業界独り言 VOL381 忘れていたわけではない

業界独り言は、どこかにいってしまったのか・・・忘れていたわけではない。世の中がおかしな兆候を明らかにしてきたために気持ちが固まらなかったこともあるだろう。新しいSNSの世界との調和を果たしていく時代になったのかも知れないしFacebookなどを介してのオープンな形態が望ましいのかもしれないからだ。しかし、他方ではこの世の中の仕組みから、ドミナントのものとの付き合いには一線を引くべきだとのこともある。なにせ、どうみてもおかしな状況が日本においても明らかになり早半年が経過しているからだ。考えて見れば、この前の投稿など「なんて幸福な脳天気な暮らしだったのか」と思い返す始末だ。この世の中は戦争状態だと考えてもおかしくないし、8.15のときよりもひどい状態が戦後ずっと続いてきたという事実もようやく認識したりする。平和ボケした現在の日本という仕組みの中では、尖がったことを書いても仕方がないことかも知れないし下手をすれば、渋谷駅の朝の雑踏の中で罵声を浴びせられて冤罪の状況に陥れられることすら不思議ではない。国策逮捕がまかり通るいんちきな国家なのである。

さて私に何が出来るだろうかというと、仕事では少なくとも日本という国に貢献しているとはいいがたい。ある意味では、日本の通信端末機メーカーの力を悪化させてしまった張本人の片棒を担いできたということかも知れない。無論、多くの仕事をうみ、今のスマートフォン時代を迎えるに足るベースを醸成してきたという自負もあるかも知れない。少なくともある意味で日本でのガラパゴス端末文化という流れの中では、既に大げさに言えば、当時の国内業界自身の開発力の低下があったのだろうと感じてもいたし、そんな中で手助けになればと思い飛び込んだ世界でもあるからだ。世の中は最後の様相を示しているという人もいる。東北大震災や福島原発のことなど日本という社会のベースを立ち直らせるための課題は難しくなる一方だし、その上で日本にハエのようにたかるハイエナのような国にさらにむしりとられる。それを甘んじて受け入れてさらに、そうしたストーリーを利用して架空マネーの世界で獏のように生きている人たちがいる。国を成り立たせるためのことを考えずに裏打ちのない紙幣ゲームに陥っている。

私自身も架空マネーの結果として借金というゲームを償却したりしてきたので、何もいえないかもしれない。その分、少しでも何か若い人に貢献したいと特別授業をしたいという高専の先生に寄付をしたりもしてきた。しかし、いまこの状況では若い学生が生きていくベースは何になるのか。国自身が成り立っているのは過去の遺産を食い潰しているのが実情ではないのか。毎日のように電車に飛び込む人が後を立たないのは、どうみても国としておかしい。夢が描けないということだろう。国の政治家で出来ることも出来ないこともあるだろうが、悪魔と取引している政治家たちがこの国の未来を売ってしまってきた歴史を私たちは知らないということだろう。知らないほうが幸せだという人もいる。細君などもその一人だ。911や311のようなテロを口に出していえないような状況では、まずエネルギーで自立することが最優先なのだろう。しかし、もし資源やエネルギーが潤沢に得られるようになった場合には今の生活や仕事を打ち払って新しい社会に進んでいくことに抵抗のある人が多いのだろうし、そうした人であるように教育してきたのだろう。

食料・医療・技術・歴史を正しく知らないままに暮らしている現在は、明らかに終末を予感させるものだ。私に出来ることは何か、ひとつでも正しいことを身近な人に見せることだろう。そうした結果として未来に希望を持とうということだろう。そうした目標に向けて暮らしつつも若いエンジニアの卵を育成したいということに変わりはない。私の説明の仕様のない悪夢のような現実認識を誰かが、夢だよといってくれることがあればそれはそれで幸せになれるかも知れない。でも、今はそのような話をかけてくる人を仲間と捉えるべきかどうか気をつけて暮らさない私自身が突然いなくなってしまうということすら不自然はない時代だ。まぁ物騒なことを考えてもきりが無いので、前向きなことを粛々と進めることにして週末は組み込みの里に篭るようにしている。

さて、組み込みの里は都市計画地域ではないので、インフラが整っていない。下水は、浄化槽で解決したのだがインターネットの件は、別荘に電話をひくべきか否かという話も含めて電話よりも光、catv、そして電話でのadslというのが一般的な選択肢なのだが、どれも無いのである。無論唯一電話を引けばadslは可能だろう。いままでは、3Gルータを持ち歩いて使っていたのだが従量課金ではないとはいえ回線リソースの使い方としては間違っているような気もする。wimaxがルーラル対応のシステムであるという点についてはアグリーしてきたので、こちらについても導入してみたのだが。あいにくと圏外ギリギリで、最初のサインアップ手続きにも事欠くありさまでした。
家中持ち歩いてアンテナが立つ点を探した結果・・・なんとか天候の条件や昼夜の差などからサインアップは出来たのですが、不安定だという状況に変わりはありませんでした。

知人が購入したWLAN向け八木アンテナを借りて接続しようかとコネクタを入手探索したり、輻射器のみ外してルーターユニットをつけてみたりとかしてきましたがスループットは上りが64kb内外、くだりはせいぜいうまくても3Mbps程度でした。アンテナは一本のままです。上海で売られているというパラボラアンテナがネットで見つかりましたが、国内で使うには怪しすぎるのですが、反射器として使うことは出来そうだったので、ジャンクとしてオークションに出ているものを国内のひとから買いました。ジャンクにする理由自体は、ケーブルロスなどの問題もあるのでしょうこちらの目的は反射器なのでジャンクで形状さえあればかないますので、入手してトライしました。ビームが鋭すぎるのが難点で中々良好なポイントを探せませんでしたが、最終的にアンテナバーが二本になり、上り1Mbps下り6Mbpsという環境が手に入りました。あとはどうやって恒久措置として設置するかになります。クレードルや防水箱などが必要です。

業界独り言 VOL380 スオミの旧き都から

さて、季節風ではないですが、フィンランドのJUMAと呼ばれるアマチュア無線機のキットが届きました。

仕様としては、DC受信機と、PSNとDDSによる送信機です。

これはSMDスタータとデジタルボイスメモリーオプション  表面実装部品が多いようです

こちらが本体のオールバンドトランシーバ(1.9-28MHz)、出力10WのSSB/CW対応でDDSとPSNベースの仕組みです

こちらが100wのリニアアンプです。デジタル表示ということです

業界独り言 VOL379 スーパーエンジニアの居場所

先日、前の会社で見知ったソフトハウスの方からメールが届き挨拶かたがた営業活動
に立ち寄りたいという話になった。とはいえ、直接の接点は少なく最近でも六年前位
に展示会で名詞交換をして面識更新をした程度だった。

そもそも、その会社との直接の接点は25年位前に無線機ソフトの刷新プロジェクトで
8ビットから4ビットへの移行をする中で付き合いをした程度だった。メールを呉れた
彼とは作業場所で顔見知りだったという事ぐらいであったことも思い出した。

かの会社には、俗に言う何でも自力で解決するスーパーエンジニアのTさんが居た。
私は、そのTさんとは33年前に一度別の会社でご一緒したことがある。大問題が、
あっても独力でコードと対峙して周りに罵倒するでもなく只管解決に向けてコード
を読み解いていく様はスーパーエンジニアという名前を想起させてくれた。
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業界独り言 VOL378 ゴールデンウィークから夏休み

タイトル登録したまま、いまや夏だ・・・。ゴールデンウィークをつぶして二週間ほど米国でお客様と缶詰だ。将来に禍根を残さぬための打ち合わせなのだが、過去の禍根が渦巻いている中でなかなか、その感性の慣性から抜け出せないような印象がある。リセットしたい、リフレッシュしたい、でもお金もかけられない・・・。今までの独自の世界から国際化の中での方向性と足並みをそろえようというトップ方針を体現していくことは大変なものであるのは間違いない。

ガラケーで世界を驚かせた、先進のスマフォ国家がなんだか標準化の流れの中でアーキテクチャを整理し始めるとなんだか覚束ない状況になっている。1Gのプロセッサを使ってサクサクなガラケーも出来るだろうし、楽しい新しい経験を提供する端末の提供も可能である。かつてクロック50MhzのRISCマシンのワークステーションに感動したりしたことも、1MIPSのVAXを占有した感激も最近ではどうも1Gのチップを使ってもなかなか味わえなくなってしまった。

1Mhz足らずの動作クロックだった8ビットマイコンで構成されていた自動車電話では、アナログの呼制御や、メモリーダイヤル程度のことしかできなかったし、自分たちで定義したハンドオフ制御を自社電子交換機の上で実現したりしたのは四半世紀前のことだった。いつの時代でも働く仲間は巻き舌のインド人技術者だったのはなぜだろうか。8kB足らずのメモリ空間にビットレベルでの情報を押しこんでようやっと実現したオリジナルの電話機は、システム仕様がいつまでも固まらず変更の嵐から逃げ出したソフト担当者の尻拭いだったりしたのも事実だし、その意味でも最先端の技術だったのだろう。

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業界独り言 VOL377 チップ屋の思惑は・・・

世の中が不景気になる中で、過去の方向性が修正是正されていくことはままあることだ。アプリケーションの互換性を議論するに足る使いやすいプラットホームが登場すれば、見る間にアプリケーションもユーザーも付いてくるというのがiPhoneなどで分かったことである。箱根細工のような緻密さと思ってきた国産の携帯の実情は、実は熱海の温泉宿の状況だったともいえるだろう。柵と、その先にある未来にわたる架け橋を構築することは、ほとんど誰もなしえていないのだろう。全くの門外漢として柵なしに構築してきた事例は確かにあるのだが、柵の中から解決策とともにシームレスに改善を見せてきたことはないように思える。

アンドロイド端末の登場で不景気な中にも、活況を呈しているように見えるのは開発の中にあった柵が淘汰されて、インターネットで結合されたような状況に組込み事情が変化しようという胎動なのかも知れない。知己も含めてアンドロイドをケータイのための物だとはほとんど思われていない。無論ググって開発するようなスタイルの中で誰もが開発に参加をするような状況になる・・・。これではプロプライエタリな世界を構築してきた流れなどからみると共存が難しいのだろう。ムーアの法則とWinWinな関係でデバイス開発とリソース使いを拡張してきた・・・。こうしたエコロジーから外れた取り組みは切り捨てられようとしている。

ケータイとPCの鬩ぎあいから、接点上のスマートフォンあるいはUMPCといったボーダーライン上の端末の位置づけも経済状況の中で変り進化をとげている。三年前にUMPCの先駆けともいえるXPのミニノートが出た。果たして試しては見たものの、このサイズにこのフォントサイズでは・・・読めないのである。UMPCが求めるものは、若さなのだろうか・・・。おじさんフォントサイズでの運用では、UMPCが生かせるとも思えないし結局のところNetbookとしてサイズも性能も含めてもう一つ皮むけた端末の登場を渇望するものとなっていた。SMARTBOOKというコンセプトが日本からも承認されるとよいと思うのだが・・・。

ガラパゴス携帯と評されてきた、従来までの日本のケータイは、最近のiPhoneやアンドロイドで構成されるスマートフォンとは明らかに異なるものだ。しかし、その背景にはキャリア独自のアプリやセキュリティ確保への取り組みなどからオープンに出来ない部分もある。まあ単一のモデルですべてをカバーできるという考えが間違っているのかも知れないし、多様な端末を受け入れるべきととらえるのが正しいのだろう。とはいえ、日本発の端末設計があってもよいではないかと思うし、今までのDNAを反映したものであっても面白いと思うのだが、今の世の中では開発費用に依存するスタイルとなっていて、結局のところGoogleのようなスポンサーであり開発元がいるという形態でないと使えないということになっている。

高尚なお話で開発を考えようとしてみても、昨今の開発費用を抑えるために共通化されたプラットホームの悪弊か各OEMの基礎開発力の低下あるいは、基礎学力の低下が開発現場を混乱させているのも実情である。学ぶための正しいサイクルがないということで開発力が低下するというのは致し方ないものだろうか。「提供されたライブラリがシンボル付きとなっていて肥大化しておりROM容量をひっ迫しています、商用モデルがメモリ不足となってしまうので即刻デバッグシンボルなしのライブラリを提供してください、この点については開発元のキャリア様にも要請して承認済みです」などという話がまかり通っていて、下手をするとこの要請を聞いている仲間までも汚染されてしまいそうである。

心配に及ばない状況なのか、心配するのは別次元の状況なのか・・・若手の問題か、会社としてのサバイバル力も怪しいということになってはいまいか。

業界独り言 VOL376 Bフレッツにサヨナラ

ISDNを引き入れて、ネット接続したのはもう10年以上も昔の話だし、Bフレッツが始まり早速加入してからも大分月日がたった。ようやっと1Gbpsのフレッツ光ネクストに切り替えとなった。固定IPアドレス契約でしてきたAsahi-Netのサイトで更新すると、Bフレッツとは異なる固定IPアドレスの払い出しアカウントが渡されて新しいアドレスとなった。となると自身で運営していたDNSの登録なども更新する必要があり、さらには無償登録していたOpenDNSのサイトへの登録を切り替えると自己矛盾に陥ってしまう。すなわち自分自身のアドレスが変わってしまったので、こちらからは、Whoisあたりからの再登録を余儀なくされるのである。

ドメイン屋さんでセカンダリDNSの登録を最近では無償で受け付けてくれるようになり、このあたりの状況は格段によくなった。何せ月額九千円のBフレッツベーシック料金を払い続けてきた我が家では、プロバイダ料金と合わせると14000円ほどは支払ってきていた。さらにCATVにも加入していたこともあり、このあたりの金額も含めて、地デジ移行に伴いパススルーで受信しはじめたことなどからもCATVも光に切り替えて、さらに電話自身も光電話への切り替えなどで大きくコストダウンが出来そうな状況でもあったのだが、きっかけ地デジの4-6chの受信品質のブロックノイズなどの劣化によるものだった。

一年ほど前に買い求めた液晶37インチのテレビは、小さいとはいえないものの我が家にとってはこれ以上大きなテレビはおけないサイズ上限のテレビだったし、最近までは、あまり地デジの番組は見てはいなかった。不景気で良い番組制作がなされないことなどの影響もあったのだろう。タイムスリップで江戸と現代を結びつけたJINを見るようになり、どうにも絵が崩れることについて耐えがたい状況となった。周期的に発生するブロックノイズの要因がCATVのラインの障害なのかどうかも判然とはしないものの、光にすれば改善するような漠とした気になっていた。あきらめていたところ実はビデオ録画したHDDレコーダーでの映像には何ら問題がないことが分かり、急きょテレビ自身の修理を要請することになった。

こういった機器は、1年あまりで故障することが通例だが、幸いにも保障期間を延長していたことで無償修理となった。きていただいたサービスマンの方は受信映像を保守モードに切り替えて内蔵ユニット側でのdecode障害が発生している由を確認してユニット交換の判断をし分解をしてユニット交換を行い、確かにエラーが無くなったのを確認して問題解決をみたように、その日からしばらくは思っていた。コストダウンも含めて光工事になったのはその翌週だった。配管を使って、コンクリート内部を通して光終端装置からの同軸なども配線工事を巧みにしていた。最終的に屋根裏にあったCATVからの引き込み配線を光からのそれに切り替えてすっかり問題も費用効果も改善を図られて乾杯をしようとしていた。

とつぜんまた画面が崩れた、1週間でユニットが壊れたのか?そうは考えにくい、光フレッツテレビの送信レベルに問題があるのか?ともあれ、HDDレコーダーに障害がないことは確認していたので、以前よりは安心しつつまた修理をよばなければならないかなと考えていた。同様なモデルで地デジの受信障害で困っている人の書き込みをネットで見つけてこちらの状況などを報告していたのだが、その人からの書き込みに気になるフレーズがあった。2.4Gの影響を受けているらしいというのだ。そういえば、我が家のテレビも背面に最近はアクセスポイントを立てている。以前は、スピーカの上に露出していたのだが、場所を変えていた。・・符号した。

さっそく、アクセスポイントを離れた場所に設置して様子をみた、解決している。テレビの背面パネルがプラスチックでありシールド効果がないことと、アクセスポイントが不定期にビーコンを投げることが原因だったのである。アクセスポイントで抑圧されてもいたようで、離したことで受信レベルも5段階ほど向上していた。HDDレコーダーはケースが金属でシールドが効いているので影響をうけなかったのである。これで問題のうち、テレビの受像問題は解決をしてコスト問題も解決をみた。

残った問題は、新アドレスでのサーバー公開の問題だった。新しいNTTが持ち込んだルーターがなぜかDMZでの運用を許さないというような振る舞いでどうしてもWAN側のアドレスに見えるのは、ルーター自身だったのである。PPPoEのブリッジ機能をセットして旧来のルーターをシリーズにしてとりあえずの運用とすることで解決をはかったのだが、せっかくの1Gpsの性能がこれでは活かされないのである。まずは、このページが普通にみなさんからアクセスできるようにまでは戻ったのだが何事もなかったかのように運用を続けていくことのむずかしさをまた再認識したりしている。

業界独り言 VOL375 神無月に向けて

出雲大社への旅行を兼ねて、出かけるつもりだった。米子高専の先生を訪ねて学生相手に講演をするためだったのだが、副次的に付けていた出雲大社への旅行は直前の情報調査でキャンセルとなった。現在は式年遷宮に入っていて出雲大社のお社を見ることが出来ないからである。四年かけて行われるということなので、出雲大社への参拝は四年越しということになりそうである。先の楽しみが増えたということが正しいだろう。米子高専と言えばロボコンが有名であるが、最近はプロコンでも名をあげている。

組込ソフトの世界で仕事を始めてからの経験や高専での学生生活から就職にでる過程での想いなどをまとめてプレゼンテーションにつづった。エンジニアとして仕事を始めるまでのとっかかりと、エンジニアとして遭遇するだろう経験などについてをまとめて述べた。エンジニアとしての拠り所をしっかりと持つべきだということも併せて説明したのだが、まだ時期尚早で理解できないかもしれなかった。いずれにしても、彼らにとって竹の棒に見えるような計算尺の世界から現代までに至る程度のギャップを説明した。そして、それは彼ら自身がこれから遭遇して学んでいくことに相当するのも事実だった。

自らが真剣に、それこそ死ぬ思いで取り組むことはエンジニア生活でかならず一度はあることだろうし、そうした地獄をみるような中から得られた極限状態での頭脳の回転が新しい世界を切り開いていくのも事実だった。そうした経験をつまずにエンジニアから管理職に移っていくようなことでは、将来の絵も描けない状況に陥ってしまうということが私の懸念でもあった。今回の講演の対象者は、五年生の全学科ということであり、すっかりゆとり教育を小中学校で経験してきてしまった世代である。それでも好奇心をもち高専を志望して、五年生まで進んできた彼らには伝えたい、伝わってほしいことだった。

講演では80分あまりを熱く語り、残された時間を質問の時間に充てたのだが、質問された内容はエンジニアとしての地獄を見た中近東向け自動車電話の経験のなかで「実際の設計担当者達に去られてしまい呆然としている状況で何を考えていましたか」だった。私自身が思い描いていたのは、全社プロジェクトで肝いりで取り組んできた自動車電話システム一式開発への挑戦。そして当時世界中から嘲笑にさらされてきたそのプロジェクトの志向する新アーキテクチャを稼働させることで見返そうとやっきになってきた。その努力の積み重ねを移動局開発の管理不行き届きで危機に晒してしまったことへの責任感でもあった。そうした極限下でアイデアを絞りだし自らのクロックアップを果たすことが出来たのは神のみ業だったかも知れない・・・と。機械語への関心をもっていただいようだった。

こうした経験で心に織り込まれたエンジニアとしての心のよりどころは、その後のエンジニア人生に大きく影響を与えたし、世界に類を見ない大規模システム開発の一部を担わせていただいたことが心の糧になったといえる。その後の無謀ともいえる、Z80でNECのコンピュータシステムをリプレースするような挑戦すらも完遂させたのである。ベンチャーライフをある意味で謳歌してきたエンジニア人生だったが、その会社の組織としての老化などから自分自身の居場所としての疑問を呈するような状況になり、転職することになりもした。その後の転職生活での思いのたけやら仕事への夢なども語りはしたものの時間も限られていたし消化不良になったのではないかと考えている。

発表が終わったあと壇上に質問にきた、若いエンジニアは「どんな資格をもっているのですか」と質問を寄せてくれた。私のエンジニア人生の中で資格を取るような状況ではなかったのだが・・・「資格を示すことで理解を得られる会社もあるでしょうね、でも私たちは簡単な質問でその人の理解度を確認するようにしています。」と文字列転送の関数のコードを示して「たとえばC言語のこの関数の間違っている点を教えてもらうというのが例です。」アルゴリズムをC言語表現から理解できた問題の認識と対処について期待しているのだが、疑問符を隠せない雰囲気の学生には「チャレンジして理解して超えてください」とエールを贈った

業界独り言 VOL374 ETロボコンという教育スタイル

工学院大学で行われていたETロボコンの東京地区大会会場を訪れた。組み込みソフトウェア開発のスキルを競う、モデル設計のレビューと実践性能での検証をかねた形の実践でもある。参加者の対象は、組み込みソフトウェアの会社あるいは、エンタープライズ系からの移行組、またはオブジェクト指向を学ぶ学生あるいは一般・・・。LEGOのMINDSTORMで出来たNXT走行体という共通仕様のロボット群を駆使して、ソフトのみを純然と書き込みトライアルコースを正しくトラックして、あるいはその中のトリッキーなポイントを技を駆使して走らせるということになる。

ちなみに、今年から適用されている新しい走行体は、NXTというもので二輪自立走行するタイプのAppleのあれに近い。さぞや制御が難しいかと思うと、必要な制御機能はドライバーとしてライブラリ提供されているようで、いわゆる技を駆使する点というとライントレースと動輪制御とセンサーからの情報認識ということになる。実態としてコース上に設置されたさまざまな課題に対してどういった戦略で臨むのかということがソフトウェアのモデルとして求められる。その意味では、組み込み制御という観点でのドライバーを開発するといった点が薄まるようにも思えるが一般にドライバー開発に重点を置かれるよりもUIとしての機能期待値に向けた実装で解決しようということなのかも知れない。

実際に高校生のグループやら、専門としてOOPなツールを開発提供しているソフトハウスなどの参加者までがいた。プロがツールでコード生成までも駆使しての実装デモをするようなチームもいれば、一生懸命UMLを勉強してソフト開発を学んでいる学生までさまざまでコースを取り巻く観客席の外側には、各チームが開発したモデルのソフトウェアの工夫がUMLベースで展示されていた。MINDSTORMの実態としては、ARMが載っているようなのだが、実装可能なコードはCまたはC++らしい。昨年までの走行体のモデルではJavaもあったようなのだが、二輪自立制御の処理が追いつかないからか、Javaの適用はないそうだ。

 

仕事の合間をみて、仕事では取り組めない新しい技術に挑戦してもらいたいという業界の流れと、実情としては、そうした技術を定常的には使っていないというギャップがこうした活動をある意味教育として提供しているのだと思う。ただし、完全走行もままならないような状況が続くこうしたコンテスト?コンクール?といった状況は課題が難しすぎるのか、モデルベースでの設計をさせることで問題となっているのかは別にしてもお粗末ではないのか。確かに良い設計 で、スマートに制御されていくものを見て学ぶということが期待値であり、設計を志す者たち同士でのワークショップや懇親会に力点があるということかも知れない。

二兆円市場を支える、エンジニアたちの祭典の出し物としては、今後の日本を支えるスーパースターが登場するという期待値でもなく平均点をあげる底上 げが目的なのだろう。ドライバーレベルにも別次元で取り組み協会提供のライブラリを使わずとも高性能を達成する。そんなチューニング提供するようなクラス の登場も待たれるような気がするのは期待しすぎなのか。ある意味無差別級なコンテスト?ではあるものの提示している環境で制限をしてしまっているのは残念 な気がする。無論、共通のハードを簡易に提供するというくだりで考えていくと管理運営も難しくなってしまうのはやむなしか。

まともな設計をさらりとこなし、ロボットがスムースな身のこなしで技をクリアしていくということでソフトハウスの技量も評価されるという意味では、 よい広告塔になるのかも知れない。先日若手学生にアセンブラベースでのシステム開発の感激を味わってもらいたいと送った寄付金も、MindSTORMの ETロボコンに向けた追加の寄付を考えても良いのかも知れない。

業界独り言 VOL373 組み込み技術(ET)の深みに嵌って

1999 年7の月から始まったローリングストーンのような展開に転がり続けて10年の節目となった。いったいいつからこの仕事をしてきたのかと思い返す。すると体 験してきた様々なエンベッデッドな仕事が実は関連してきたのかと思うような感覚に襲われたりもする。見知った見知らぬ世界に飛び込んで実は孫悟空が飛び 立った釈迦の掌の中での10年だったのかも知れない。ここまできたぞとマークをしてみても、デジャブのような無力感にさいなまれたりもする。仕組みを理解 しようとしない世代の人たちが最前線で仕事をしている日本の組み込み業界の怖さを見るにつけ、進化したのか劣化したのかと悩んでしまう。

理想を追い求めようとしてもビジネスとしての昇華を果たしつつという流れが、邪魔はしないまでも足かせになったりはする。湖上に敷き詰められたとい うよりは浮かべた茣蓙の回廊を走って渡り切るといった達人の映像をみた。常人では5メートルも進めずに湖水に消えてしまうのだが、50メートルあまりの水 上の回廊を走り切り、船にタッチをして、岸辺まで帰ってくるという。この技に到達するには、20年の鍛練が必要だったという。ソフトウェアの世界において は、どんな鍛練でいったいどんな能力が身につくというのだろうか。突然いろいろな現象からの推定の結果がシナプスとしてつながりゴールに到達するといった 感覚もそうしたものの一つかもしれない。

インド人やフランス人など様々な人種の仲間たちと一つの仕事を通してお客様に開発支援というビジネスを展開していくと、コミュニケーションの障害と なるの互いの文化、慣習といったものだったりもする。相手が違う感性の人種であることを理解した上での共同作業をしていくということが必要だと達観するに は数年を要したと思い返す。ベンチャー創業して25年を迎える会社と比較したりもしつつ何をしていたのかを回顧する時間は最近の重要な時間でもある。週末 には、ETロボコンの東京地区大会の観戦にいくことになった。ET技術の中での取り組みということでこじつけてみても楽しみである。

ET8200という機種名で開発してきたのはザイログのZ80ベースのマイコンボードシ リーズであり、16ビットな空間をアセンブラベースで開発していた。ライバル機種はなにかといえば、ACOS450シリーズというNECのコンピュータシ ステムであり嵐の中を突き進むなんとかドンキホーテとサンチョパンサのような無謀な戦いだったのかといえばお客様に必要な機能は提供しつつ競争には打ち 勝ったというシステム開発だった。アセンブラベースでネットワークでブートをして共有DBを照会する日本語表示のシステムを開発したのは、無線機のビジネ スを勝ち取り、お客様の問題解決に必要なシステム構築するというテーマでもあった。

イベント駆動でトランザクションが交換可能な複数ユニットが通信できるバス接続のシステムを作ったのは、実は100人余りの設計人員を投入して御三 家の電子交換機開発に対抗した分散処理型の電子交換システムの開発を横目に見ていたからかも知れない。既成のHPIBのデバイスを用いてZ80とDMAの 組み合わせで開発した分散処理システムは確かにACOS450で構築したRDBのシステムを凌ぐ性能を叩き出してはいた。違いがあるとすれば、ITの方々 が独自に開発しうるようなシステムではなく作りつけ機能に固執したことがあるだろう。お客様のジャーナル処理が実際には最も性能が出ない構成になったの は、当初のシステム性能比較あるいは設計時点で想定していなかった機能だったからでもある。

当時は、Z80でアセンブラで開発していれば出来ないものは、無い・・・ぐらいにとらえていたかも知れない。一年ほどの開発期間で照会系アプリの開 発や、システムを構成するRTOS、ドライバーの開発などを行いGDCを駆使して漢字表示をグラフィックスで実装したりしていたのは、少し国民機と言われ たNECのパソコンの少し前のことでもあった。デバイスはほとんど国産パソコンのような様相で作成した専用システムだった。そしてこれを仕上げてしまっ た、このベンチャー気風の漂うチームでの取り組みには確かに勢いがあった。TRONとは似つかない馬鹿なコーディングを許さないといったポリシーのデザイ ンには、設計したコード自体が他人を慮って最高の条件で動作するということを自然と実現するような流れだった。

ただし、プロの集団での作業とはいえアセンブラーベースでの開発や、Unixではない開発環境で大規模な開発をしていくのには構成管理面では、まだ まだ大変な時代だった。バッチで注意深くアセンブルジョブを消化していくという流れは、のちのUnixの登場でmakeにより解決されるのだが、これはま だアセンブラーベースの大文字の時代である。リアルタイムトレースを使いトランザクションの流れをモニターしつつシステム構成での展開テストを駆使してい くのだが光ファイバー接続で高速UART接続を76.8kbpsで実現してみても複数回線をポーリングしながらサービスするよりも結局4800bpsで同 時4ライン接続をするほうがシステムとしては高速な動作となった。

データベースというにはシンプルなハッシュ検索による直接編成のハードディスク構成にはテストデータを用いたプロトタイピングをすることも必要だっ たが実際に使ったのは自前のFM8でのベーシックコードだった。640*400のスクリーンのピクセルをHDDのレコードに見立てると当時のディスク容量 に匹敵するテスト環境が構築できたので、ハッシュ衝突がどの程度起こり、差し替えといった処理をする必要があるのかということを試行確認してピクセルの色 が変化していく様をモニターしたりしていた。システム開発の責任がすべて自分たちのチームにしかないという切羽詰まった環境でようやく目鼻がつきだしたの は結婚式の少し前だった。しばらく婚約者にもコンタクト出来ないような状況ではあったがエンジニアとしての暮らしはそんなものだろう。

披露宴会場への祝電には、「あなたのソフィアが待っています」と意味深な電報があったのだが、細君やその友達の誤解はあれども、デバッガベンダーの 名前に過ぎなかった。デバッガーと戦っていた・・・そんな時代だった。そのくらいアセンブラーベースの開発は大変なものではあったが開発環境の向上も手 伝って1年あまりで、コンピュータリブレースを実現するほどの規模を作りうるような時代になっていたのは確かだった。もっと実機ではなく開発マシンの上で 評価や開発がしたいという思いに至るには、失敗の経験が必須だった。

システムは完成して、実際の展開テストで中部地区のお客様に納品したのだが、稼働していたNECのコンピュータを撤去して戻れぬ決勝戦といった緊迫 した中で1週間ほどの稼働を見守った。このシステムが繋がる無線センター卓を通じて、宅急便の集荷指示が名古屋の空を電波で飛んだのである。当該車両に積 まれているプリンターにお客様の注文データが印刷されたのである。本来の私がしていたのは、端末側の開発だったのだがシステム開発に借りだされての仕事 を、好奇心いっぱいにやらせてもらった貴重な体験でもあった。

このシステム開発後に、上司として加わったのは米国での先進開発スタイルでのプロジェクトを経験して、志半ばで戻ってきた寡黙なエンジニアだった。 このシステム開発を稼働後の拡張などに没頭している私に声をかけたのは、Unixベースでの開発を経験してきた上司からの小文字世界の誘惑だった。商品開 発としては完了したので、先進工事を進めるような仕事屋としては、次の好奇心の対象に飢えてきていた。技術トップの想いも手伝い、VAX11が導入されて 4.1BSDが導入されるにいたり、端末開発をC言語でやらないかという悪魔の囁きと契約を結んでしまうことになるのは、エンジニアの性だったろう。

業界独り言 VOL372 組込み開発に夢見る若手を

かっ こいい仕事がしたい・・・、将来性のある仕事がしたい・・・などといった少し前の価値観から最近の就業率の低下などから意識変化はあるのだろうか。むろん 時期としてゆとり教育で育まれてしまった心優しき若者たちが、厳しい環境に放り投げこまれてしまった。これは一縷に世の中の社会常識にかけた、意識ない心 優しき罪深い大人たちの所業の結果でもある。心優しき人たちが暮らしていけるような環境に日本はないのであり、資源も土地もない状況で前向きに生きてきた 先人たちの成果に甘んじてしまったのが大きな過ちなのである。子供たちの教育に関しての責任はすべて大人にあるのだが、そうした大人たちの教育自体が戦後 の歪んだ中で偏向してきた結果だろう。

明日に控えた選挙で、国家当局がこうした状況から変わることは考えられないし、悪くなる以外のことは想像もつかない。政治家に任せていて解決すると いう考え方自体が破たんしているのが、今の日本の国情なのだとおもう。しかし政治主体の方々には、もっと国情を正しく理解していただき国民が進めようとし ている仕事を貶めるあるいは邪魔をするといったことにはなっていただきたくない。そうした意味においてのみ政治家を選択するということが必要なのだと改め て認識をしていただきたいものである。

不景気な状況を打破して未来に向けた投資をしたい・・・といった会社としての取り組みなどには、それぞれの現状認識に基づいた来るべき未来に向けて の絵が描けているのだと思う。それが間違っていたとすれば淘汰されていくだろうし、そうならないために皆さん色々な合議や検討を続けて進められているのが 社会経済活動自身である。政治が果たすべきは、そうした社会経済活動を潤滑して動かすようにしていくことなのだが、そうした結果としての国の富の結果とし ての税金や手当の話に終始している昨今の状況では若手が夢を描けようはずもない。心優しき、若手を覚醒させて変身していただかないことには我々の未来はな いということである。

学校の教育システムそのものも大きな政治政策としての結果であり、時代の中に合わせていくことが必要である。社会経済活動が必要とする職の担い手を 輩出していくことが求められているのだが、プランなき心優しき競争心を持たない子供たちを輩出していただいても彼らを必要とする現場がないのである。国と しての老成化の結果としてなのか少子化となり、進学率は結果として向上するも、塾活動も破たんして、意識ない子供たちの意識ない学部設定が必要なニーズと シーズのマッチングが図られないことが学校現場で起き、それが社会経済活動に帰還されて状況を悪化させている。

意識ない平和の民を養っていけるような豊かな国土も資源も持たない我が国を正しく認識することが第一である。ただ平和の連呼を繰り返すだけのような 教育ではやつていけないのである。そうした教育者が、過去の歴史を封印してきたことの責任は大きい。しかし、これらは国家としての取り組みではなく隣国を 含めた諸外国からの妨害活動に基づく結果だったかも知れないが・・・。まあ50年も続いてきた自民党という名前の官僚と地域が密着してきた流れをリセット することに異議はないとしても、国家経営としての指針も持たずに経営破綻してきた歴史から甘言だけで解決するはずもない。

さて、現在の心優しき若い学生たちに苦言を申すではなく、厳しい世の中においても夢見つつ好奇心旺盛に生きていくことの意義をせめて教えたいという のが私が現在心がけていることである。地に付いた仕事をしていただき世の中に貢献することを心の拠り所にしていただくことの安らぎをぜひ伝えたいと思う。 今の経済環境よりも恵まれていたのか比較のしようもないが、高度成長からオイルショックでのリアクションをしていた時代に始まった経験のピースをいくつか 例にしていこうと考えている。懐かしい写真を整理しながら、組み込みの歴史とこれからの流れの中で想いを伝えるべく記憶を手繰りつつPowerPoint に手を染めている。

通信技術の進化、ソフトウェアの進化、インターネットの進化といったありとあらゆるものがドラスティックに変化してきました。問題解決の中での仕事 をしていくためのモチベーションの源泉は好奇心であることには本質的に変わりはありません。学生時代に学んでほしいことは、学び方であり現象をひとつずつ 確認検証していくことの手順や測定方法の理解と習熟です。実践的な高専といった学校で学んでいる若者ならばなおのことです。計算尺で計算しろとはいいませ んが、理論式に基づく試行実験のパラメータへの理解は必要かと思います。でもそれを通じて解決していきたい命題やゴールへの想いも共有できればと思うわけ です。

機械語で始まり、A(アセンブラー)、B(Basic)、C(Compiler)といった流れで、あるいはさらに踏み込んだOOPな世界の入り口に 立ち、挫折や転機を超えて開発プロセスとしての意識や3G開発サポートというビジネスを通じて組み込み業界へのハウスドクター的な10年あまりの体験など バラエティな内容から取捨選択を回りのご意見番から意見を聞こうとしているこのごろでもある。