熱海会談ならぬ、強羅合宿

昭和の佳き時代では、電機会社にいると会社の研修とかで篭もって企画を練ったりすることはよくあった。とはいえそんな先輩の流儀に沿った活動が自らの仕事に大きな成果を出したのは平成に入ってのことだった。まだ当時のメーカーとしては上り調子で景気が良かったこともあり、気楽に検討会議に参加という出張伝票が簡単に発行通用していた時代でもあった。こうした余裕が新しい流れを生むというのは、 正しく認識はされていないようだ。経験者が伝えない限り有効性について伝承する術がないかもしれないのだが・・・。そうした経験者に限ってスピンアウトしていってしまうようだし・・・・。

当時、精神矯正教育がなされていた、ある電器メーカーに奉職していた時期には、創業者の歴史として熱海会談という大きなイベントを習っていた。曲がり角に立っていた販売店との関係改善において、販売店主らとの対話会を熱海の旅館で行ったというくだりである。社主が反省の弁を述べた上で共存共栄というスローガンを繰りだし団結を得たというものである。そんな会社のDNAがあったのかどうかは知らなかったのだが、「ちょっとアイデアがあるんだけど識者を集めて議論したいんだけれど・・・」と繰り出してきた仲間のYからの相談を受けて書き出したのは、このアイデアに対する勉強会としての合宿研修だった。当時使いだしたオブジェクト指向の使いやすさにすっかりはまった私の良い教材として、この案内状は作成されて配布がなされた。

熱海合宿で選択されたのは、安い公共教職員組合の温泉宿で会議室を二日間借りるという内容だった。招集したのは、ハード屋、システム屋、企画屋、ソフト屋、数学屋、方式屋いろいろなエンジニアたちだった。私は単なる端末ソフト屋あるいはアイデア屋という位置づけよりは、幹事になっていたようだった。お題は、Yが考え付いたのは当時の米国携帯電話AMPSシステムと共存する小電力のAMPS周波数で動作するコードレス電話システムというアイデアだった。実現性に対しての課題についてシステム面、ハード面、ソフト面、法令面などの議論をするということだった。日々携帯電話のシステムや端末開発に明け暮れている仲間たちにとっては新鮮なアイデアに対していろいろな議論が出来た良いチャンスであり、所属していた通信方式開発室といった組織名の面目躍如といった趣も室長にはあったようだ。

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