業界独り言 VOL297 組込み下克上

組み込み業界の中でも、生き残りをかけた状況になってきた観のある携帯電話業界では、生存をかけた戦いが繰り広げられている。既に多くのメーカー自身が自覚しつつも、現在の殻や今までの流れを、破ること・変えることを何らかの形で試行しているのが実情なのだが、結果として見えてくる実績としての現実には中々繋がらないままでいるようだ。流血騒動となっている開発スタイルの変革の中では止められないメインストリームにすら鉄槌を下す時期に来ているのではという知己もいるのだが、そういう状況を認識している経営陣と現場の間に見える乖離した状況は救世主を待ち望んでいる弥勒信仰に似ているのかも知れない。変えられない意識となっているのは今までの会社教育の成果でもあろう、優秀な学生を投入してみても会社の教育指針が無いままに、また経営指針が振れている状況のなかで暮らしてきた彼らにとっては変わり行く流れの中で盲従することを生存の術と認識しているようだ。

盲従すれば生活していけるという、羨ましい状況が存するということは信じられないのだがバブル期に展開した世代と去り行く団塊の世代のギャップが、よりその問題を誇張したようにみせているのかも知れない。このエネルギーレベルを突破するにはエサキダイオードでも展開してトンネルを開けなければならないということなのかも知れない。残念ながらバブル期で進めてきた経営の蓄積は、本来ならば併せて蓄積できたはずの匠技術の集大成などに結晶させていくべきだったのだろう。しかし、筋肉質を構成する部分に対しての運動不足や適切な栄養指導がたたったお陰で成人病となり、団塊世代のリタイアの中で栄養士・運動指導員という状況にも遭遇しているようだ。東洋医学的にいえば人間が本来保有している自己治癒力をフルに活性化する鍼灸術で回復するツボがあるはずなのだが、ゆったりとハリ治療をする余裕もないのが現実の風景らしい。

挑戦する気概を持つ若者が育たなくなったのは、国の指導のなせる業でゆとり教育という方針無きお仕着せの生活を過ごしてきた不幸な歴史の結果だろうか。果たして、そんな生活意識で暮らせるほどに資源がない日本という国家にあって、また勤労意識も無為なままに会社で過ごす時間をカウントするモデルで給与を得ていけるという大きな誤解をうみ出しているようだ。ユーザーニーズと最近までの歴史に基づいて偶々先進の文化を過ごしてきた事実は確かに日本にはあるのだろうけれど、きわめて不確かな国としての拠り所を忘れているのであれば未来は覚束ないのである。2Gで栄華を極めてきた携帯電話メーカーは、機能拡大の流れの中で辛酸もなめてきた経緯もあるもののそうじて次々と新たな技術に対しての意識に集中してきたようだ。着実の自社技術を固めていくという動きよりも繰り出されてくる通信キャリアからの新たな仕様に対応していくことに翻弄されてきたという言い方が正しいかも知れない。

不幸にも状況を悪化させたものは、2Gから3Gへの切替でありアプリケーションプラットホームとプロトコルの分離もままならないうちに3G開発の試行が始まりお召し列車が走るプロセスを時限立法するという展開となった。そこまでに至る状況は通信キャリア自身が持つ栄華の結果でもあり伸びすぎた一強の顛末として有限なる世界としての自然な成り行きだったのかもしれない。パテント戦争までも巻き起こして始まった3Gの開発競争は、結果として国策プロジェクトの如き様相の中で、必ずしも目指す戦勝国とはなりえなかった。またどこに戦勝国がいるのかも不明なほどに実態としての3GPPの離陸には時間が掛かり、大規模なレベルで実働しているネットワーク事例といえば日本にしかなかったりするのも事実である。キラーアプリを持たない中で繰り広げられる3GPP陣営の無為な戦いに参加しているメーカーや傘下のソフトハウスなどは戦いのみで利益を挙げようとする、ドコカの国の傭兵ビジネスのようなものにも映る。

第三世代に向けて新たな通信キャリアが登場したり、パケット定額の実現に向けた競争や、シンプルな使い勝手での共存やら各通信キャリアごとの状況が色分けされてきているのが見えてきた。明確なメッセージとして音楽配信をキラーアプリとして訴えるキャリアと、ユーザー数に影響を与えない形でのテレビ電話をキラーアプリだとしてユーザーを模索しているキャリアなどがある。コマーシャルで大衆に訴え続ければ、やがて芽吹くニーズに繋がるいうのだろうか。ISDNでさえも芽吹くことの無かったアプリケーションを携帯することで解決するとは思いにくいのである。現在明確なニーズがあるとすれば、英会話教材システムとしてのその位置づけになるのだろう。相手とめんと向かって話すことが簡単に出来るのであれば、きっとこの国のエンジニアなども英会話で苦労することも無いのだが、それくらい大きな壁があるのだ。テレビ電話のアプリケーションを支える技術としてアバターが必須だというのもおかしな話であり、顔をみせるのも嫌なので人形を出すというのであるから・・・。

第三世代のシステムに移行するという明確な目標や利便性についてエンドユーザーと共有しないままに移行してきたことが3GPPが、うまく行かない理由だともいえるのだろう。現行のシステムで不満の無い人たちを巻き込んで議論のみをし尽くしてきたという歴史があまり地に足の着いた形にならずにいたのである。第三世代により世界中どこでも繋がる携帯電話を目指している現実のなかで使っているユーザーのプロフィールがアジア地区のみが突出しているということでもあるのだろう。もう一つ歴史認識を正しく持つ必要があるのは実はバンド構成であり、世界の趨勢と日本の構成の上下のバンド構成が異なっていることが挙げられる。これゆえに、第二世代までに使ってきた800MHzでは日本のみが孤立してきたのである。そんな孤立した状況のなかで第三世代に繋がるまでに普及したアプリケーション開発を支えてきたのは周波数に縛られないPHSシステムだったというのも興味深い。TDDによりピンポンすることにより国際的に通用する規格として受け入れられてきたのでもある。

新興国の通信事情改善につなげる世界貢献という意味では、PHSが果たしてきた意義は大きいものだと思うのだが、そうした自負心を持つ人は何故か日本人には少ないようだ。PHS自身を過去のものとしてしまう状況には、国内での第三世代競争の犠牲者として生贄にされてしまったからなのだろう。PHSこそ本来ならばプロジェクトXにでも登場させるテーマだと思うのだが、どこでも使えるという利便性や高速通信という特性をうまくコストバランスよく達成した素晴らしい技術だと思うのである。PHSと携帯の二つの機能をもつ端末の登場などはある意味で画期的なものではあったにもかかわらずユースケースとしてアプリケーション設計から呼処理を設計しなおすこともなくドッチーカと悪口を叩かれるような実装になってしまったのは、端末開発に従事してきた人たちの意識不足からなのだろう。同様な状況がWLANとCDMAの共用機種などの登場で再登場してくるのは世の常なのである。適当に済ましておいてはならない重要な点として認識していたのかどうかがエンジニアに問われている。

懸命に実装検討などを深く先行開発してきたメーカーではアプリケーションの進展を見越して携帯のためのWindow機能やアプリケーション管理機構などを構築してきた。落ち着いて基礎技術を開発していくというのはメーカーとして必須な項目であると私は信じているのだが、実際には最近ではソフトウェア開発に費やした費用を研究開発費用としては認定されないというような状況であるらしいし、またそうした評価になっても致し方の無い実態なのかもしれない。通信プロトコル開発に押されてしまい自社開発から、他社協業を模索したり、チップセットとしてライセンス導入したりという流れの中で本当の意味で携帯電話開発の要になる部分についての基礎技術については殆ど手付かずになってしまっているのもメーカーでは事実のようである。徒にRTOSをITRONからLinuxあるいはSymbianに変えてみたところで、携帯電話というアプリケーションを構築してきた自分達の蓄積されているはずの経験知識を毎回マッピングすることに苦労を費やしている姿が見え隠れしている。

携帯電話のためのプラットホームとして技術追求をしているという会社がどれほどあるのかは判らないのだが、まあ端末開発という大命題を背負ったユーザーを味方に引き入れて、その開発を通じて一年以上も費やしていくことが出来れば一つの方向性を会社として持つことが出来るはずだろう。そうした開発プロセスの見直しなどどこ吹く風で急激なコスト圧縮を要請されているのも事実であり、それが故に協業やら短期的なプラットホーム選択だったりもするようだ。しかし短期的な選択が正しいことなのかどうかも含めてエンジニアリングとしての眼が曇ってしまっているように映るのは私だけだろうか。知己たちの会社に基本的な技術解説や新技術の解説などを通じて、今後の展開についてのプレゼンテーションをすることが続いているのだが多くの知己たちからは「本来そうあるべきなんですが・・・」と肯定とも否定とも判然としない現状としての反応が返ってくる。六年前に捉えていたQuad社としてのビジネス範囲からは大きく異なり拡がってきているというのが、最近の動向でもあり私自身の経歴も含めて歴史認識も含めて将来動向に柔軟に対応していく社風の現われでもあるようだ。

来年は一つの大きなステップであり、二強一弱と言われている状況の弱のキャリアにとっての転機ともなるチャンスになるかも知れない。二強と呼ばれるまでに成長したキャリアへのサポートもそれぞれ展開しているものの歴史を大きく塗り替えるような史実を残しそうなほど厳しい現実と将来展開への大きな転機というのが今年からのアクションに委ねられている。しかしそうした危機認識をしているキャリアの要請に応えられる危機意識を持ったOEMがあるのかというと課題でもある。そんなOEMの多くは、現状疲弊の中で懐疑的な一弱のキャリアに向けて舵取りをする経営判断など出来ないということもありうるだろう。OEMのこうした疲弊生活の中でシュリンクしてしまったビジネスに気概をもって挑戦しようという志の会社はOEMではなくて傘下のシステムハウスなのかもしれない。長年のビジネススタイルの枠からの脱却が出来るのかどうかという踏み絵などがあるわけではないものの現実の選択としてリスクを持った新たな挑戦までに辿りつくのかどうかは不明である。下克上というキーワードを世の中に繰り出してくるかどうか、二強一弱からの脱却がいかになるのか、つまらない現実から脱却して挑戦するエンジニアの登場なども期待するところである。