業界独り言 VOL229 記憶の中から

アマチュア無線の世界の再開を、自宅移転とともに再開しようかと考えていたのだが、なにせ30年近い昔の免許証に写っているのは中学生の自分であり、もう一枚あったはずの高専生の自分が写っている免許は紛失していた。現在の住所に越した折には存していた記憶があるのだが必要なときにはなくなっている。再開するためにも免許証の再発行が必要となる。世の中はブロードバンド時代になり、免許証の申請の仕方やら勉強の仕方など溢れる情報が繋がっている。呼び出し符号の再割り当てが起こるほど世の中に普及繁栄してきたアマチュア無線であるが、偏向したコマーシャリズムによるバブルだったのかモシモシハイハイの世界のみで遊んでいた人たちは携帯電話でお金を払うことに厭わなくなり、アマチュア無線から離れていったのは正しい限りだ。

無線通信という特権は、アマチュア無線が享受していたものではあるが、技術の進歩により一時的な優位にあったそれは現在は携帯電話により実現されて平和時には特権ではなくなっている。知らない人との通信という意味でいえば、最近ならばメーリングリストやニュースグループへの投稿購読などがそれに相当しているかもしれない。通信するという権利を駆使してアマチュア無線という範疇で興味好奇心を拡大していくという活動や行為がキングオブホビーという謂れだったのだと思うのだが・・・。誰もが気にせず無線機を購入して許可範囲を超えた出力を出したりする姿が日常化していた時代などを過ぎて気が付くと免許範囲や試験方法までも変わりを遂げているようだった。私が友人に貸与してあげていた無線機などは、貸与期間がはるかに20年近くを越えていて所有権などが及ばない世界で朽ち果てているようだ。

学校時代の後輩には、プロ用無線機メーカーで無線機開発などに取り組み昔の垂涎の的でも在ったコリンズのSラインを揃えたりしている人もいる。無線機やアンテナを総動員して短波の世界の不安定な通信環境をノイズとともに楽しんでいるという趣味の世界を長続きするのには強い好奇心が必要といえる。アマチュア無線技士という資格は、通信士という資格ではないのだから通信にのみ主眼を置いていては楽しみが薄いというものだ。さまざまなチャレンジが許容されているのがアマチュア無線の世界なのであり、真空管の無線機に愛着を持ちレトロな世界に没頭するような好奇心の持ち主の方などは現在の状況でいかに保守し稼動しつづけさせるかということで好奇心を満たしておられるに違いない。こうした好奇心旺盛な方たちが組み込み開発の創世記を担ってきた方たちと重複するのは必然といえるかもしれない。

自分の好奇心を満たしてくれるものとしてアンテナ作成や短波や衛星追跡などいろいろなテーマを見せてくれたアマチュア無線であった見知らぬ人とのコミュニケーションなどは云ってみれば良質の出会い系ともいえるのかもしれない。純な世界での素直な人との出会いや付き合いが興味を同一にする人との間で行われてきたアマチュア無線の世界ではあったが、多様な拡大指向のなかでの方策で科学的なことへの子供たちの興味育成といった側面よりも、若者たちのコミュニケーション手段としての快楽的な指向に重きが置かれてしまったのは、無線機器業界の責任かも知れない。心ある人々の趣味の中に無差別攻撃のような技術的バックボーンが無いままに妨害波を繰り出してくるような様が続いたあげくに周辺からのクレームなどとのコミュニケーションも果たせずに切り上げていったというのが多くの人たちのようだ。

プロ用の機器でクリーンな電波を出したとしてもテレビやステレオあるいはギターアンプなども含めて様々な家電機器に影響を与えてしまう高出力の短波帯の無線送信というものには、障害などに対処しうる技術が必要であり、免許制となっているのである。違法なリニアアンプなどが売られていくさまには、北朝鮮に不法にオシロスコープを出荷するのと同質のことといえるのである。楽しみ方の視点を変えて、小電力での通信を競うという人たちもいる。また、免許は必要の無いひたすら受信能力に磨きを掛けるというSWLという人たちもいる。多彩な楽しみ方や懐深さがあるにも関わらず偏ってしまうのはきっと学校教育の成果なのだろう。最近の携帯電話の内部などを見てみれば大規模なチップセットや、微細なチップ部品などの集大成で工法ひとつとってみてもアマチュアの手に負えるものではなくなってきている。

マニュアル化技術が進んだ米国には、組み立てキット文化というものがあり、かつては無線機や飛行機までも手がける総合キットメーカーがあったりした。今でも、そうした文化の中で誰が組み立てていっても性能が出るといったデザインを誇るといったことを目的としたキットメーカーがあったりする。アマチュアが組み立てるという条件を考慮して作りやすく拡張や性能が出しやすいということを念頭に入れて設計されたものである。こうした技術追求というものを好奇心の対象としている人がいるのは米国の多様なところである。日本人には、こうした感性が希薄なようにみえる。最近では、音声処理の技術追及を行うセミプロ級のアマチュアも増えているようでDSPのプログラミングでノイズサプレッションを実現したりということも日常化しているようだ。組み込みという視点で見ると、なにかこうした肩の力の抜けた開発の姿などが清々しく感じたりする。

原点に立ち返る感動といったものをバベルの塔に陥っている開発活動の中からの足がかりとして教育などの原点に持ち込んでみるのもよいものかもしれない。OJTとしてというよりも新人教育の過程などで、旧型となっている既存商品のUI組み換えなどをテーマとしてアプリケーションをスクラッチで書かせてみるといったことなども進められる時代になっているのではないかしらと思うのだ。よく出来たソースコードを読み解かせるというのも一つの教育だと思うし、よく出来たキットの製作を通してマニュアルや保守調整への考え方・哲学といったものをハードウェア技術者として学ばせたりするのも一興なのではないかと考える。多くの技術者を吸い込んでいった魔物のような携帯組み込みの開発は、組み込みというには大きすぎるものとなっているのに、いまだに組み込みと呼んでいる事自体が間違っているのかも知れない。

エンジニアリングとして組み込み開発が体系化されるのならば、継続発展してきた携帯開発のソフトウェアについて教科書が出来ても良い時代だと思うのだが。何か適当な題材としてどこかの国でも会社でもよいから1億円くらいそうしたプロジェクトに投資してもらえると結果としてとんでもないことが起こるのではないかと考えている。組み込み大国を標榜していくというのならば、そのくらいの活きた税金の使い道を果たしていただき、かつて冷や飯を食わせてしまった某プロジェクトのリーダーを名実ともに迎え入れてやったらよいかもしれない。まあ、北欧か米国から横槍が入ってしまうという結末も見えてくる。となると、日本がリードしていると自負しているアニメやゲームソフトの世界などを指向しているデジタルハリウッド辺りと組んでいくというスタンスを選んだケイ佐藤の見識は確かなものだといえる。

過去の歴史を振り返りつつ、何処で何を間違えたのかを省みることなく、無為に進んでいくのでは未来は突然破綻してしまってもおかしくは無い。たまたまうまくいった偶然の所産だったのかもしれないのだ。昔みた「ひょっこりひょうたん島」のストーリーの中に大金持ちのお家のお嬢さんの話があったが、歌に乗せて会社の売り上げから費用を引いていったらお家に残った彼女のお小遣いは殆ど無かったといったようなシーンを思い出す。彼女は牛乳瓶の紙の蓋で遊んでいたような話だった。華やかに見えた、携帯開発の舞台裏も結局は、採算の取れる開発方法だったのかという思いなどで見返すと反省する材料は幾らでもあったのかもしれない。記憶の中から思い出した免許証の番号を記入して再申請を果たしたあとに、この原稿を見返していて気になる見覚えのあるタイトル番号だと気が付いた。学籍番号の下三桁だった。忘れていた記憶から新たな発見が生まれることを期待してあらたなプロジェクトを始めることにしよう。

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