業界独り言 VOL251 明日の開発の仕事には

開発支援をしながら、五年目に突入した。来年起こるだろうソフトウェア大恐慌時代を前にして、少なからず前向きに生きていきたいという思いがこれからの一年に私自身に問い直しを迫っている。自己矛盾するような仕事をしているのでは・・・と人から言われるような仕事をしているように見えるらしい。ある意味で私自身も仕事の流れにながされているのかもしれない。ただ、ある意味で日本メーカーが進むべき道を示しているのではないかという自負はある。日本メーカーが諦めてしまった技術追求をしていけるのは、我々自身であり、そうした結果こそがソフトウェア大恐慌時代を越えて生きるソフトハウスや通信機メーカーに光明をもたらすのではないか・・などといまさらながらのドンキホーテぶりに自分で書きながらあきれ返ってもいる。

13年ぶりに日本に帰国したという知己のIさんを囲んで食事をした、集った仲間はみな彼と仕事をしてきた戦友である。今、彼は新しい任地に向けて赤紙で召集されたばかりであった。とはいえ少し前に聞いていた話は、行き場所がなくなってしまい英国に残している家族との生活が維持できなくなり新しい生活を考えようとしていたということだった。おなじ会社の中で新たな酒造りを別の任地で行うために欠かせない人材として彼を考えていたのは偶然の所産なのか計画だったのかは神のみぞ知る。ある意味で、その日に集った仲間は組み込みソフトウェア開発というビジネスモデルを立ち上げつつ成果を残しながらも変容する業界の流れの中で自己矛盾をきたして戦地を去っていった者ばかりであった。集った仲間と話をしていると戦争の話に終始するのは致し方ない。竹槍で戦ってきた時代を通して技術を学び、米国の先進技術を学んだりしてきた仲間だったからだ。

組み込みソフトウェア開発というビジネスを模索しながら、ソフトウェア開発のプロ集団を立ち上げようと通信メーカーが起草したのはもう25年ほども前になる。マイコン実用化の流れが各メーカーに根ざす組み込みソフトウェアやシステムソフト開発といったビジネスを生み出して行ったようだ。戦友たちとフラッシュバックしながら綱島の美味しい洋食屋でタイムマシンに乗り込んだ。よき時代と回想する部分を回帰するもよかった、改めて考えると私自身実は彼らの会社の対極にいたのかもしれない。プロソフトウェア技術集団を構築しようという流れと社内で実際に長く開発を続けてきた私の系譜はある意味で矛盾していた。また、管理技術者的な視点に偏向しようとしていく流れの中でこだわりを持ちつつ基本技術だからと予算取りを続けて彼らの会社とともに要素技術の追求をしてきた立場でもある。自分のやりたい仕事を求めて彷徨い最後には持て余されてしまったというのが実情だっただろうか。

彼らと積もる回想話をしながら私も知らなかった話が色々聞けて楽しかった。当時ソフトウェア開発について米国礼賛がありUNIXなどを駆使して交換機開発などを進めていたベンチャーメーカーと共同プロジェクトを起こして米国の熱い日々を過ごした時代があった。知己の一人は実際に米国にいっていた。開発に従事していた当時の向こうの技術者たちはunixを確かに使いこなして電子交換機という開発をたくみにこなしていった。多くの技術や手法を体得したという意味においては大成功の仕事だった。ビジネスとしての意義には、出来レースとなっていた商談レースであることが一年あまりして判明したこともありポシャった。しかし開発していた仲間達にとっては開発は理想的に進み実用化段階での中止が大きな挫折となってしまったようだった。

その後、米国からポケットベルシステムを一括で買い入れて国内ユーザーに納入するという商談に向けて前回の経験者である技術者が派遣されて開発に加わった仕事があった。その技術者いわく「このシステムのソフト開発も素晴らしいから是非勉強に来てほしい」という話が勃発して当時の技術トップに具申した結果、知己の一人がソフトウェア技術者として検分に飛んだ。まずはシステムの動作確認から始めてシステム構造などに手が入った。OSも持たずにフローチャートで動作する一本ソフトだったらしい。各種機能があるのは電子交換機の常なのだがモジュール化も果たされていない一本ソフトの構造が機能変化に耐える必要がある電子交換機を構成していたというのは、別の意味で恐るべきことだった。ここで恐れているのは保守などできっこないということだった。

ベンチャーとしてシステムを起草して、それを作り上げたのは凄いことなのだろう、いままでに30システム以上収めたという事実も考えると要望追加がなかったのか、あるいは大変苦労しつつ仕上げてきた歴史なのかは知る由もなかったらしい。ソフトウェアの構造について思いが及ばないなかで盲目的に米国神話に踊らされた結末だったのかもしれない。知己の検分によりソフトウェア技術者を派遣することは中止となり検査を頼める技術者のみを派遣して苦労しつつも仕様変更を達成させたようだった。このときに米国のメーカーが知らなかったのはバグシートだった。バグシートが起票されることは彼らのプライドを痛めた様だったが動かないものは直すしかない。知己のいる最後のころには、彼ら自身が進んでバグシートを起票するようになったということだった。少なくとも米国に品質管理技術の再輸出を果たしたということかも知れない。

知己も含めて大いなる成果を作り出してくれたプロソフトウェア技術集団の構築という意味においては成功だったといえるだろう。私が、前職で仕事を続けていれば、こうした会社に出向を命じられる時代が来ていたかも知れない。知己たちも含めて悩みぬいてきた事由があった、それはビジネスモデルが果たすトータルな形での成果への対価ということだった。端的にソフトウェア開発費用で売り上げ利益を計上しても、それは親会社の開発する製品群の開発力としての指標からみればソフトウェアという部品コストになる。最終顧客の満足を得て互いのビジネスモデルを満たすという考え方に立つことが難しくなり、ソフトウェア開発とハードウェアあるいは製品開発とが遊離してきてしまう傾向がある。これに対する答えや対策は、社内に競争会社を作ることであり事業部門が別にソフトウェア開発会社を大手ソフトハウスと興すといった取り組みもしてきた。

そんな中で集っていた仲間のY君は、会社のビジネスモデルとしての利益追求ということが、顧客サイドに長く一緒にいて開発をともにしてきたことから自己矛盾を感じるようになり退社してしまった。しかし彼が追求したい仕事の流れで個人事業主としてのソフトウェアデザイナーとしての実力を請われて別のソフトハウスのチャネルを通しながら、仕事を続けていくことになった。世界に飛び出しながら自力で仕事を続けている輝くソフトウェアデザイナーとして私が紹介しうる人物となっている。また、基本技術の開発追求を一緒にやってきたH氏は、基本技術の追求というテーマを得ながらその成果を自社のものに使用とした際にビジネスモデルとしての矛盾に遭遇した。基礎技術の追求をしていくことで開発効率の改善などを果たすと会社としての売り上げ減少に繋がるという考え方である。また開発成果となったOSの版権などを渡されて自由にしても良いといわれても自社のなかで自立保守していくという風土がなかったりする。彼自身、こうした技術追及をしながらも、遭遇するユーザーとしての同僚たちとの感性あるいは経営感覚としての矛盾に陥り彼もまた会社を飛び出していった。OSに明るい彼を元の会社や事業部が手放すはずもなく有能な人材としてアルバイト的な彼にしか頼めない仕事として発注したりしてきた姿に、矛盾を感じるのは私達だけではないはずだ。

ソフトウェア開発協力というビジネスを親会社のメーカーとともにしてきた、こうした系列ソフトハウスの矛盾はどこの電機メーカーでも起こりうるのだろうか。ある電機メーカーでは、ソフトウェア系列会社そのものを売却してしまったようだ。ただし売却したあとでも仕事は続けているようでソフトウェア系列会社の経営という観点や90年代ごろからサイドビジネスとして立ち上げてきたネットワーク事業なども含めたビジネスモデルも合わせた中での経営判断ということだったかも知れない。系列ソフトハウスとしての壁を取り払うという大英断を行った電機メーカーもあるようだ、その会社では開発の中心事業となった携帯電話向けソフトウェア開発ということに特化した会社として再編成を行い、その会社には親会社側のソフトウェア開発技術者も合わせて出向させて、より融合を図ろうとしている。その成果は、まさに今期待されている時期を迎えようとしている。

携帯電話のソフトウェア開発という事業が、通信キャリアから開発助成金をもらってまで通信キャリアの意向に合わせた日の丸仕様の中で開発を続けていくという場合もあるようだし、いかに最終顧客から見たバラエティな端末提供をしていくという議論を通信キャリアとの間で行い開発効果を挙げている例もあるようだ。多くの通信機メーカーでのソフトウェア開発の実態は、沢山のソフトウェアハウスを抱え会社側の人間がプロジェクトを管理しつつ作業をシェアリングしてノウハウを束ねて開発をしているのが実情だ。トラブルが起これば、「・・・このような事例が報告されています、設計の上では留意のうえ対応をお願いします。」という通達メールを流してくる。階層化された下流の開発チームが実際に網羅できなかった場合に、露見した場合にソフトウェアの再精査の通達が回り全体の開発が停止するといつた具合だ。コード検査データベースが整備されて自動的に検出する会社もあるようなのだが・・・。顧客ごとに得たソフトウェアハウスのノウハウの活用を阻んでいるのは契約条件にある守秘義務なのだろう。

顧客が開発すべきソフトウェア自体の仕様がオープン化されれば守秘義務もなくなるだろうし、流用転売も可能になるし良いことこの上ない。そうした姿を目指しているのは昨今の技術トレンドと言われるLinux化の流れなどなのかもしれない。自由気ままな制約のゆるい、ITRONの世界ではなしえない姿があるのかもしれない。制約を課したうえでTRONの精神を汲んだものはT-Engineということになるだろうか、アプリケーションのクリーンさからいえば、こちらのほうがLinuxよりも純度の高い潔癖さがある。こうした流れを追求していくとモデム屋あるいはチップ屋と呼ばれる我々の提供する世界と一線をおく2チップな世界をソフトウェア開発現場からの追求に押し込まれて高いハードウェアを採用することになる。コスト追求は部品コストよりもソフトウェア開発コストに比重が置かれている。ここで課題となるのは、MOBでコストが5万円を越すような端末が通信キャリアの助成金でのみ成り立っている日本の実情が異常であるということについて言及がなされていないことだろう。開発がオープン化できて、世界に通用するようなコストバランスを追及していく課題を追及するのが業界としての関心事なのである。

忘れてならないのは、通信バブルで膨れ上がったソフトウェア開発人口を支えるだけの、仕事が存在していないのではないかという点である。ソフトウェアハウスとしての存続を考えていく限り、こうした観点にたって必要な技術を持つ人材に絞り込んでいくという姿が、これから出てくる兆候のひとつなのだろう。安住の地はないものの、意識ある人に道は閉ざされてはいないということである。いまのビジネスモデルが破綻してあらたな開発スタイルに移行していくなかで旧人類と新人類の世代交代もなされていくのかもしれない。何もしなければ氷河期だろうし、あらたな武器を手に攻めていく人にとっては新時代の到来になるのかも知れない。気持ちを一歩踏み出していくことこそが、大切なはずである。10年ほど前に遭遇した事例を前回は紹介したが、その中で紹介したM女史は、したたかに現在を生き抜くべく自身で持つ技術と期待される技術のバランスを見据えてエンジニアとして邁進しているというメールをいただいた。私が出した面接のインビテーションが発端となり彼女自身覚醒されたように書かれていたが、もとより彼女がもつ個性であり能力が周りの環境で気持ちとして狭められていたのが理由なのだとおもう。伸び伸びと仕事をされている彼女の手紙に迷いも衒いもないようだ。

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