業界独り言 VOL370 なんかこの数字に魅かれるな

い まどきの若い人には感慨もないのが、この370ということだろう。小父さんたちの世代でいえば、前世紀のいや全盛期のIBMが誇っていたシステム370が 学校時代を思い返させてくれる。語弊があるかもしれないが、そうした先進のコンピュータを国をあげて追っかけをしていた今でいう中国のような状況が日本に もあった。日立も富士通もそうした中で国産コンピュータを世界のトップに押し上げようと躍起になっていたのだ。実は、昭和52年から、コンピュータメー カーだった富士通に縁あって出向することになった経験があり、システムエンジニアとして当時の内情を垣間見たりもしていた。

当時の富士通は、IBMからスピンアウトしたアムダール博士が興したベンチャーに肩入れして、IBM370の中枢技術を手に入れて互換路線を達成し ようとしていたのだった。実際問題、富士通自身もIBMのカスタマーでありマシンを導入しているのでIBM自身もその範疇でソフトウェアの提供もしなけれ ばならないという状況で、富士通では新しいIBMのソフトウェアの概観から同様な互換性のあるシステムソフトウェアの開発を進めるという仕事の仕方をして いたようだ。聞いた話では、残念ながらもっともよい結果が出るのは、富士通のマシンにIBMのソフトを載せて動かすのがベストだという話だった。さもあり なん。

私は、新入社員の流れで出向して、ミニコンピュータのSE稼業を経験して本職としての派遣元の事業で考えるシステム事業の礎を作るための人的投資で あった。富士通のミニコン事業自体は、業界標準ともいえるDECのPDP8とのパテント係争などがささやかれていたものと、松下が開発してきた独自ミニコ ンとの合弁で生まれ変わろうとしていた矢先でもあった。結局のところ、ミニコンでビジネスにつながることはなく、ツールとしての位置づけでこの後もしばら く使い続けることにはなったが、経験としてのソフトウェアシステム開発の実践はすることが出来た。派遣元に戻るまえにマイコンが市場を席巻してきていたた め8ビットマイコンの世界に引き込まれていったのだった。

初めて見たマイコンの命令は、8080だった。あまり綺麗とは言えないものの単純な処理なのでわかりやすいともいえた。これ以前に超シンプルな命令 のミニコンなどを見たりしていたことも要因かもしれない。命令が16個しかないミニコンはある意味でとてもシンプルなツールだったのかも知れない。 FuseROMライターなども、こうしたミニコンのソフトで開発して出力ポートを使って構成したりもしていたのだが、間違えるとあっというまにチップが焼 けてしまうといった危険な道具でもあった。msのパルスで書きこむ途中でミニコンを止めたりすればそうしたことになるのである。

マイコンの登場は、電気技術者のすべてに波及するようなニューウェーブを引き起こすと考えられ、NECのTK80トレーニングボードをこぞって日本 中のメーカーが購入して貪るように取り組んでいたに相違ない。松下では、ミニコン研修などをしてきたメンバーが講師となってUARTの8251を使ってテ レタイプ社のASR33を接続して入出力のプログラミングを実践して機械語でデバッグするといったメニューをこなしていたのだった。当時のTK80につい ていたメモリ容量は1kバイトだった。でも課題は、キーボードから読み込んだデータをプリンターに出力するというものだったのでタイミングやコントローラ の制御といったものには十分な経験をさせてくれるものだった。

一番下っ端の講師としてピットインにROMデータを焼きこみにばしりで行かされたり、デバッグを先行して実施するのだったが方眼紙に書き出したオシ ロからの波形でみたループで動作させたソフトのデータバス波形から原理を学んだのは血肉となっていまも流れている気がする。学校で教わった最大の武器は、 シンクロスコープでの二現象モニタによる遅延掃引の技であり、当時でも中古だったと思われる岩通のシンクロをじっくり学生時代に触らせてもらえた経験が、 このときは活躍して先見の明のある先生の深謀遠慮に感謝したのである。

十分にな準備期間を与えてもらったというべきか、活躍できるだけの経験素養をたまたま持っていたことはラッキーだったし、回路にも半田付けにも抵抗 がなかったことが新たな道に向かうことになった。先輩社員が、ミニコンを使ってクロスアセンブラを開発していた。最初の版は8080用でアブソリュートア センブラだったのだが、二代目の先輩は、やはりオブジェクトを使ったリンクローダが欠かせないとして、モトローラ6800用のクロスアセンブラをミニコン で開発してくれていた。参考にしているのは、ミニコンのシステムのファイルフォーマットだった。これに互換性を持たせることでツールが活用できるからだっ た。

電波事業部では、マイコンを活用した車載端末を開発して車両位置を検出するシステムを開発してタクシーなどの運用に有効活用するというものを手がけ ていた。そんな端末の開発に8085が適用されて、初代のクロスアセンブラが活躍していた。2代目のクロスアセンブラがターゲットにしているのは自動車電 話に適用するこれからの戦略マイコン6800だった。その源流となっているモデルは松下が心血注いで電電ファミリーに真っ向勝負をしかけて手に入れた自動 車電話の端末だった。マイコンがない時代から開発が行われていたので制御ボードという名前のコンピュータポードは自分たちで構築したRCA4000シリー ズで作ったコンピュータでもあった。

松下は、コンピュータから撤退はしたものの、富士通に売り渡した部隊との連携をとりつつマイコンという戦場で戦略的な開発をしていたのは知られては いないことでもあった。そして松下のオリジナルのコンピュータが3個も搭載されたモデルが初代の商用化した自動車電話TZ801だった。16ビットマイコ ンひとつ、4ビットマイコンがふたつ搭載されたこのモデルは先駆者たちのDNAが色濃く残ったアーキテクチャで構成されていて、正直しばらくソフトウェア の設計資料を読みながらもなかなか理解が難しいものだったが、そこにも深い互換性についての取り組みがなされていたことがわかり、とても良い経験となっ た。

開発された自動車電話を構築するソフトウェアは、開発において用いられてきた自らが定義したマイクロコードをマイコンを使う段階でも適用するという ことだった。言い換えればアーキテクチャを踏襲することでハードウェア設計の範疇として、昔の機械語を中間コードとして実行するインタプリタ構造をとった ということになる。最近のJavaやDalvikの意味とは異なるが解釈系のシステムであることに違いはない。まだまだ性能が十分でない時代ではあったも のの、制御シーケンスなどの要求事項なども、アナログ処理で実現するために、マイコンの命令実行に3-10usくらい要してもなんとか賄えるということ だった。信号シーケンスの速度から言えば150bps位のフレームが処理できればよかったのである。

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