業界独り言 VOL357 マイコン老師達とオフ会へ

オフ会と称して、同期の仲間や、一緒に仕事をしてきた仲間と語らうことは業界が違えても意味のあることだと思う。無論経験を共有してきた時間に基づく相互理解や互いへの信頼がベースとなっての話ゆえに、会わない時間が経過しても人生の味わいも追加されて円熟した味わいになってきての意見交換になるからでもある。20世紀に入社して、産業コンピュータの産声と共に歩き出して、いまでは家電品自体がマイコンなしでは語れない21世紀に突入した。

未だに鉄腕アトムも御茶ノ水博士も現れないが、確かにロボットもコンピュータも登場してきているのだが何か時代を牽引していくものが見つからないように感じる。社会人生活としての所謂、会社員としての暮らしが出来るのも後少しであり、同期入社の仲間もそれぞれ会社での役割を担って後輩の育成や、業界活動に身を費やしている。現場でソースコードを追い求め続けるあるいはチップセット開発を続けていくというのは日本では何故か順繰りに若手に回していくサイクルが不文律としてあるようだ。

会社生活を続けていく限りにおいては、それは会社との契約でもあり、気に食わないのであれば契約更新をせずに自ら条件のあう仕事に移るか、もしくは事業を興すというオプション選択ということになる。こうしたサイクルは実は米国であっても日本であっても同様で五年くらいの周期で自らが変えていくのが米国で、日本でのそれは、五年周期ぐらいで次々と会社の中での役目を変えていく必要に迫られるということになる。

会社生活の最初の五年間という意味では、一年あまりの配属のあてのない新入社員研修体験に始まり二年間の富士通出向経験やグル達の渦巻く組み込み黎明期のジャングルに解き放たれたマイコン開発環境のゼロからの出発だった。組み込みの開発経験を踏まえてのシステム物、無線物といったジャンルの事業部に所属してマイコン黎明期を過ごすことになったのは私の生涯でのとても幸福な千載一遇のチャンスでもあった。着実に組み込みの世界に浸りこむことになった。

次の五年間は丁稚奉公からの応用発展の時期であり、独り立ちして機器ソフトを操り、さらには、いわゆる自動調整の工程導入や大規模なシステム開発や、開発環境ソフトの開発など目まぐるしい五年間だった。文字通り日本中を駆け回った時期でもあった。社内での研修所勤務でマイコン教育についていた同期のM氏にはコンパイラ開発などで言い尽くせないお世話になった。彼もまた、新入社員教育の現場にマイコン導入をしてきた立役者でもあり場所は離れても互いに気にする存在だった。

同期のエンジニアDさんは、マイコン老師として私の尊敬するエンジニアの一人である。私は同じ会社に属していたとはいえ、彼が開発してきたマイコンを使う機会よりは、会社のビジネスを立ち上げていく上で必要なマイコンを選択し続けて仕事をしてきたような時期を過ごしていた。NMOSのマイコンからCMOSのマイコンに代えていくという会社としての戦略の延長線上にあるモトローラのマイコンを使い黎明期の自動車電話の開発などに当たった。それが日立に代わり、三菱に代わりといった世代交代の先でようやっと仲間のマイコンを使えるという状況になった。

20年ほど前に、マイコン処理性能の尺度としてドライストーンではなく、MIPS/Wの話をDさんから聞かされていたく感銘を受けた。その際に、実際の社内マイコンのデータと並み居るほかのメーカーの数値を比較する機会があったのだが、衝撃的なものだった。当時私はと言えば、他社の8ビットマイコンでC言語の実用化を果たしてアセンブリ並みのコード効率で仕事に使える環境を開発し、つづく16ビットマイコンでは低消費電力だが性能に癖のある他社マイコンのコンパイラに対抗したりシミュレータ開発などを実務の延長線でやらせてもらうという幸せな環境だった。

そんなころ、久しぶりに同期のDさんから呼び出しを食ったのは、そうした状況で「社内に向けても何とか意見を言え」といったノリだったように思い出す。会社を上げての取り組みという高級言語化やUNIXへの対応などの流れを実践していく中で遭遇したことを話に新幹線で向かった。大きな会社ではあるものの、同期だったり横のつながりが活きた形で活用されていると感じた当時の自分自身が感じた会社の風土は素晴らしいものだと考えていたのだが、果たしてそれは一面のみで多くは誤解だったのかも知れない。

縦割り行政で個別の組織を横断的にフラットに結ぶということは、ベンチャー気質が無ければ出来ないものだと感じた。そんな雰囲気のある事業部で、そうした最後のチャンスともいえる仕事に参加できたのだが、その際にはグループの力を結集してマイコン老師Dさんの作である傑作のマイコンと、BTRONのベースといえるBIOS設計や、新たなモバイルアプリの萌芽となるインタプリタ言語の搭載、標準化活動の先端を走っていたIrDaといった目白押しの機能満載でプラットホームとして導入した米国技術であるプロトコルやモデムDSPを担いでアプリで盛り上げようといったグループの垣根を越えての取り組みだった。

ある意味でとってもベンチャーな活動だった。まあ、そうした突き抜けた活動をして高速クロックで共同活動をしてしまうと意識が高まりあうのは良いことでもあり、それ以外の会社活動と乖離してしまったりすることも致し方ないといえる。私にとっての前の会社での組み込みソフト最前線は、ある意味でその仕事が最後のものとなってしまった。いろいろな技術をバランスよく積み上げていく感触はあったのだが、まさか現在の携帯電話業界でのJavaやBinary環境といったアプリ配信環境以前でもあり飛びすぎていたということだったろう。

技術が素晴らしいからといってもシステムとして実現してようやく分かってもらえる達成感にまで、皆を導けなかったことは残念だったがある意味で私の当時の技術を見極める力の不足でもあっただろう。さて、そんな時代は既に15年も昔の話であり、今では、M氏もD氏もそれぞれに現在の会社が重要とみなす新しい事業分野に転身されている。私は同期達の会社での技術管理を経ていまは携帯電話の技術開発会社でソフトウェアコンサルタントの如き仕事をして、ようやくかつて出来なかったテーマをメインラインとしてある意味で指揮者の如きのりでお客様、開発者の間をとりもちつなぎ物づくりのお手伝いに没頭している。

来週末には、そんなM氏とD氏と懐かしのフォークライブハウスでのオフ会をするのである。互いに思う、いままでのこと、いまのこと、これからのこと。そして自分たちの世界でのやりがいについての意見交換をするのである。実に楽しみである。すでに、D氏からは「お題」を頂戴している。この時代日本を元気にするために何をするべきか・・・と。三人が三人とも感じている、この業界の元気のなさと共にかつての輝いて仕事をしていた時代とのギャップについて思い悩んでいるということなのである。どんなオフ会になるのか楽しみにしている。風邪などひかぬようにしなければ・・・ならない。

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