業界独り言 VOL219 春が来た 発行2003/4/5

花祭り・・・お釈迦様の誕生日である。鉄腕アトムの誕生日も近いらしい・・・。春は名のみではなく、確かにこのところの暖かな日々を見ていると実感するのである。春には歌が詠いたくなるのであろうか・・・フォークソングなども多いのは確かだ。ゆっくりと音楽に浸る時間が取れるようになれば、パソコンにつないだままのMP3プレイヤーも本来の目的に使えるようになる。FlashMedia代わりに利用しているMP3プレイヤーは今となっては型落ちの64MBのUSBタイプではあるが、お客様とのデータ交換などには有用なものである。三年前に求めたスマートメディアもそうした媒体であったが32MBという容量では最近お客様のソフトが入らない時代となっている。

引越しの準備もかねてCD整理をしつつすべてMP3に変換しておこうというプロジェクトを個人的には敢行しているのだが、実は古いメディアであるアナログレコードの変換という懸案事項も横たわっていた。CDレコーダーも購入はしてあるので手間だけなのと曲間での加工などの後処理が必要なのと、レコード盤毎に異なる音域の設定などの前処理もありなかなか進まないのも実情である。もう年代ものになってしまったレコードプレーヤをみると当時の活気のあった会社を思い返すのである。レコードの再生には、イコライザが必要になるので従来であればプリアンプないしはプリメインアンプを用いるのだが昨今のAVアンプには搭載されていない。

CDレコーダーと接続したCDアンプにはフォノイコライザが辛うじて残っていたのでこれが利用できるのだが、もう予備となる系統は我が家には残っていない。オーディオと呼ばれていた製品業界は、デジタル化の始まりで広がりを見せるというよりも大衆化を果たしてしまい低価格化の波を大きく被ってしまったようだ。差別化をみせるのは音の好みであったはずなのだが、先に価格レンジから規定される制限の中で売れるための条件を満たせればというような商品の流れになってしまったようだ。数多くあったオーディオ雑誌やらFMラジオの雑誌なども随分少なくなってしまったのである。新入社員のころに磨り減るほどにかけていたレコードなどは予備のレコードを買ったほどだったし買ってからすぐにテープに落としてわざわざテープを聴いていたりしたものだった。

CDが登場してからは、音の劣化がないとか夢のように語られてきたものも、エレショーなどの会場で紹介された波形からはデジタルな波形をみて手塚治虫の火の鳥を思い出したりもしていた。無味乾燥な感じのするそうした波形とは別にヒスノイズなどをなくす事が出来たCDの音楽に移りながらなにか大切なものをなくしてしまったのだろうか。CDの音楽はデジタルデータとしてインターネットで流通したりして物議をかもしつつ我々も創作者への思いを便利さのなかで無視してきたのはデジタル化というものがサンプリングした中で失った情報の一部なのかもしれない。生には代えられないといったことを理解したうえで聞いてきた音楽をデジタル化したものを音楽だと誤解するようになってしまったからだろうか。

技術の進歩からなのか、創作者の意図を越えて「着メロ」の次の技術として「着うた」としてフレーズが売買されるような時代になった。著作権の適用のもとで行われれば全てよいのかという思いとは別に、フレーズをあまりにも安易に使うことについての規制があってもよいのではないかと考えたりもする。搭載カメラで動画が取れるようになった携帯電話が日常に引き起こすのは幼稚化した感性の子供たちや学生たちの目を覆う日常だったりもする。技術の追求だからいいじゃないのかといった感性自体に誤りがあったのかと思わなければならないのかもしれない。キングオブホビーなどと呼んでいたハムが廃れてしまったように拡大路線の行く末は悲しい末路なのかもしれない。

MP3のデータに入れる前になまで聴きたい曲もある。毎年のコンサートツアーに足を運びつづけているのが子供の世代ともいえるユズのコンサートである。私にとっては懐かしいフォークソングの再来といえるだろうし、今の若者にとってははじめてきくフォークソングなのかもしれない。歴史は繰り返しつつ世につれさすらっているということかもしれない。ユズの二人組みが伊勢佐木町で路上活動をしていたころからも五年余りが経過したのだが、路上で聞き、日比谷の野音で聞き、デビューしてからは会員に名前を連ねてコンサート旅行と称して追いかけをしている中年夫婦の楽しみの一つである。二年ほど前のビッグエッグでのコンサートにおいて生声で彼らの声が確かに客席の我々に届いたのには生の感動があった。コミカルなビデオも楽しみの一つではあるが、胸を打つ唄をぜひ今年も聞きたいと思うのである。

仕事の場で感動を得るシーンが幾つもあるだろうというのが、技術者という人生を選択したものの特権ではないかと感じてきたし実際にそう考えてきた。私たちのお客様も技術者である筈なのでスケジュールや開発に疲れきったシーンのみに出くわしたくはないものだ。互いに追い込んで検証して見つけ出したバグを見つけ修正することは互いの有用な一つの楽しみでもあると考えてきたのだが・・・。なぜか厭な顔をする人がいるのも事実である、自らが見つけられなかったことについての思いからなのだろうか。見つけた事実を列挙していくとお客様の開発プロセスの問題点が赤裸々になっていくのだが、あいにくとQuad社には、そうした義務はない。コンサルタント契約を将来考えていく上では自らの経験値として蓄積していくことも良いかも知れないのだが・・・。

仕事を通じて得た成果としての、そうした情報を活かすPDCAの活動を蓄積できるような一枚岩の組織が出来るように階層を一段圧縮した会社などは次の一手がお楽しみなのである。組織が活動を制限してきたのならば、制限のない組織を作ればよいのである。新しい組織で悩みが多いのかもしれないが前向きに取り組むことで未来が拓けてくるのではないかと考えている。開発の効率を上げていくための王道はないのかもしれないが何をしなければならないのかは皆さん自身知っているのではないかと思うのである。問題は何故認識しているのに取り組めないのかという点に尽きると感じている。コミュニケーションを良くするための機器開発をしている人たちの組織のコミュニケーションが悪いというのはナンセンスな話なので自分たちで新たな歴史を切り開くべくリセットした経営トップの大英断にエールを送りつつ、このチャンスを是非とも物にしてもらいたいものと現場の方々にも応援をしたい。

世の中には天馬博士も、お茶ノ水博士もまだ登場してはいないようだが、アトム生誕と定義した世紀まで生きてしまいつつも自分たちで良く出来るはずの仕事の仕組みを変えられないでいるといった前世紀の遺産については、はやく処分してもらいたいものである。整理するために必要なことは捨てることであり、捨てられるということは見極めが出来るということでもある。使われなかったモジュールが日の目を見ることはきっと未来永劫ないものであるし、また使われたか使われないかが不明確なままに性能評価もカバレージデータもないものを使い続けていくことの危険さについては、もっと前向きに取り組みISOの環境規格を達成すべきなのだろう。記録を残すものよいが使われなかったという記録を残し続けるのはいかがなものか。

桜が満開となり、新学期を向かえ、新年度を向かえ春満面の今、新しい皮袋に新酒をしこむときがきたのではないだろうか。若葉が伸び行くままに目をつまずに受け入れられる組織を作り出そうとしている会社の仲間からは今までの蛹を脱ごうとしている胎動を感じている。仕事を通じて、成果を次々と出して発表していくといったことを自発的に進められるような組織がこの次の収穫の秋には何か全く違った成果や文化を醸成してくれると期待している。何か変われる契機を提供できるのは限られたチャンスといえる、アーキテクチャが変わるときもあるだろうし、使用する言語を変えるということもあるだろう永い歴史に裏打ちされた文化を変えろといっているのではなくて継承されずに放置してあるようなことにも目を向けて改善に取り組むことが必要なのではないかと若葉の季節を目前にして思うのである。

桜前線の北上とともにユズのコンサートツアーも北上していくようだ、今回のツアータイトルは菫である。一日の休息を彼らのメロディーとエネルギーとで満たしてもらい明日からの過密なテストツアーに参加する英気を養おうと考えている。最先端のテクノロジーの追いかけに必要なものはタフな精神とゆるぎない好奇心、そして健康な体でありそれを支えてくれる家族とのハーモニーである。初夏に予定している自宅の竣工なども今はそうした忙しさの中での励みとなっている、忙しい次週の次にはまとまった休みをとりつつロックバンドのコンサートの予約もかっちりとっている。そうしたハードなソフト開発支援の日々も月末からは少し拡大するメンバーと共に余裕あるなかで、より意義のあるサポートを届けられるようにしていきたい。この時期は・・・生の声を聞くのは必要なことだ。

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