業界独り言 VOL116 天動説から地動説へ

少し古い話になるが、リアルタイムOSを開発したことについて記しておこう。坂村先生の果たした功績は大きい。組込の世界でのITRONシェアは凄いものだ。先だって坂村先生の講演を拝聴することが出来たが、BTRONへの想いは現在の携帯のGUIすら視野においていたものだったようだ。透徹した思想だ。
 
さて、私はリアルタイムにBTRON事件が起きたころを渦中のBTRONの開発を推進してきた会社に暮らしていた。80286のアーキテクチャを使い切ろうとしたのはBTRONだったのかも知れない。インテルのアーキテクチャには不備もあったようでBTRONでは特殊なAPIを取ることになったようだ。
 
そんなことは、無線機器開発に身をおいていた自分には知る由もなかったのだが、仲間には、BTRON開発に参加した経験のものもいた。組込システム用のRTOSを開発することになったのは、偶然の所産であった。予めスレッドを分割したコードを作り出すプリコンパイラという機構を発案し、この実装を進めてきた。
 
アイデアのポイントはOSを呼び出すという天動説から、OSから呼び出されているという地動説にも似た概念で構成されていてシステムコールの呼び出しにはリターン命令が用いられていた。プリエンプティブなRTOSであるが、スタックをシングルで実装することが出来て通常のITRON準拠の面もあった。
 
一番の効果は、スタック領域の侵犯が起きないことであり、またUNIXのGDBの機構を利用したホストデバッグでそのまま、RTOSが動作する事でもあった。しかし、実際にすぐに実用化する必要のある事例の適用に向けて急遽仕上げた背景もありプリコンパイラの実装はマルチパス構成のツギハギだった。
 
このRTOSは、国内向けの業務用無線機のプラットホームとして開発実装を行ったのだが、矛盾するかもしれないが実は研究所には別の概念のRTOS開発を依頼していた。永年研究所が温めてきたマイクロカーネルベースの香り高いOSである。高速化と通信プロトコルへの処理適用を得意とする基本設計が為された。
 
今まで利用してきたプロセッサとは異なり初芝電器オリジナルのCPUへの適用をベースに考えていた。自社チップが中々使われないのはどこの会社でも同様であろう。背景には同期入社の担当者から呼び出しを受けたのがきっかけでもあり、それには他社チップのOSやツール開発に奔走してPHS開発に当たり日経エレへのその記事投稿などの一見派手に映る行動があったのかも知れない。実際には、行動を進めつつの巻き込まれ型の顛末ではあった。
 
そうした背景で自社チップ開発を進めていた技術者との接点が生まれ、高性能な低消費電力プロセッサの開発を知りアーキテクチャの刷新などが研究所のOSとのハーモニーで全く従来と異なる無線機プラットホームとなるであろう製品の姿と重なっていた。そうした未来と現実とを同時に開発していた時期でもあった。
 
未来の商品としての輸出モデルを刷新した形で、開発を進めつつ国内モデルでの性能向上に向けてITRONの進化系ともいえるRTOSの開発を実施しつつの二股生活は必ずしも周囲に理解されていたとはいえなかった。夢をおいかける中に、現実の開発も進めその中にも工夫をしていきたかったのだ。
 
輸出モデルの開発は、さらにスクリプト言語を実装したエージェント志向の構成をとり、そのためのオーサリングツールの開発までもはじめようとしていた。溢れる想いが手弁当の範囲を越えそうな中でも進めていたのは初芝電器という余力が為しえたものであろう。この夢のプロジェクトは大震災と共にフリーズされた。多くの方の悼みとともに自分の中に閉じ込めてしまった。
 
フリーズされた中にも開発成果としての新RTOSや自社チップの適用技術などが次の展開に持ち込めるつもりであったのだが、夢の無線機の概念は国内モデルには、時期尚早だった。こうして開発した成果を利用できず多くの仲間との結束への責任も果たせず開発リーダーとしての成功と挫折の両方を味わった。
 
自信を持って開発した国内モデルだったが、実用的な車載機として売り出した後に事件が起きた。同業他社からは、米国メーカーとの共同開発で携帯機を開発したというアナウンスが出されたのだった。先進技術で勝ち得たという威信は、外部からの戦略的な広告効果などで窮地に追い込まれていた。早期に携帯モデルを開発しなければならなかった。
 
遅れをとった携帯機の開発ではあったが、車載開発で技術提携してきた米社自体は携帯機も同じ会社からの技術移転をしていたのだった。若き技術社員をリーダとして進めさせ、自身として開発支援にあたりつつ、別のテーマ開発を外人部隊と進めていくことになった。夢をおっかけた代償は、自身を閉塞する形になった。
 
あらたな技術開発をしつつ確信できる技術を開発しても、会社として取組めないという状況に陥ったときに宗教裁判にかけられた地動説の学者の気持ちに、近いものがあった。しかし会社を辞めてまでその夢を追っかけていこうというには、大震災の落とした影に怯えていたのかも知れなかった。
 
自身を閉塞する中で、若手技術者は携帯開発を積極的に進め、後発ながらも先発で発表しながらも一向に製品が出てこないメーカーを抜き去り完成に漕ぎ着けたのだ。米国メーカーとの政治的な狭間に立たされて無念な気持ちを抱きつつ開発を推進してきた若手技術者は、技術者生活に見切りをつけて中学教師へ転職した。
 
変遷する周囲の状況の中で特定ユーザー向けという小さな錦の御旗を立てつつの開発としてフルターンキーで開発するデジタル無線通信システムという大それた所業に注力することになるのだが、その仕事規模と政治的な位置付けで急展開していたWCDMAの開発にシフトしてきた会社の方針は全く合わなかった。
 
外人部隊の中で基礎技術を開発していくということは、自身が手取り足取りでドライバの開発方法やデバッグ方法を教えていくことにもなった。そうした仕事をしつつ社外委員会活動を経験する時期にもなり無線LANのARIBやTTCに参加する中で、初芝電器のカリスマ無線技術者と出会うことになった。
 
彼も、また高速無線伝送の壁になるマルチパスというものを等化器で処理するでなくマルチパスを合成するCDMAレーキ受信機にも似た概念の変調方式を開発した人物なのであった。彼の地動説も、やはり種々の政治的な圧力やビジネス観の相違などから初芝電器においては中々結実はしなかった。宗教裁判は強大だ。
 
最近、初芝電器時代に申請した特許にJavaのアクセラレータが抵触するということが判ったのだがよくよく調べてみると最後まで特許申請に至っていなかったということが判明した。折角苦境の元の会社を救えるかとも思った話ではあったがなんとも情けない話である。地動説を発見したときの処遇についてはまだ答えが見つかっていない。唯一あるとすれば合わない場合には自分が会社に合っていないと判断すべきことだったのかも知れない。
 
殉職者がでるまでに厳しい開発を続けているWCDMAの開発においては、開発目的であったQUAD社の特許を回避するためだけにおそらく1000億以上の投資を日本としてはしてきたに相違なく、その現状の状況を認識する中で非同期から同期にシフトすら始まったシステム構成の予断は殉職者達の英霊を無視する所業であり戦争犯罪人として処罰されるべき人間がいるような気がしてならない。終わってみて無理な戦争だったのかと、やはり納得してしまう。
 
技術立国という宗教が染み付いている日本が、その看板を下ろすことになるのは二年前の判断ミスか、はたまたユトリ教育が産みだした覇気の無い若者達が技術者の層を薄くして結果として30代から40代という世代の技術者に負担をしいて殉職者を生んでいるのだとさえ思える。そんな話をまぶしい青空の下で話していると悪い夢でも見ていたのかと思う。

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