業界独り言 VOL144 閉塞感からの脱却

昨年のテロ以来、QUAD社の日本オフィスではお客様の訪問への支援やら社内イベントなどへの集合要請などが延期或いは中断してきた。そうした流れも年が明けて、冬季オリンピックなどの掛け声が高まってきたせいか徐々に戻り始めている。開発の母体が米国である以上、行き来が必要になるのは致し方ないことである。主要なお客様である、日韓のメーカーに米国から訪問して、現地のサポート担当がフォローしつつまた最新情報を更新しに米国で研修を受けるというのがそのサイクルである。

最後の審判を待っている電気メーカーの方がサンディエゴを訪問して決断の為の資料を用意したいと弊社を照会してきた。聞けば、この開発をしないという判断は、無線業界からの撤退を意味するらしい。無線オタクを少年時代に過ごしてきた私にとってもそうした変遷は衝撃的な事実でもある。昔は、無線イコール短波であり同等の意味合いにおいてアマチュア無線も存在していた。実際、現在の携帯電話を開発されている方々の多くあるいは経営幹部の方々のレベルではコールサインを保有したりかつては記事の投稿をしていた方も多いだろう。

このメールの先あるいは、電話の先で何が起きているのだろうか。リモートでコンサルティングをしている生活を続けてきた。お客様の所で起きている背景や状況が電話やメールの端々に現れているのが感じられるようになる。うまくいった場合には応答がなくなる。うまく回らない場合には問い合わせやお小言電話の拝聴というサイクルが続く。日本のお客様の感性からは、とうてい理解してもらえない文化的なギャップが米国メーカーであるQUAD社とのやり取りではよく起こる。必死になって開発から生産に乗せようとしている様と時差の先で発生した不具合があるとインタフェース点でショートが起こるのは致し方ないのだろうか?

ハッピーマンデー法案が可決された所為ではないが、また三連休となった。一週間研修で米国行きになっていたので時差と機中で連休の大半は使ってしまった。テロの余波とオリンピックのお祭りムードのせいなのか成田での検査は手荷物を全部改める次第となった。もともとドラえもんのバッグと呼ばれている私のリュックサックには金属に見えるものやら色々なものがX線には映るのだろうから致し方ない。予備のバッテリーも、爪きりも怪しい道具に映るのだろう。こうした時間がかかるのは聞いていたので早めに成田には行ったのだが、ビジネスカウンターの行列は半端ではなかった。需要が回復した際にはテロの余波も無くなっているのであれば良いのだが。

独り言のネット化は、メールのトラヒックを軽減することが出来るのと実際に読まれているのかどうか把握できるという点もメリットがある。Techpaperを書き綴っていた頃よりは多くの私が勝手に同志と感じていた人たちと話を綴っているという認識である。同僚も後輩も先輩も導師と教えを仰ぐ人もいらっしゃる。お目こぼしを戴きつつも思いを記載していくと時折「渇」も入る。どこの会社の中でも、そうしたヒューマンネットワークは築けるものと考えてきたし実際にそう実践してきた。今の会社に移ったからといって私自身のそうした振る舞いに違いがあるわけではない。「もともとはみだしていたので転職したのだろう」という声もあるかも知れないが。

金曜日には技術パッケージを見て欲しいという知り合いMAX氏が弊社を訪ねてきていた。ケイ佐藤の後輩である。仕事の都合で技術内容の説明会議には出席できなかったものの出張準備とお客様への質疑電話会議などで忙殺されていた。スケジュールシステムから予定は知っていたので、会議の終わった後に名刺交換をさせていただいた。アドレスが判れば、独り言も呟けるからである。いい迷惑なのかもしれないが。夕食をとろうとしていた矢先にケイ佐藤も含めて彼らと同席させてもらうことになった。米国で開発会社を起して日本企業から予算とテーマを預かり起業している様はケイ佐藤の昔とだぶる。

一緒にきていた二人の技術者は中国人の方で一人はまだ中国籍のままだそうでビジネス旅行の際には手続きが大変なようだ。MAX氏は、家族も東海岸に連れて行っておりすっかり生活としては日本の型からは外れてはいるのだが日本文化の継承という意味では特異な特技をもっておられる。日本に来ているときは欠かさず伝統芸を見に行かれているようだ。そうした彼が推進している技術パッケージもある程度形が見えてきたところで商品化あるいはシステム対応のソリューションとしての展開などの計画が母体となる企業から提示があるのだろうと考えていたのだが、海外への投資と自分達の事業との接点については希薄な様子なのである。

ベンチャーを興して出資を募り開発を推進してきたケイにしてみればMAX氏の発言は「ばかな」という事になる。物を作るという行為をベースにまだまだ出資企業母体が出来ていて、MAX氏の開発しているようなソフトウェアベースのプラットホームという技術パッケージを受け入れる風土が経営も含めて醸成出来ていないのかもしれない。出資母体となる事業部の担当窓口の方が二転三転する中で方針が希薄になり、しかし開発が続けられるという日本的な流れに陥ったのがそもそもの原因なのかもしれない。携帯開発などで日本企業が疲弊している中で自分の信じる技術開発に傾倒できるチャンスを獲得したMAX氏が、技術応用に成功することで、その会社の閉塞感を脱却できればと感じる。

MAX氏からは、「東川さんの転職顛末があった際にがっくりとした技術屋がいましたよ。」と話してくれた。その技術屋曰く「やっと話のわかる人に出会えたのにな」という事だったらしいが、技術者として信じるものに向かっていって欲しいと思う。ネットで彼の名前を検索してメールアドレスを探し出した。大体、そうした人物はNetNewsなどに自ら投稿しているタイプの人間なのである。前向きなそうした人材を会社として活用していく、あるいはその人自身がMAX氏のように会社を活用して技術者としてやっていくというサイクルこそが閉塞感を打ち破るのではないだろうか。

機上の中でVAXシミュレータ開発顛末を前半のみ書き上げて、うつらうつらしているとサンフランシスコに到着した。朝早い7:00に到着してコネクト便は午後の二時半という余裕である。導師である宏さまに連絡していたので、ピックアップしてもらい「飲茶」を目指した。知人が殺されるという事件がおきて、危険な中で米国にきて葬式やらあとの処理をしているということだった。実際乗っていたボルボは、その知人の車だそうだ。映画張りに中国民主化運動やらなにかの環境問題などに取り組んでいた知人に起きた殺人事件は事実は映画よりも奇なりということなのかも知れない。

飲茶の店の開店時刻がまだ先のようなので、金門橋の先までドライブすることにした。橋を抜けて進むフリーウェイの路上に赤い血の動物だったものがあった。「スカンクだっ」と導師が声をあげると、車内にはその臭いが充満してしまった。たまらず、窓を開ける。「海岸線にそって岬の先までいこう、いい町があるからそこでランチにしよう」とゆるやかな丘を巻きつつ青空と海とを見ながら車は進んだ。どこまでもつづく岬の先への道は、一瞬車山高原に来たのではという錯覚に襲われまた暫くするとこんなにそうした風景が続くのは日本ではないと思いなおす。

「バークレーに今は住んでいるけれど、こうした町に移って来てケーブルさえあれば仕事は出来るし移ってこようかとも考えているんだ、ちょっと金はいまはないけれど」とぽつりと導師が話してくれた。ヒッピー達が心安らかに住み着いたその町は確かに風景も気候もよい町のようだった。ラザニアとサラダをほうばりつつアイスティーと7upで乾杯を交わした。自然と共棲しつつ開発などが出来る可能性は日本にもFTTHなどであるのだろうけれど、それをさえぎっているのは実は自分達の価値観なのかも知れない。ADSLなどは既に日本の方が安いのである。インフラという意味においては日本は米国を凌いでいるのかも知れないが心の壁はすっかり中流志向という魔物に魅入られたままのようだ。

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