VOL52 あたりまえという異常さ 発行2000/10/27

今週の月曜日から始まった日経朝刊の特集は秀逸だ。教育現場で起こっている異常さは、以前から言われていた問題について特に月曜日の初回は一面を飾って特集記事となっていた。内容は一面を飾るにふさわしい事件だった。あたりまえのことが出来なくなっている、現在の若手人材をベースにすると日本沈没というフレーズはふさわしいものかもしれない。

字が読めないという文化が形成されてしまったらしく、厳しい経済情勢に拍車をかけるのがこうした人材の能力不足なのであろう。大学の入試をなくしてしまい、卒業を難しくしたら何のために入学するのかが明確になるのかもしれない。入試を楽にしたら、予備校が成立しなくなるという理由で、どこぞの議員族などを利用してクレームをつけるのが日本の習慣かもしれず、こうした事態は望まれて起こるべくして起きているのかも知れない。

価値観・倫理観などというものを教えることもなく、ただ徒に進学を求めてきたのが英国破綻と同様の状況というのも正しい認識かも知れない。明らかに日本は、このIT産業革命の時代を乗り切るだけの人材を抱えていない。首相がIT革命だといって金のばら撒きをしても「超むかつく・・・」ことしか出来ない若者たちに「超感動した・・・」というフレーズを言わせるようにはなりえないだろう。

出来の悪いのは、学生だけではなくて既に会社にも蔓延している。本当の意味でケータイを開発しうるメーカーは残っているのだろうか。半年事の新製品展開に際してマニュアル本を用意しないといけない時代になってしまっているようだ。管理能力のみが会社を支えているとしても技術管理能力が著しく衰えているのはなぜなのだろうか。まだ、そうした影響を受けていない世代の方々は、各会社の部長さんクラスのみであるようだ。

今新製品の展開でサンディエゴの開発メンバーと会社に紹介方々飛び回っている。規格をあげつらうだけの人や原理からの応用を知らない人々が技術者と称して出てくる。商品として展開している会社としての価値創造に対応できるとは到底思えない状況に出くわしもする。原理を教えて応用能力を育むという教育は、まったく出来ていないというよりも伝承すらなされていないようだ。カタログの比較しか出来ない人を技術者とはよべない。

新規のフィーチャーから未来を洞察した上で出されてくる質問に答えていく場面に遭遇すると安心するのだが、そうした答えを誘導尋問していかなければならないのだ。若い技術者からは競争商品との能力比較で不十分だと指摘をうける。動作させるアプリケーションから導出した能力比較で足りる足らないということには言及できないのである。ある能力で動作するアプリケーションよりも高い能力を持っているチップの場合には、過剰品質で同一のプロセスで作るとすれば消費電力も増大してしまうことになる。

時期と提供できるサービスとチップのプロセスから導出される消費電力などとのバランスを考えての戦略を説明して納得していただいたのは、まだ異常な事態に冒されていない、部長クラスの人のみだ。本当にこの世紀末を乗り越えていく上でこうした業界全体が不安になる。空洞化した社会に見切りをつけてIT産業革命に匠の心を社会として忘れず取り組んでいる中国の会社のサポートをしていくことが、自分たちの会社にとってのメリットになるかも知れない。

異常があたりまえと化した時代を改革していかなければならないのだが、自ら教育現場に切り込むしかないのだろうか。ともあれ明日は、母校の文化祭を訪ねて惨状なのか現状なのかを把握してきたいと思う。

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