VOL90 携帯はドコへ? 発行2001/3/17

携帯のアプリケーションの爆発は、サイズの面から特に日本で顕著だ。海外のそれは比べるまでもない。WAPとI-MODEの比較のベースにサービスでの工夫などは小さなものへの愛着や執着が日本人にはおおいからだろうか。米国をベースとする、QUAD社においては、物作りをドライブしていく原動力は顧客ニーズであることに違いはなく昨今の日本での端末動静に注目している。

勝ち組、負け組と分類されるとビデオ戦争を思い起こすが広告をうち、キャンペーンを張りアダルトなものまでも持ち出しての戦争風景などを思い返すと同様な戦争にはなりたくないものだと思う。「一円でPHSの一体カードが買えたよ」と嬉しそうに買いこんできた仲間がいる。現在の状況で使いやすいこうした環境が安価に整うことが嬉しいことではあるが、反面不健全な香りがただよっているのも事実である。

現在の株安の状態で苦しい状態に陥っている大手通信業者ならびに、こうした大手頼みのメーカーでIT高速道路の建設から、自動車の開発までも一手に引き受けているところはこうした煽りをまともに受けているようだ。現行の道路規格の車種開発チームとは分離されていることから、そうした煽りをあせりに感じているのは経営トップの方だけなのかもしれないが、業界のなかで暮らしていくものとして自分たちの業界の次の時代へのつなぎについては腐心しているのは全員のはずなのだが・・・。

通信料金を1/100に下げるという目標を実現できそうなQuad社の新技術が、現在の私が会社を移った理由でもあるのだが・・・。こうしたことを実現していこうとすると、現在の歪みが浮かび上がってくるようだ。通信料金が高いことに基づいて一円端末などであってもインセンティブを支払ってでも、出来ているのが実情である。通信料金が固定料金などになった段階では端末価格を安く見せているこうした仕組みが取れなくなるはずだ。

子供のころを思い返してみてアマチュア無線機が当時でも3万円以上したことを考えれば現在のメモリースティック携帯などの価格などは安いとすら感じるが・・・これは全体ではない。フリーPCというビジネスモデルは、どこかに消えてしまっているので出来そうなのはフリーネット位なものだろう。ハードの価格は現在よりはインセンティブの分だけはあがってしまうだろう。電話代と比較して余りに高い携帯電話の費用の内訳は限られた資源である電波の使い方に問題があるのだろう。

今はインセンティブによりメーカーとキャリアのある意味で慣れあいが起こっており結果として目論見からはずれた機種は評価額のままに価格を下げてキャリアが、その責任を負っているのである。メーカーの方々の努力は、エンドユーザーからのニーズを吸い上げどんどん新製品を投入していくことなのだが、いまのビジネスモデルでは買ってもらうのがキャリアなので仕組み上から起こっていることなのだ。

i-MODEの登場により、電話機の機能自体はキャリアとの共同でしか進められない事態が起こってしまい各メーカーが独自にメーカーブランドで登場させるいわゆる普通の携帯電話というカテゴリーが消滅してしまったようだ。キャリアがサービスも端末の仕様も規定していく姿はどこか不自然なものがある。対立するキャリア同士が機能やサービスの仕様面での戦いを実施してメーカーはその枠で製品を時期にあわせて出していくことが求められている。

こうした携帯のビジネスの刷新を求めるあるいは顧客からの審判を仰ぐというのが第三世代という契機なのだろう。顧客ニーズに応えるためには新たな周波数の開拓が必要であり、そのためのコスト試算などに基づいて事業として進めていくのかどうかという点が課題となる。今までの第三世代携帯に向けた各メーカーの開発投資は莫大なものだと思うが、まだ日本では周波数資源をキャリアが買い取るというスタイルまでは達していないために第三世代の離陸が世界的に見ても優位な状態にある。

第三世代携帯というものが規格に囚われずに、サービスやユーザーに根ざした形のものがうまく離陸すればよいと願っているのだが・・・。IPベースのサービスへのフレームワークが整い、アプリケーション開発部分がオープンになることが出来て漸くユーザーにとっての新しい使えるメディアに変わるのだろうと思っているのだが、いくつもの新たなベンチャーが登場してくるのだろう。QUAD社では新たなビジネスとしてそうしたインキュベーションへの投資基金を用意したようである。5億$という基金によりよりよいベンチャーを育成していくことが業界のため必要なことなのである。さあ、どこか良いベンチャーを探す仕事も必要なアイテムになってきたようだ。

Appendix 僕の黄色い携帯はどこへ

来週は、ラスベガスの展示会である。携帯の業界では大規模なものだ。当然QUAD社では新たな製品や技術の発表がある。昨今の日本の携帯端末の技術動向に合わせていくには米国の技術だけでは不足しているのも国内のキャリアと共同作業をする限りいたし方ない所だし。実際に使うイメージも持たないシリコンバレー技術屋の開発した野点の技術などは、彼ら想像力の欠如も追い討ちを掛けているようだからいやがうえにもいたし方ないのだろう。

ともあれ、多くの日本のベンチャーとの接点をすることも仕事の一環になってきたのは事実である。開発支援という仕事は、基礎技術の上流から下流まで一貫して行うことになっているこのごろである。ビジネスカードの肩書きと実際の電話の先で質問に答える姿の間のギャップは、定型の答えに応じてデータベースを検索して行うパソコンの世界とは異なるのが事実だ。

どこかで、これに似た風景を私は経験している。あるベンチャーの横浜の事務所だった。ここのCEOであるKさんが喝破するのはビルゲイツの一団もボーランドもオラクルでさえもだ。実際にデータベースを構築する過程で実際に自らが開発に携わり追求してきた成果が、そこの底流にはあるからだ。しかし、電話の先からの質問してくる大企業の技術者が自社業務に適用しようとしているテンプレートが、雑誌の提灯記事で奉られたWINDOWS某のネットワークサポートのお寒い事情をどれほど当時電話の先のユーザーに理解されていたのかどうかは不明である。

能書きを語って(騙って?)いる間に実践の要望に答えて叩き上げていたのが当時のネットワークビジネスだった。イーサネット以前に使い物になるネットワークを自前で起してボードからなにから取り組んでいたベンチャーであった。そんなK氏を畏敬の気持ち尊敬している人は業界には多いと思う。いま、そうした職場や時代を過ごされた戦友たちは国内でのベンチャー創生期に静岡の三島にこもりISDNをNTTに引かせるだけで混乱をきたす時代でもあった。そうした成果はビルゲイツ自身にWIN32の開発スタイルの手本であると言わしめた。

とある週末、機上の人となり中央アルプスを越えていた。行く手には日本海が見える。朝のフライトで羽田から小松を目指していた。最近、仮想な世界に取り組んでいる同僚と一緒にラスベガスの展示会の一端を担っているはずだった。怪しげな技術者を先週はブリザードの中訪問してきた共栄ベンチャーへの再訪だった。新型の試作ユニットを携行して先方で展開する。幾つかの課題があったのだが急を要するので携帯のアドレスで個人メールで問い合わせを米国に入れてから乗り込んでいた。機内のアナウンスで電源を切るところまでは同僚も目撃していた。

一時間たらずで石川上空に到着した。日本海を左手にみつつ北に向かいながらの着地だった。手荷物としてあずけた新型ユニットを同僚が取り込む間にメールの確認をしようとラジオ体操をはじめたがどうにも携帯がない。座席に置き忘れたようだ。全日空の係に問い合わせをして機内を探してもらったが何度やりとりをしても見つからない。連絡先の電話番号を伝えて、外で待っていた同僚と迎えに来てくれていた現地の技術屋さんと合流して彼らのオフィスに向かった。

小松空港の位置を石川県の地図で把握していなかったために進む方向が北へ向かいだしたのには面食らった。小松はかなり南西の位置にあるようだった。金沢という中心から考えると不便な位置なのだろう。最近出来た新しいキャンパス地区に隣接して石川県がベンチャーのインキュベーション施設として作ったビルに彼らはテナントとして入居していた。辺りの風景は先週のブリザードだったという同僚の話を遠い過去の話のようなものにするほど陽光の春の風景だった。

初芝電器の地方研究所のような雰囲気のオフィスではあり、初芝通信の地方研究所の様に親会社に出向したりということもなくマイペースでじっくりと仕事をしている雰囲気だった。同じようなインフラなのにオペレーションの違いでまったく企業というものは違うものになってくるようだ。自主的なスタンスをどうやって確保できるのかどうかが鍵なのだろう。そういえば、初芝通信の地方研究所の仲間のメールはユーザー不明の返答が来るようになった。彼の新天地での活躍を期待しよう。

携行した試作セットの動作を確認したが、東京オフィスで確認した内容とほぼ同じ状況までになった。ほぼというのは、一部のランプユニットのコネクタの嵌合が悪くライトが付かないという点のみが相違であった。購入した日本製のユニットのコネクタに近いコネクタしかきっと米国には無かったのがそもそもの原因であろう。その辺りの説明を加えて、いくつかの技術質問に答えて開発に戻ってもらうためにも我々は早々に東京に戻ることにした。先方の担当が空港までの運転を申し出られたので快諾した。

地方のスキルある技術者と出会ったので車の中での自由な時間を使って会話をすることがしたかったからでもある。Uターンで石川に戻ったという担当氏は、メーカー経験等の深さをうかがわせる中堅の技術者であった。たぶん同僚の技術者と同じくらいの世代だと思う。海外メーカーの仕事をする上での会話などが担当氏の関心事であったらしく一月からジョイントしたばかりの同僚がその辺りの苦労と慣れについて説明をしていた。実際問題、先週は同僚自身もサンディエゴの技術者を引き連れて対応していたのだから実務ベースで進めていくことが大きな習熟の理由でもある。

話が進むにつれて、退職顛末などの話などに脱線していった。担当氏が、私の職歴やらなぜ業界に人脈などが出来ているのかと疑問に思われた様子だったが、実際に25年業界でソフトに携わるだけでは確かに皆がそのような破天荒な繋がりを持つとも思えないのだろう。「アグレッシブだからですよ」と同僚が補足を加えたのでとりあえず退職顛末を伝えることにしてメールサイズの制限を伺った。2MB程度のファイルが受け取れれば問題はない。そうこうしていると丁度小松空港に到着し、お礼をいって分かれた。

空港で、全日空のカウンターで確認したが件の飛行機は札幌に向かい清掃段階でも見つからなかったそうだ。自分が設計支援をした端末であり愛着もあったのだが、いたし方ない。黄色いレアものの端末であり目立ちはするが一般的な感性からいえば少し恥ずかしいものかもしれない。IMAPの時代であり端末の切り替えをする要請もあったのだが。夕刻少し早めに東京オフィスに戻り、再度全日空に連絡をとろうと小松空港の連絡先をネットから検索して電話をした。あの飛行機はその後福岡までいったそうで三度目の清掃でも見つからなかったそうである。

オフィスマネージャーに顛末を報告して、電話の停止を行い。代品の電話機を貸してもらった。代品は既にカラー液晶のIMAP対応の電話機だった。電話帳をローディングしてとりあえずの事務連絡が出来る状態までにはなった。しかし、あの黄色い携帯はどこへ。

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