VOL33 携帯電話は生活を圧迫している? 発行2000/08/17

携帯電話の技術で暮らしている、私たちは正しい認識を持たずにはいられない。昨今、自分自身の感触としても気になっていた事実が新聞に掲載されて明らかになった。今の不況をあおっているのは携帯電話の通信費用らしい・・・。i-MODEとかメールでの通信が日常化した今、日常化していない通信費用の問題は個人のデジタル係数を押し上げている。通信費用の日常生活とのアンバランスは、不況の中での生活バランスを変化させているのは確かなのだろう。メーカーにいると製品開発のうねりのなかに飲み込まれていて自分達の製品の開発競争と、それに伴う製品寿命の短さとがあいまって結果として自分達の生産付加価値を下げているのではないだろうか。開発した商品が二ヶ月と持たずに価格ゼロのレッテルを貼られて斡旋されているのを見るのは日本の異常さを物語っているのではないか。
 
私はかつて、PHSの端末が10円で扱われるようになったときに通信の世界にも水道哲学が達せられたのかと感じたことがあったが、まったくの誤解だった。必要だが、潤沢にある水道の水と、不要にあまってしまった社会の公器を浪費した残骸を前に誰もが手を出さないという状況は異なるのである。エキサイトしたこうした競争に対して端末価格を自由競争という範疇でみれば国が出てくる筋合いではないのだろう。電話代の料金改定という流れが解決されるまでは、携帯電話の費用までは回ってこないのも事実だろう。PHSと携帯電話はもともと異なるターゲットを想定したものだった。ベルからPHSに流れ携帯にいき、愛のサービスに入った。i-MODEが出来れば、電話はいらないという人にとってPHSで動作するi-modeがもっとも合うような気もしてくる。
 
パケットの課金を細かく設定すると管理コストがかかり、ひいては基地局の能力を圧迫することもあるらしい。課金を考えないスループット議論をするには携帯電話のバンドは、混みすぎている。不平等にも平等にバンドをシェアしている状況下では、比較的空いているキャリアのPDCに走っている姿も納得がいく。こうなると全国区のキャリアは、エリアが命になっていてビームを富士山に向けてどこでも携帯を可能にしようとしている。昔ならアマチュア無線でやっていたような楽しみは、どこかに消えさってしまったようだ。こうした携帯電話の活況とは異なり、日本の空をスペアナで見ると興味深い事実が出てくる。空いているバンドがあるのだ。既得権や財団法人という形でガードされたバンドでは利用方法の模索が続いている。開発時間やコストが折り合わないと顧客はどんどん流出していくのも事実なのだろう。
 
タクシー無線やトラックの集配なども課金の問題が解決すれば専用無線にこだわる必要はなくなってくるのだ。お客様の顔が見えていれば、自分達の出来ることを素直に説明して撤退することも一つの選択かも知れない。また新たな技術導入で抜本的な手を打つのもこうした業界をリードしている会社の務めであろう。携帯電話がCDMAに移り一時的な不自由をお客様にかけてインフラの再整備としての仕事にありつく姿は、高速道路の引き直しにもにたものではないか。こうしたことを可能にする予算が、庶民の生活バランスを逼迫するほどの状況に陥っているユーザーからの費用で成立させているのは美味しい絵空事を見せて麻薬を販売しているのと同じなのではないか。

吉野家やユニクロで生活を切り詰めて価値観を変えようとしている消費者の前には百貨店も無用の長物となってしまった。携帯電話の通信費用を下げるための技術開発努力という観点は、エンドユーザーの為であると思うのだが、いかがなものだろうか。そうした目的を持ちつつ次世代の携帯電話の開発が進められているものだと私は信じているのだが、人によっては誤解だと私を指摘する人がいる。だれか反証してほしい。社会の公器を用いた事業という観点で、社会を弄んではしっぺがえしを食うと思う。インタネットは、超個人消費を支える技術だという人もいるが、情報共有すると、いらぬ情報発信元の合理化を行なう技術でもある。
 
こうした改革の意識に基づいて仕事をしているつもりなので、人にためになるのは実際にはリソースを使わずに達成することがもっとも人々に利益を還元するものだと私は理解している。不要な開発を集約して行なうことで合理化されるのである。このことは、一面人の仕事を奪うのかもしれないと考えるが、それは価値の無い仕事ということに他ならないのだろう。自分達の進めている仕事の付加価値を本当に突き詰めて考えて仕事を考えていくべきではないだろうか。ある通信機メーカーの人が吐露していたが、本当に「あの会社には何人技術者がいるんでしょうか」と投げやりに質問をしてきた。私たちにはソフトウェア技術者は、200名ほどで多くのチップの開発にあたっている。私たちも不足していると認識はしているが、有用な人材を集めていくのは大変なことでもある。自社技術なのだから社員の育成でしのいでいくのは当たり前の姿なのだ。
 
当たり前の姿だと公言されて、リクルートにあたる。日本の国際感覚の少ない技術者という姿を目の当たりにすると米国の上司の言うことに突き当たる。技術屋さんの生活は競馬馬のように前しか見えていない。騎手がいなければコースもわからないのだろう。騎手を信じてただ走っているのかも知れない。隣が走るから自分もひた走るのだろう。次世代の携帯電話の採算割れが指摘されている。このままでは、ますます不況が深刻になる。光通信のような逆ざやだけで株価を押し上げたような無責任な仕事と同質に扱われては、たまらないだろう。「懸命に開発しているのだ」という気概は開発者にはあるはずだ。先を見ている技術者は少ない。さらに先の見えている技術者はもっと少ない。今の仕事が止る筈がないと信じているのだろうか。
 
英語の出来る技術者を求めて、中国人技術者と話をしたが、彼は日本の生活が長いために思考が日本語になっていた。英語に訳す前に日本語に訳してしまうのだ。これでは駄目だ。やはり日本の会社のグローバル化はひどく遅れていることを今更ながらに痛感した。見知った技術者を尋ねて、折り合えば相互の会社のためになることだという私の思いに賛同しつつさらに彼が私たちの仕事に興味を覚えてくれれば・・・という離れ業でようやく辿り着くしかないのだろうか。その会社にとって彼が活かされて入れば私は声をかけたりはしない。声を、かけるのは活かされていないと感じ、彼または彼女の実力が通用すると考える人にのみ声をかけているのだが、冗談のように扱われてしまうのが常だ。ようやく実績がいくつか出来ようとしているのではあるが、目標とするレベルへの到達は厳しい。

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