業界独り言 VOL253 オープンな組み込み開発とは

オープンなものを使いたがる最近の風潮からなのか、組み込みでもLinuxは贔屓にされはじめているらしい。まあ納入先であるお客様から仕様を提示されて使えといわれると断れないという背景も手伝っているようだ。ソフトウェアハウスが中々自立できない背景としては、まずは開発受託という契約のなかで守秘義務や、開発成果物に関しての版権の帰属などの扱いが発注元に残るなどのことがあげられる。開発環境としてオープンなものを利用したからといって、開発スタイルから要求されるクローズな運用形態から、右から左に成果物としてのライブラリなどを自らのものとして提供したりすることが出来ないのである。結局仕様書を起した開発依頼元が営々と保守作業を開発先に依頼し続けるといった形が組み込み開発の一般的な風景となってきていたのである。無論そうした管理作業や企画作業といった高位な開発分担といったものを集約するような自社系列ソフトハウスといったものを擁して柔軟な対応を目指してきた会社もある。

インテグレーションでのトラブルなどを開発現場で見ていると端末メーカー自身が構築するプラットホームというものの難しさというものを具に感じる。多年の経験をもとに蓄積された技術として行われている端末メーカーもあり、開発スタイルとしては少しずつ仕様を市場にあわせてシュリンクダウンして一回の開発成果をグリコのように一粒で何度も美味しいといった仕事の仕方を率先垂範しているところもある。今、そうした端末メーカーは収支も改善したうえでユーザーの好感度も高いといった順調な滑り出しに移行したようにみえるところもある。苦労した開発成果を大事にしていくということは、ひとつの答えでもある。昔からの伝統的なアプリケーション構造から踏み出せないという端末メーカーもある、複雑怪奇とも映る多岐にわたる端末の操作仕様なるものが通信キャリアから提示されているからであり、通信キャリアから提示される新たな機能追加を、ことのほか恐れてしまうのは操作マトリックスの次元が増えてしまうからなのだという。

そうした足枷のない開発というテーマがあれば自由な形で理想的な開発に取り組めるのではないかと考えるのは無理からぬことであるが、自由市場として国内の携帯端末が志向できるのかというと、いままでの通信キャリアが企画した端末群に合わせて出荷していくというビジネススタイルにどっぷりと浸かってしまった会社の動きには合わないようだ。通信キャリアから独立して自社端末を提供販売していくという事態には、端末電話番号の自由化以降でないと実現できそうもない。まずは会社としての業績拡大あるいは確保といった視点で考えていくと子供が減りつつある現状の国内のみをターゲットしていくには事業としての将来が見えないという背景があり、国内の市場規模に合わせて身の丈をあわせるか、。欧州や中国といった市場に向けて進出していこうとするのには、価格も機能もバランスよく効率的に開発が進められる必要があり、国内のような足枷もないことから自由な開発をしていこうという動きが出てきたようだ。

端末ソフト開発に、見られる風景としては最近ではPCベースでの仮想端末スクリーンに向かう姿は多いようだ。無論実機ベースでソフト開発をしている風景もある。問題の解析にあってはハードソフトも含めたシステムで検証しなければならないのはいうまでもないことなのである。GNUではないにしても開発環境までを無償で提供しているビジネスもある、コンテンツプロバイダに向けた拡大策の一環でもある。こうした技術を応用してメーカー自身が自社ソフト開発に役立てようという動きも出てくるような雰囲気になってきた。ダウンロードコンテンツ開発用に作られた部品群や無償提供ツールがメーカーのコマーシャルソフト開発の要求にミートするのかどうかは、まだ暗中模索な状況でもある。ビジネスモデルのボタンの掛け違いとならないように留意する必要がありそうだ。無論プラットホームとしてそのAPIを利用しているものは、評価ソフトとしてモデムチップのリリースにサンプルソースとして提供されているものが該当する。ただし、そのことが互いに包含しあうのかどうかは別問題である。

MSCは使うけれどもMFCは使わないで自前のライブラリを使い、隠しシステム機能は使わずにシステムを堂々と使いこなすといったPCソフトのメーカーの事例と同じ話である。専門学校でVisualBasicを学び、これでソフト開発に携われると誤解しているようなことは無いにしても自分で必要な部品群の作り方やツールの守備範囲についての理解なくしてソフトウェア技術者とはいえないのだが・・・。我々の提供する技術からアイデア拝借して、さらに自前の技術を織り込み製品開発を鋭意進められている会社も多い、チップメーカーのあずかり知らぬところに深い課題があり、独自に解決する技術を深耕されているのだ。そうしたお客様とのサポートの仕事は互いにとてもアグレッシブであり、楽しい仕事である。チップソフトのサポートという仕事が楽しいのは、そうしたGive&Takeを最先端の仕事のなかで進められることだからなのだと私は思う。ある意味でオーバービュー的にシステムを捉えながらマクロからミクロに掘り下げて問題解決を図っていくのである。まあソースコードを読むという技術は、そうした仕事で必須な技能といえる。

プラットホームとして公開されたものを利用するという意義が、別の視点から有効であるように思われてきている。かつてRTOSとしてITRONを利用し始めたころに東大のTRON研究室の方々から「なぜ今更ITRONに価値があるのでしょうか、市場にはたくさんRTOSがあるのに・・・」と些か自嘲的に自問自答のような質問をいただいた。1985年頃だっただろうか場所はTRONの展示会でITRON仕様の自社OSを採用した製品の展示をしていたときの話である。当時は、いろいろなRTOSが存在していたが機能範囲が明確でなく組み込みの仕事に入っていく際にソフトハウスの人材活用をしていくうえでリアルタイムシステムの経験を確認していくうえで共通機能仕様といえるITRONの価値は大きな鍵となっていたからだった。そうした話をしても、中々当の開発に携わっている方々には得心が行かない様子だった。まあ、渦中の人たちがモノリシックな理解によって立っているわけではないのだろう。ある意味でITRONは組み込みソフト業界の標準として溶け込んでいき、大きな市場の広がりを与えた転機だったといえる。

オープンな仕様のRTOSを採用したとしても、残念ながら組み込み対象であるお客様の実装仕様となるターゲットシステムは守秘の塊となり、ソフトウェア開発を受託するソフトハウスのビジネスモデルの中核となす守秘規定の範疇を越えて、同一ソフトハウスの中で他社のお客様の同様な仕事に携わったにしても、障壁となりノウハウ以上の成果を期待することは出来ないのであった。Windowsのソフトウェアのように完成された部品としてDLLを流通させるといったことがなし得るのが組み込みソフトウェアとの差異と言われてもきた。携帯電話の開発がお客様の溢れるばかりの機能競争の期待の果てに、ついには第一位のキャリアの利益低下までに到達してしまってきた現実の背景には、実は、改善しないソフトウェア流通という課題が残されているからではないだろうか。そうしたこともあって開発規模を改善するソリューションとしてアプリケーションプロセッサといったハードの追加投入という事態にまで達してしまっているのだろう。

バイナリメソッドなどでシングルチップソリューションとしての機能追求を果たしてきたプラットホームを評価しはじめたのは、通信キャリアとしてダウンロード機能を採用していないところからだったりするのは面白い動きといえる。ただし、無償利用可能なツールなどに過大期待がかかったりしている実情をみたりしていると、まだ先は長そうである。ソフトハウスがプラットホーム依存アプリケーションの開発実績などに基づき従来のソフトウェア開発受託契約の範囲を修正したりすることが出来そうな時代に突入出来そうなのはよいことなのだが、実際のところこうした通信機メーカーの重厚長大さが契約文言のやり取りをいつまでも続けていて本論に立ち入れないさまなどを見ていると、世紀を越えて生き残れてないメーカーの雰囲気を感じたりもしているのである。確実に時代を越えた、新しい開発形態に移行しようとしているソフトハウスなどが手弁当で開発評価などに着手しているところもある。

端末ショップで自由にアプリケーションを選択してカスタマイズして仕上げるといった時代に突入できるのかどうか期待が高まりつつある。実は日本からは始まらないのかも知れないのだが、ゲームソフト業界あたりがオリジナルキャラクターのアバターなどを使った楽しい端末というのかゲームというのかPDAのような説明の難しくないケータイを使ったビジネスを立ち上がるのかどうかが、来年からの楽しみの一つでもある。子供向け端末として離陸できるのか、老人向け端末として離陸できるのか、日本のお家芸であるところの匠の世界ともいえるゲームと組み込みの融合を果たせるのかどうか可能性は膨らむのだ。実はこうした端末の登場が、通信キャリア同士の無意味な競争を駆逐するような気もしているし、通信費用と端末価格の相乗り販売をやめない限りこんな運用が出来るとも思えないのである。トップ通信キャリアのビジネスモデルの破綻の兆しなどから国内市場に見切りをつけた通信機メーカーの感性からくる本能的な取り組みになるのかも知れない。

楽しい時代を支える、関西人の仲間を迎えなければやっていけないような時代となってきた。やはり吉本新喜劇も含めて、こうした楽しい端末を東京の感性のみで追求していくことには無理がありそうなのである。最近増え始めた、仲間がみな英国帰りあるいは英国人だったりするのは何かの予兆なのであろうか。欧州市場に魅入られたメーカーが投入してきた開発舞台として選択してきた英国だったのだが、からっとしたサンディエゴの気質と相容れるのかどうかは、ちょっと違うのかもしれない。最近のキーワードだったGSMなどはやはり欧州が中心であり、アバウトな米国人のCDMA的な感性とTDMAのかっちりとした感性の間には齟齬があるのかもしれないと感じたりもした。まあ日本では長らく続いてきたPDCの感性が支配的なので英国とはあうものの、すこしアバウトな感じのするバイナリアプリケーションが受け入れられるのかどうかは、私達の考えなければならない課題なのだろう。「そんなんあきまへんで」と応えてくれる仲間がほしいものだ。

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