業界独り言 VOL375 神無月に向けて

出雲大社への旅行を兼ねて、出かけるつもりだった。米子高専の先生を訪ねて学生相手に講演をするためだったのだが、副次的に付けていた出雲大社への旅行は直前の情報調査でキャンセルとなった。現在は式年遷宮に入っていて出雲大社のお社を見ることが出来ないからである。四年かけて行われるということなので、出雲大社への参拝は四年越しということになりそうである。先の楽しみが増えたということが正しいだろう。米子高専と言えばロボコンが有名であるが、最近はプロコンでも名をあげている。

組込ソフトの世界で仕事を始めてからの経験や高専での学生生活から就職にでる過程での想いなどをまとめてプレゼンテーションにつづった。エンジニアとして仕事を始めるまでのとっかかりと、エンジニアとして遭遇するだろう経験などについてをまとめて述べた。エンジニアとしての拠り所をしっかりと持つべきだということも併せて説明したのだが、まだ時期尚早で理解できないかもしれなかった。いずれにしても、彼らにとって竹の棒に見えるような計算尺の世界から現代までに至る程度のギャップを説明した。そして、それは彼ら自身がこれから遭遇して学んでいくことに相当するのも事実だった。

自らが真剣に、それこそ死ぬ思いで取り組むことはエンジニア生活でかならず一度はあることだろうし、そうした地獄をみるような中から得られた極限状態での頭脳の回転が新しい世界を切り開いていくのも事実だった。そうした経験をつまずにエンジニアから管理職に移っていくようなことでは、将来の絵も描けない状況に陥ってしまうということが私の懸念でもあった。今回の講演の対象者は、五年生の全学科ということであり、すっかりゆとり教育を小中学校で経験してきてしまった世代である。それでも好奇心をもち高専を志望して、五年生まで進んできた彼らには伝えたい、伝わってほしいことだった。

講演では80分あまりを熱く語り、残された時間を質問の時間に充てたのだが、質問された内容はエンジニアとしての地獄を見た中近東向け自動車電話の経験のなかで「実際の設計担当者達に去られてしまい呆然としている状況で何を考えていましたか」だった。私自身が思い描いていたのは、全社プロジェクトで肝いりで取り組んできた自動車電話システム一式開発への挑戦。そして当時世界中から嘲笑にさらされてきたそのプロジェクトの志向する新アーキテクチャを稼働させることで見返そうとやっきになってきた。その努力の積み重ねを移動局開発の管理不行き届きで危機に晒してしまったことへの責任感でもあった。そうした極限下でアイデアを絞りだし自らのクロックアップを果たすことが出来たのは神のみ業だったかも知れない・・・と。機械語への関心をもっていただいようだった。

こうした経験で心に織り込まれたエンジニアとしての心のよりどころは、その後のエンジニア人生に大きく影響を与えたし、世界に類を見ない大規模システム開発の一部を担わせていただいたことが心の糧になったといえる。その後の無謀ともいえる、Z80でNECのコンピュータシステムをリプレースするような挑戦すらも完遂させたのである。ベンチャーライフをある意味で謳歌してきたエンジニア人生だったが、その会社の組織としての老化などから自分自身の居場所としての疑問を呈するような状況になり、転職することになりもした。その後の転職生活での思いのたけやら仕事への夢なども語りはしたものの時間も限られていたし消化不良になったのではないかと考えている。

発表が終わったあと壇上に質問にきた、若いエンジニアは「どんな資格をもっているのですか」と質問を寄せてくれた。私のエンジニア人生の中で資格を取るような状況ではなかったのだが・・・「資格を示すことで理解を得られる会社もあるでしょうね、でも私たちは簡単な質問でその人の理解度を確認するようにしています。」と文字列転送の関数のコードを示して「たとえばC言語のこの関数の間違っている点を教えてもらうというのが例です。」アルゴリズムをC言語表現から理解できた問題の認識と対処について期待しているのだが、疑問符を隠せない雰囲気の学生には「チャレンジして理解して超えてください」とエールを贈った

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