業界独り言 VOL327 ブルートレインはオタクなノリで

鉄分の濃さは、人と競うほどではないものの国内の出張という契機においてかなり鉄分補給をしているのではという点については自負はある。今ではブルートレインというものがなくなりつつある状況なので寝台列車といっても中々話が通じないのであるが・・・、広島や鳥取といったお客様あるいは、戸籍のあった四国などを訪れるといった目的で利用をしてきた。結婚してからも、そうしたノリがより強化されたのは相方との波長があったからかもしれない。仕事で出張するという流れでは、繰り返し利用するといったシチュエーションが起こりうるし助長するような特殊チケットだったりもするからである。

組み込みソフトエンジニアとして、端末開発と開発環境の開発あるいは周辺機器の開発やシステム設計などを手がけていた時代に一人でサンプルからプレゼンまでいろいろ手がけて説明に国内行脚といったこともこなしていた。そんな折に出会ったお客様の一人は広島を基点にするお客様だったので何度もいく機会が起こるようになった。広島といっても東端に位置するような福山だったので飛行機で行くとしても広島から戻るしかないといった中途半端な距離で長々と新幹線に乗っていくことになるのだが、まだのぞみもかなわぬ時代だったのでいたし方なかった。

朝から新幹線で移動して昼過ぎの説明会議に臨んで、30分のプレゼンで終了といったこともあった。反応が悪いというのではなくて、「いいじゃないですか、その提案でお願いします」といった反応だったからだが・・・。とはいえ新幹線が開通しているという状況では、短い打ち合わせでも適当な早い時間の便で帰ってくればよい話である。問題は体の疲労感の解決策であり営業マンの提案で、少し余計に払えばグリーン車に乗れるというチケットに切り替えたりしてしのいでいたのである。当時は遠い距離感を充たす特殊チケットとして新幹線ビジネスグリーンきっぷという制度があった。東京あるいは横浜と広島・福山地区に限るような条件だったようである。

いわゆるキャンペーンチケットなのだが、正規料金に千円ほど追加するとグリーン車が適用できるというもので、グリーン車の稼働率を上げようという目的のものだったようだ。同時にチケットの説明をよく読むとブルートレインのB寝台を利用もできるという効能が書かれていた。この説明を読んだ当初はあまり理解していなかったのだが、真の目的を理解するような自体が起きたのは何度目かの、その会社への訪問出張だった。技術説明をベースに通うことになったのはソフトウェア開発を必要とする端末製品を提供することになったためでもあったのだが・・・。

技術打ち合わせも当初のハイレベルな段階を過ぎてしまうと簡単に終わるものではなくなってくるのだが、帰りに予定している新幹線の時刻を過ぎてしまうこともあり、翌日の午前に予定されていた社長の会議に出席できないし、駅前のビジネスホテルに宿を求めなきゃいけないしと愚痴をこぼしながらお客様の運転で駅まで送っていただいていた。そのときにチケットの効能を思い出させるフレーズがお客様のエンジニアの方から喚起されるような発言があった。「まだ、これから夜中過ぎにプルトレが通りますよ・・」と言われて、初めて時刻表の最終ページの次に見るべきものは最初のページに戻るということを理解した。

そのチケットは、まさにビジネス用の目的で翌日の会社に出社するという目的に叶うものだった。九州と東京を結んでいる富士・あさかぜといった寝台列車が当時は走っていたのである。そしてビジネスマンはそれを利用していたのだと思う。といってもすでに駅の出札口はしまっていて寝台の予約はどうするのだろうかと悩んでいたのだが、とにもかくにも改札でチケットを見せて入りホームで列車の入線を待ちうけ、入ってきた列車の車掌と交渉して席を、いや寝台を確保できた。これが出張で寝台を使い出した走りとなった。これで私は最善を尽くしたのだが、あいにくと翌日の社長の会議は気まぐれにキャンセルとなっていたのは翌日しったことだった。

この一件で味をしめた私は、積極的に利用するようになり前泊でお客様の近くに泊まるようなプレゼンのための試作ソフトを開発したりする準備で同行するはずだった仲間たちが夕方の新幹線で向かう段でも出来上がらず、「夜行で追いかけるからさ・・・」と仲間を送り出して、また仕事を続けていた。「富士」もあるし「あさかぜ」「瀬戸」もあるからさ・・・と思ったのだが、デバッグに時間がかかり、ギリギリようやく仕上げたソフトウェアをパソコンに入れて鞄を抱えて最後の頼みの綱の「瀬戸」を求めて駅に向かった。間に合うのかどうかは正直自信がなかった。当時は横浜の会社にいたので東横線で横浜に向かうのだが反町のトンネルを抜けるとJR東海道線などを見下ろすアングルになる。時間的にはやばい状況だった、眼下の視界に入ってきたのはブルートレインだった。

横浜駅に着くやいなや先発しているハードや営業担当に電話を入れて急行するが遅刻するだろうと伝えた。最後の望みの綱であった「瀬戸」を失ってしまった私は呆然としながら東海道線のホームに立っていた。できるだけ西に向かい、朝一の新幹線に乗ったらどうかというアイデアが頭をよぎった。いずれにしても朝一番のお客様との会議には遅刻してしまうし、新しい技術の新製品のデモプレゼンというチャンスを泥にしてしまいそうだった。そこにブルートレインが入線して来たのでともかく車掌を見つけて交渉して乗り込んだ。それは「出雲」という列車で京都から山陰線に入っていく列車だった。車掌は、これは行き先が違うから、次に停まる沼津で降りるしかないよという話しだった。ともかく確保した寝台の上で時刻表と首っ引きになり、以前学んだ、最後のページに続くのは最初のページという轍にのっとり探した結果見つけ出した。

京都まで、この列車でのり朝の四時過ぎに着いた後に始発列車で新大阪に向かい、さらに始発の新幹線に乗ると福山に予定時間には到着するというルートがあった。車掌に頼み込み、京都で起こしてもらうことにして旅を続けた。落ち着いた時間が確保できたので寝台備え付けの浴衣に着替えて列車のゆれに任せて寝入った。どこでも練れるような図太さはこうした経験があるからかも知れない。開発したデモセットを明日時間通りにプレゼン出来るとわかったら安心して眠気が襲ったのである。親切な車掌に起こしもらえるのは、物騒だともいわれるくらいのシンプルな構造のB寝台だからでもあった。なにせ鍵はなくカーテンで仕切られた二段ベッドが二つずつ向かい合わせになっていのだから・・・。

まだ薄暗い京都駅で、お世話になった「出雲」に別れを告げて、始発列車の東海道線を待った。正しくは草津・京都線だったかも知れない・・が、時間の狭間に迷い込んだ異邦人という雰囲気で子一時間ほど佇んでいると、始発列車が入ってきていつもの人たちと落ち着かない異邦人を呑み込んで走り出した。サントリーの山崎を抜けしばらくすると、お世話になっているベンチャーの会社がある淀の近くを見やる。彼らのツールのおかげで自作のコンパイラを活用して、こうした端末開発をしてシステム提案やビジネスをまわしていけるのであり感謝にたえない。一礼をして新大阪に向かった。この列車から新幹線は連絡が都合よく始発列車の関西版のコンビネーションとしてのユースケースだったようだ。

朝食となる弁当を買い込み、ゆったりと山陽の風景をみやりながら楽しみ、当日のプレゼンに思いをはせた。一時間半あまりで福山には到着した、前泊部隊の泊まっているホテルを目指して歩き、ロビーでコーヒーを頼み同僚たちの起床を待ち受けていた。朝食で降りてきた仲間たちは、驚嘆の目で見つめた上で顛末を聞きだす前に、「今日、デモ出来るんだよな」としっかりとビジネスモードに戻っていた。こんなやり取りですっかり私の鉄分濃度は、当時の会社では認知されてある意味でカミングアウトしてしまったことになっていたかも知れない。

今わたしは、外資の会社にいるはずなのだが、社長がかつての同僚だったりすることもあるのか、そうした昭和のノリが強い雰囲気で暮らし続けているのである。たとえば、同様な出張には二つのオプションがあった。「始発の飛行機に乗る」「現地に前泊する」これに新たに「夜行で朝現地入り」するというオプションを私はつけたのである。鳴り物入りで開発を進められているメーカーの端末開発の支援という意味において朝からの会議に参加するのは重要なことでもある。夜遅くまで仕事をしながら、かつ翌朝の早朝起きで出張にいくのでは家族に迷惑がかかるし、自分自身の体にも負担がかかる。営業とマーケティングのメンバーは、前夜の仕事があるらしく羽田空港のホテルに前泊をして始発の飛行機にスムーズにいくことを選択したようだった。

悪くはない選択と思いながら、ホテルの費用を調べる二万円もするのである。自分の価値観からいっても割が合わないと感じて、飛行機の費用と瞬時に計算して最近の夜行寝台特急のA寝台を思いついた。これならば机も電源も確保できてゆったりと仕事を続けながら朝もゆっくりまにあうということになる。実際には東京駅が夜の10時の出発で岡山につくのは朝の六時半である。朝食や風呂をサウナで浴びるとして一時間ほどの連絡をみて八時少し前の列車にのるようにした。これでJRが誇るデラックス車両の寝台で机もコンセントも確保してサンディエゴとの夜中のメールも万全である。会社の地階のレストランで夕食をすませて、地下鉄でスマートに東京駅に向かい乗り込む。ペットボトルを買い込むのは忘れなかった。寝台特急に社内販売はないのである。

A寝台の個室は、ドアがあり鍵もかけられてビジネスホテルなみともいえる内容である。寝台は進行方向に沿って配置されていて、その大きな窓は、天蓋のカーブの部分までもカバーしているので、満月も綺麗にみることが出来て不思議な雰囲気でゆっくりと走っていった。プレゼン資料のてこ入れなどを続けて二時ころには寝入ったので正味四時間ほどは眠ることができた。デラックスなA寝台にはトラベルセットやシャワー券も入っていたのだが、翌日のサウナを楽しみにしていたので使うことはなかった。ネットで岡山の駅前に24時間営業のサウナカプセルを見つけておいたのでスムーズに風呂を浴びシャンプーをしてサウナで汗をたっぷりかいて万全だった。岡山駅の新幹線ホーム階下にある構内のレストランでモーニングセットを頼んだのだか、ゆったりとしたペースの時間の流れにはギャップがあった、残り時間との勝負でいっきに食べて、コーヒーは飲み干せずにこだまに飛び乗った。まあ汗は十分かいてきたのでひどいことにはならなかった。

山陽新幹線のこだま「レールスター」は、ゆったりした車両でグリーン車なみに椅子がゆったりしているのである。やがてやってきた車内販売でコーヒーを買い求めて、今度はゆったりと車窓の風景を楽しんでいると懐かしい福山の町が視界に入ってきた。人間の記憶能力というものはすごいものだなと思う。二十年あまりの時間が一気に帰ってくるのである。今回はさらに二つほど進んで東広島である。ここからはタクシーで20分あまりで現地入りとなる。SMSを同僚に飛ばすと飛行機も広島空港には到着したようで向こうもタクシーで高速を爆走中であるとのこと。15分ほどは早く現地に到着して待ち合わせてショートアップデートをもって10時からの会議に臨んだ。この時間に始まれば夕方には終わるだろうというのが、読みであり五時の飛行機を押さえていたので四時には終わるという積もりでいたのだが・・・。

午前中はゆったりとする間もなくビジネス開発とマーケティングのアップデートの中でもしばしば、開発部門から熱い質問が投げかけられるので気を抜いているわけにもいかなかった。午後は自分の担当だったのだが、一時半から始めて終わったのは気がつけば夜の八時過ぎである。すでに営業はホテルの手配をしてくれていて、飛行機の手配も変更されていた。真摯な質問で長くなるのは望むところではあるものの長く話し続けたために最後は声が枯れてしまった。まあお客様が質問するだろうというポイントを押さえて資料作成をしてきた上でカバーする説明が出来たという自負も出来たので疲れたものの空港そばのホテルに仲間と戻り夜中まで話し込み報告レポートを仕上げて起きてくるサンディエゴの仲間に展開して金曜の夜を終えることになった。

何か20年前と似たような暮らしぶりをしているなぁと思い返しながらも当時と比べると道具立ては変わってきていて、東芝のJ3100GTで夜行列車でMSDOSの上でビルドをしていたことを思い出したりしていて現在では、XP環境でビルトはサーバーやデスクトップを呼び出していて利用していたりする。まあ組み込みでのC言語ベースでの開発自体は、UNIXから始めていたのでリモートログインは当たり前だったしクロスコンパイラを使う上でノートで出来るような代物でもなかった。そうした環境が京都の仲間たちの協力でノートで出来るようになった時代となっていたのだが、歴史の進展で今では、ソフトウェアの規模が肥大化複雑化してきたことから、またノート自身で出来るような代物でなくなってしまったのはおかしなものである、歴史は繰り返しているわけではないのだが変化しつつ似たような既視感(デジャブ)を覚えてしまうのだ。そしていまではデスクトップマシンをリモートデスクトップやVNCで呼び出して仕事をさせていたりするのである。Windpwsの上でCygwinを駆使していたりすることもおかしなものである。

こんなノリで朝一の飛行機で帰宅すると、いつも土曜日に起床するような時間には家に到着した。なんだかオタクなノリが強くなった性なの、夕方には最近公開されたオタクでディープなhttp://www.a-deep.jp/を見に行き、ベンチャーでフリーソフトを機軸に打ち出していくあたりには共感を覚えてしまう年不相応なオタクなおじさんではあるのだが、なんだか週末としてオタクなノリで通してしまうような展開を楽しんでしまったのである。血液検査で比重が重くなっているのは、こんな鉄分の性なのかも知れない。

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