし方ないとはいえ悲しい出来事でもある。

 

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