VOL85 都会技術者と地方エンジニア 発行2001/2/27

製造メーカーから転職して足掛け3年目に入った。以前の会社では、よく地方周りをしてきた。システム件名というものが地方に根ざしていたからでもある。自分自身、実際の風土や文化に触れつつのそうした開発が肌にもあっていたので嬉々として飛び回った。幾つかの失敗談は元の会社の懐の深さを示す逸話になったりもしていた。

Quad社に入り、全国区でのサポートを東京からだけで行っていくことは無理が多いことから、営業と共に地方巡業を行うことも必要なことである。以前の生活から考えると大阪に行く回数はサンディエゴで行く回数に置き換えられたものの地方に向かう回数、端末開発をして開発環境も含めた全てを自分自身で行っていたSE時代の近い状況になってきているように思い返した。

日本海側にある会社を訪問することになった。担当営業からは技術説明ならびに技術広報の役を頼まれていた。この会社には、前の会社の同僚がトラバーユしていた。トラバーユといっても彼の父親が重役をしていたこともあり、Uターンともいえるものだった。この地区には少し離れたところにユニークなシミュレータ開発を手伝ってくれたメンバーもいて、出張の折にはどちらも寄りたいと考えていた。

先方の都合もあり、午後一番の飛行機で羽田から飛ぶことになった。夕方の最終便で帰るというのが一般的な姿なのだが、わが社にレジメを投稿した力強い候補者が瀬戸内に現れたこともあり私は候補者との接点を探すべくEmailで連絡を取り合った。彼から投稿されたレジメからは私が候補者を募りだして以来考えていたエンジニアの資質を強く感じ取ることができた。これはぜひ、あった上で面接をして確認をして続いて東京、米国で面接をしてもらえる価値があるかどうかの見極めをしていく必要性を感じていた。夜半には瀬戸内まで入る予定にしていた。

自分自身の場合も思い返していたのだが、広範で飽くなき好奇心が強くソフトウェアに傾倒していつしか自分の居場所を失っていたころに、サンディエゴから飽くなき探求を続けてきた、そんな仲間にめぐり合い面接の翌日には、米国へフライトして最終面接を行うといった離れ業をやってのけた文化がQuad社にはベンチャー気質として存在していた。私自身も、そうした流れにのり彼と同様に今度は仲間を探しまくっている。

砂丘の見える町をそそくさと後にして、カニかに寿司を頬張りながら三両編成の特急に身をやつしていた。以前との違いでいえば、そうした中でも電子メールを携帯から駆使しつつ次の携帯のコンセプトを思い描きつつ遭ってみたい仲間との限られたチャンスにわくわくしている自分を自覚していることだろうか。エンドユーザーと直接触れ合うために回っていた時代から、今はエンドユーザーに使われる端末のコンセプトを喧伝してメーカーであるユーザーを説き伏せ、彼らが要求する端末仕様としてのチップ作りにフィードバックするという私自身のビジネスモデルを回していた。

以前であれば、地方都市でも県庁所在地に宿泊するという形が多かったのだが、今回は、酒作りで有名な町のビジネスホテルへの投宿である。Quad社の同僚とは泊まることのなさそうなホテルであるかも知れないが、温泉もありなかなかのものだった。そして、この地区には実際に得たいエンジニアがそこには二人もいるのだった。一人のエンジニアは、数少ない私の知己の中でも秀逸のエンジニアであり、この人が米国と渡り合った仕事の成果を実際の端末作りに応用したいという想いがかつての職場で相互の接点を生み出していた。

Quad社にジョイントすることになり、退職挨拶やメーリングリストの削除依頼などを流す中で、この人からのレスポンスは非常に印象深かった。一度始まりかかった仕事が別の理由で立ち行かなくなり広げてしまった風呂敷を畳みに全国行脚をしたことも思い返していた。そんな人との接点が、遠くない将来発生するだろうという理由もない想いに囚われていた。砂丘の会社への出張を機にこの人と投稿してくれた人との面接をすべく私は暮れ行く地方列車に身をゆだねていた。

明くる朝には、ホテルまで来てくれた知己に熱く、今の思いを語った。限られた時間ではあったがQuad社での取り組みやビジネスについて、知己が誤解していた部分についてはカバーできたように思う。出勤前の時間を割いてくれた知己には、身勝手な想いへの対応に感謝している。知己が、役職の昇格などと共に進めているビジネスモデルについての私のかなり思い入れのある歪な想いとには開きがあることは感じていたが、第一歩としては成果があったと感じている。地方で活躍するエンジニアの方たちの謙遜ぶりは何か理由があるのだろうか、都会で働いている技術者という職種の人に引け目があるのだろうか。都会の技術者に欠けている、仕事への想いや自負が、ここにはあるのだ。私は、彼らをエンジニアとよびたい。

限られた面会可能な場所として選出したのはファミリーレストランである。この地方都市では喫茶店が無いらしい。最近では都会でもなくなってきているのたから都会並と呼ぶべきかもしれないが・・。彼は、大学をオーストラリアへの留学で経験したのちに日本で10年あまりエンジニアとして現役で働いている。彼の名刺には、「フリーランス ソフトウェアエンジニア」と書いてある。いくつかの話題を通じて彼の英語のスキル、やっていきたい仕事の方向性などが十二分にマッチすることを理解した。こうしたエンジニアに出会うことが都会ではなかった。都会にいるのは打ち合わせに疲弊した技術者ばかりであった。あるいは、巧みに言葉を操るもののエンジニアとは呼べない素人な技術者達だった。

環境が人をだめにするのだろうか。インターナショナルに通じるエンジニアを育てる風土が都会にはないのだろうか。国内のキャリアとの打ち合わせに翻弄され、共栄会社との仕様打ち合わせに時間を割き出来上がった製品のバグとりに費やされる姿を、私はエンジニアとは呼びたくないのだ。世界に通じると自身で信ずる技術を持ち合わせ、不敵な笑いを浮かべつつさらっと語れる・・・それが、私の考えるエンジニアだ。HTMLやASPが出来るからとバブルの給与を与えてしまう状況の中で、技術を追求することの楽しみをエンジニアから奪いとり、サラリーマンな技術者生活を描いてしまった現状からは、致し方ないのだろうか。

世界一のWindowsソフトウェアハウスと自他共に認めるCEOは、花粉症を持病に持つようになった。彼は日本ではこの季節で暮らせないからなのか、今は台湾に住んでいる。仕事のベースは神田と台北とバークレーである。彼が久しぶりに日本に来ていたのだが、早々に引き上げるとの宴席に出席したメンバーとの酒宴を通じて、こうした思いのたけを話し合ったのだ。業界をリードしていく二つの出版社の方と話をしつつ、懐古な話を回顧するなかで今の若者たちをリード出来なかったのは何故なんだろうかという想いを語らった。出版社自身も、メーカーと同様な状況にあるのかも知れないということに思い至ったのは、ある出版社の取締役からのメールをいただいた時だった。彼には退職顛末の話を送付したので出版社でもメーカーでも同様なことが起きている教えてくれた。

マイクロソフトが提供するツールでソフトウェアを開発して、「メモリリークは私の責任ではありません」と公言するような風潮を作ってしまったのは、そうした出版社の広告活動というビジネスモデルから致し方ないのかもしれない。しかし、「Windowsであっても、俺は絶対にダウンするようなソフトは書かない」と公言する私が先生と目するカリスマエンジニアもいるのである。気が付けば、中年エンジニアと若手の老成した技術者しかいなくなってしまった現在は、今後日本が世界から置いてけぼりを食ってしまうのではないかという、言い知れない不安に駆り立てられている。

私は、手遅れかもしれないが母校や知己の学校での特別授業などの講師をお願いしてエンジニアとしての楽しみや仕事について語る機会をもらいたいと考えている。今の疲弊した携帯業界は蟻地獄のように若い力を飲み込んでいってしまうだけな気がしている。今出来ることの一つは、技術者の為の醸造所を用意して、ビールやコーヒーを淹れつつエンジニアになっていくためのメソッドとして活用してもらうことなのだ。JavaTEAでは良くなるようには思えないのだ。

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