業界独り言 VOL263 埋め込みソフトだから埋没するのですか?

導師のもとに年に一度集う忘年会が、今年も行われた。Windows一筋でDbase路線を追究し続けてきている導師さまであり、忘年会に参加する仲間はユーザーであったり元社員であったり色々である。ある意味で埋め込みソフト業界の走りとなるような世代の人たちはかなりの恩恵を受けてきたテクノベンチャーの走りともいえるだろう。WindowsNTの内側を知りつくした上で、昨今のLinuxに傾注する業界の流れを正面きって批判もしている御仁でもある。そんな導師さまであるが、Windows版として開発してきたdbase開発環境ともいえるソフトウェアプロダクトをLinux版として移植するという偉業などにも取り組みつつこの一年余りを過ごしてきたようだった。導師いわく「Unix(WindowsNT)は、まともに出来ているのにLinuxはでき損ないで、とても使えたものではない・・・」といったような論調なのである。かなり誇張が入っているかもしれないが、路線は外れては居ないと思う。データベースをまともに動かすことの難しさをOSの仕組みから取り組んできた人の言葉の重みを知るべきである。

「WindowsNTは、まともなUnixである」というのが導師の持論でもある。内部構造としての振る舞いという意味で導師は、そうした呼び方を使っているのだろう。Linuxに関して起こっている訴訟問題などについても内部を把握したうえで「あれは、あのままではすまない」と背景も含めて話し出すといった。ある意味で業界話の坩堝というのが、導師を囲む忘年会の実体でもあり、そうした中で五十台半ばに差し掛かっている導師自身、未だにソフトウェアプロダクツの開発を通じて飽くなき知識吸収をしている姿に肖りたいというのもつどう仲間の姿のようだ。ソフトウェアサポートをしている最長老の御仁は六十五の齢にして、導師の開発しているプロダクツの支援作業をしている。二次会・三次会になっても導師との掛け合いの熱気は冷め遣らない。天才的な技術者が作成したパートを理解不能ということで切り捨てて修正改悪したりするといったサイクルの顛末などソースコードのコメントに書き添えられた作者ネームなどをめぐって繰り広げられる話などは、他人事とは思えない話題でもある。

Linuxの未完成具合という呼び方が相応しいのかもしれないのが、出来ていない関数群や、エラー処理に構わないスタイルの設計コンセプトが頭の痛いところのようだ。Unixのコードのコンパイルは通すようにしているかのごとき実体のない関数群や、プログラムの開発主体が神のごとき精度で書き上げたコードしか受け付けない実装のライブラリやらで結局のところ実績のあるWindowsNTで動作するアプリケーションの移植にはWindowsNTと同様な実装コンセプトのライブラリを作り上げることになってしまったらしい。そんな導師が話を振ったのは最近家電業界でLinuxを担いでいるメーカーのエンジニアである。彼は学生アルバイトとしてサザンパシフィックで働いていたことがあり米国までいってデータベースソフトの仕上げやデバッグに没頭したりしていたこともある。仕事としてのLinux支援のなかで基本要素技術提供といった位置付けの彼の部署のジョブセキュリティはこうした世の中のLinux傾注で確保されてはいるもののお寒い状況のLinux現況のなかで同様な状況に遭遇しているようすだ。実績のあるアプリケーションが殆どないのがLinuxの現状でもあり、世の中の多くのアプリケーションの現実がWindowsベースで開発されていることを考えると導師の咆哮には首肯するのみのようである。

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業界独り言 VOL262 第三世代携帯ゲーム?

新型FOMAが年明けには発売になるそうだ、年末にはPSXが販売になるそうだし、やはりゲームでなくちゃ日本はやっていけないということなのだろう。来年二月に発売になるものを、この時期に発表しなければならないというのも本来であればクリスマスに出すべき予定だったからなのだろうか。発売を宣言したり、ネーミングに年度を冠したりするのが開発メーカーや開発部隊に対しての発破がけなのかもしれないのだが、果たして忙殺されている現場のことを思いやると声も掛けられない状況なのだと思う。最先端の技術に触れるというキャッチフレーズで求人を募ってきた求人雑誌の誌面に偽りはないというものの、そうかといって正しい表記であったかというと誤解を招いているのではないかという思いもある。誰もが、待ち望む端末を繰り出していくというのであれば誇らしげに仕事を見せることも出来ようものだが、果たして・・・。ニュースを報じていたキャスターは、「画面が綺麗ですね・・」と評して直ちにハンドオーバーしてしまった。

ゲーム端末としての機能は、ドラクエやファイナルファンタジーを動作させることが出来るそうであり、確かに最近ではゲームボーイを痛勤電車での中でやっている若者社会人やら、テトリスをやっている愛すべき中年サラリーマンもいる。平安の都ではないのだろうが、誰もが当時に思いをはせて笏を携えるかのように、ケータイをもち同時に複数の仲間達とリアルタイムに近いメールチャットを繰り広げているさまは、さしずめ漫画の如きである。技術の追求のみに心奪われて、繰り出していく画一化された道具立てのように見える端末と、それを使う世代が、遊び方の工夫とか心豊かな楽しみ方を出来ずにいるのはマニュアル化の温床が背景にあるからだろうか。楽しみ方の広がりとしてバグを楽しむような時代もあった、いかに多くのバグを知っていてその状態を再現できるかといったもの、ある種のゲームであったかも知れない。

ソフトウェアの複雑化により、リリース時期が最優先となりキャリアの仕様にあわせた端末を商戦にあわせて端末を提供できるのかどうかという経済活動のルールでは、モチベーションの維持も大変なことなのだろう。端末価格として支払われるユーザーからの費用と通信費用として支払われる一年余りの費用とで果たして相殺できるものなのだろうか。端末価格に追い討ちを掛けるようなライセンス費用という問題も確かにあるのだろうし、もうプラットホームを統一化してアプリケーションを流通できるようにしなければならないと考えるのは、どのキャリアも同じことなのだろう。第三世代端末としてIPベースで接続が果たされるようになり、最近のGSMにも対応した端末では米国でメールやウェブのアクセスすら可能なのである。アプリケーションがIPベースで構築されるようになってきた昨今では、通信キャリアのビジネスモデルが揺らいでしまう可能性を秘めている。

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業界独り言 VOL261 意外・心外・予想外・・

世紀を越える前に予感した事態は、結局のところ回避できなかった。自らの行動力の不足を改めて考え直している次第でもある。大きな流れとしての携帯バブルを起こした元凶は日本自身の突出したニーズと過当な競争だったのかも知れない。第三世代携帯電話の登場に向けて期待の高まった多くの技術が世紀を越えてどうなったのかといえば意外な結果や心外な結果などがあるように見える。1999年に当時、最高益を計上しようとする携帯電話メーカーから離反することにした。そして罵倒を浴びながら選択した路に描いた個人的な技術者としての視点からみた理想的な形などには必ずしもならなかった。そうした中で、少しずつ変容していきつつ辿りついている現状を、五年前の自分に教えてあげたい衝動にも駆られたりもする。予定されない未来を切り開き生きていくことは面白い。

そんなグローバルな先端開発の中での暮らしぶりにおいても、現実の市場に向けた仕事の中で打ち出していく方向修正の影響は、あまり日本の会社をとりまく環境と変わらないともいえる。では、何が違うのかといえば政治的な政策から時代を制御していこうというのではなくて、やはり自分たちの信ずる技術追求を自分たちの拠り所とする技術成果である特許による収益を現実社会のなかに成果貢献として対価を得ていくというビジネススタイルの上で偏ることの無い技術開発を続けてきたことに他ならないだろう。政治的な取り組みが無かったかといえば、語弊があるかも知れないが、信ずる世界に向けての行動を狂言だと周囲から見られても仕方の無いことだったろう。狂気とは相対的なものである。

開発効率の追求は、どの企業でも行なわれていることであり、それに必要なことは円滑なコミュニケーションの達成である。アジアの諸国が達成してきている携帯ビジネスでの技術成果は緻密に積み上げられてきた日本での成果などを手本に最先端企業との間での単一言語でのコミュニケーションにより達成してきたといえる。仲間として迎えている中国人のL君や、英国人のM君などを見ていても日本という市場での仕事で日本語で順応して、また英語によるより深いコミュニケーションの輪に顧客の声を展開して活動のサイクルをまわすことに尽力しているのである。なぜか、日本人だけは奢り高ぶったのか自国の言葉だけで終わろうと終始してきている。こうしたことは、二十世紀末からの悪しきツケなのではないだろうか。

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業界独り言 VOL260 想像力と好奇心

好奇心旺盛というのが、昔の技術者を志向する若者の代表値だったように思うのだが最近ではどうなのだろうか。好奇心のベースにあるのは、想像力による広がりであり、その好奇心で得られた複数の情報のシナプスが自身の想像力による理解の中で結合していくことが最も楽しい瞬間なのではないだろうか。HTMLの仕様をみて、情報をオブジェクトとして扱いブラウジングしていけるだろうと思い至った事例などからは3Gなどのツール開発の契機の中で生み出された技術といえる。そうしたシナプスをつないでいく上で大事な素養には暗算の能力などもあるのだろう、3Gや4Gをドライブしているプロジェクトの中核には暗算の達人が多いのではないかと思っている。最も高速なコンピュータとして自身の脳を活用してシミュレーション結果を手に入れられるのだから心強い限りである。頭の回転の指標として暗算能力などが、ひとつのベンチマークであるのは事実かも知れない(無論、それ以外の指標もあるに違いないが・・・)。

好奇心により、ますます想像力を膨らませて頭の中のシミュレーションを進めていく人の話を聞いていると、ちょっとついていくのが大変なのかも知れない。何人かとの議論などで想像が深まっていく場合には、良いのだろうが往々にして一人で思考と試行を繰り返した結果での話題を提起されてしまった場合には溝を埋めるのに苦労してしまうわけである。そうした溝を話す側が理解して咀嚼しつつ説明してくれれば良いのだが、ますます深みの思考と試行を進めてしまうのでは困ってしまうのである。うまく周囲を理解させつつ実際のビジネスとして動いていくように現実化していくという仕事の意味を理解しなければ、折角のアイデアも活かせず夢想家の烙印を押されてしまうのだろう。刺激される大量の情報の流れの中から、必要な情報を抜き出しをしていく、その技能自体は訓練の成果以外の何者でもないとおもう。考えるというサイクルをどれほど回せるかと言うマラソンのようなものかもしれない。安直に資料や解答を求めてしまう最近の風潮の中では難しいことなのかもしれない。

若い技術者達の特権でもある自由な発想を育てていくという考えが、指導者側にあれば有用な発想を製品開発に役立てていくというサイクルがひとつでも確立していくのではないかと思うのだがいかがなものだろうか。トライしてみたいという欲望を駆り立てていく好奇心をベースに想像力を訓練していくというサイクルが管理されたOJTとして確立すべきスタイルだと思うのだが、枠を超えた発想を持つ有望な若者をうまく指導していけるのかどうかも課題なのだろうか。リーダーがうまくリードしてくれるのかどうかを部下はよく見ているものなのだ。提案したアイデアを正しく評価したうえで今の仕事に活かすか、次の仕事に活かすか、さらに検討すべき点の添削指導を呉れるのかといったキャッチボールが必要なのである。今使われなくてもよいが、考えたアイデアを正しく評価指導してほしいのが部下なのである。想像力と好奇心のループをどれほど回すかによって伸びていくはずなのだ。

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業界独り言 VOL259 想像力の欠如

想像の範囲外の事象が起こると天災扱いにするというのだろうか、いくつかの保護機構に基づいて動作あるいは機能しているシステムにおいては、基本機能に不備があっても表面化しないという事例もあるようだ。組み込みの話ではなくて、新築によるライフスタイル変更で不慣れなことも手伝いいくつかの事故が勃発したのであるが、いずれも想像力の欠如ということにほかならないようだった。最初の事故は、私の付加した建具への加工工事の問題だった。新しく設えた食器棚にワイングラスなどをひっかけるグラスフックを木工でレールを造り付けていた。細君は建具と共に気に入ってくれていたようだった。

施工に当たってはラワン材をグルーガンで仮止めしてから、電動ドライバーで木ねじで締め上げるというものだったが、使用した木ねじの長さが不十分だったことと下加工のドリル処理が不足していたのでもくねじが十分に建具に食い込んでいないという工事不良だった。予め木ねじを吟味する際に確認すればすむことだったが、そうした手順とともに想像力が不足していたようだった。結局仮止めしていたグルーガンと少しの締め付けでついていた木ねじの食い込みなどがグルーガン接続の糊付けの劣化から、五ヶ月あまりたったある朝突然二列分のフックが外れて掛かっていた該当列のグラスが落ちて粉みじんになった。眼前で起こった事象に私自身何が起こったのかわからなかった。

起き抜けで、まだあまり頭の回っていない状況に、続いて尋常ならぬ事故の音で起こされた細君からの雷が轟いた。この一件の工事不良にともない、我が家での私の施工した工事についての信用はなくなり、以降の作業については必ず細君の確認または、業者による作業という手順をとるように心がけている。今懸案事項で上がっているのは、作りつけテーブルの配線が目に付くということから配線処理用の穴加工が提案されている。また、もう一つはアマチュア無線のアンテナ線の引き込み工事である。磁界ループアンテナと将来のアンテナ追加なども含めて納戸での組立作業や、完成後の室内での利用などを考えた壁内の配線工事を予定している。業者からの見積もりまちとなっている。

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業界独り言 VOL258 意固地なままで

いびきが最近ひどいということから、睡眠時無呼吸症候群ではないかとの疑いが発動されて、先日当該分野のクリニックを訪問した。最近の事件報道のせいで一躍名前を知られたのかクリニックでの診断は来年の新春まで予約で満杯だった。簡易診断は直ちに行われて解剖学的見地に立った見方から言えば、咽喉の高さが低く扁桃の切除などを行う手術が考えられるが、オルタナティブとしてはマウスピースをあつらえるということがあるそうだ。いずれにしても状況診断が必要なので宿泊診断もしくは貸し出し測定器による自宅自己測定の実施選択ということになるようだ。どちらのコースを選択してもしばらく、医学的なコメントも対策も講ずることが出来ないと言うのが実情だった。手術ということではなくマウスピースを作るか、あるいは誘因となっている可能性のたかい体重削減に努めるということになるようだ。

運動不足という言い方であれば、段々勤務先や住居が至便な場所に移ってきたことなども要因として考えられるかもしれない。現在の勤務先は、地下鉄駅から連結したビルであり雨の日にも傘をさしなおす必要などはない。高層階行きのエレベータにのれば空いていれば数十秒でフロアに到着してしまう。雨の日に足元を気にしつつ10分あまりも駅から歩くといった風景などから比べればよいともいえるのだが、仕事自体も電話やメールでの対応に終始してしまいがちな状況では日常生活の運動を考えなければならないようだ。以前の会社では、体質改善のために少し運動がてら駅までの道を30分あまり自宅から歩くという生活を続けたこともあった。これはかなりの効果があり体質が目に見えて改善した事例として会社の健康管理室でも紹介されたりもした。そんな時代も自宅の移転やら、会社の転職やらをへて自分自身の健康管理といった面ではちょっと偏りが続いてしまったようだ。

運動目的で少し手前の駅から会社まで歩いてみたりといったことや、あるいは街中の商店街を抜けて始発駅まで歩いたりといったこともしてみたのだが中々続かなかった。何かのきっかけで続けられない事由がおこると、それを理由にするのではないが弱い自分がさらけ出されてしまうようだ。続けられない理由を見つけられない状況を最近は、ようやく見つけ出した。至便な道具を使わないという第三号選択ともいえるエレベータを使わずに階段を利用するというシンプルなものである。この方式を選択すると最近の大江戸線のような地下深い駅などを利用すると良い運動をすることになる。天候に左右されることもない。しかし、最近の社会情勢の不安が首をもたげていて東京を狙うだろうテロリズムなどを考えると深い地下というオプションはオウム事件などから容易に心配されるので細君が禁止要請を発動している。幸いにして銀座線は浅いのでOKということだ。

しかし考えてみるとオフィスのフロアは18階であり、地下から考えると途方も無いような気もしてきた。低層階行きと高層階行きの二つのエレベータのあるビルでもありやると決めたので、登り始めると引き返せなくなってしまった。18階という階差が割りやすい数なので、いまは1/4だとか1/3だとか励みにはなるのだが、ともかく登り始めると諦めたとしても最低でも高層階行きのエレベータまではたどり着きたいというのが初日の思いだった。高層階の始まりは13階なのである。案の定初日は、そこで挫折してしまった。翌日はもう少し頑張ろうと15階までたどり着いた。このフロアにはエールフランスの事務所があり汗かき息も乱れた中年叔父さんがエレベータ乗り場から乗り込むのにはちょっと憚られた。そんなときに限って仲間の女性も乗り合わせていて「どうしたの小窓さん、こんなところから乗ってきて、なあにもしかして階段できたの、いやぁだ・・・」などと囃し立てられる始末となった。

三日目にしてようやく15階のバリアを越えて16階に到達すると頭をよぎったのは、「もうこの上の階はべつの仲間の居るフロアでもある」となんだか到達してしまったような気になってしまったということだった。確かに汗はかき息も大変な状況ではあったが、あとの二階を攻略して高みに到達することが出来た。時計を見やると五分あまりしか経っていないという事実だった、人間の感性なんてずいぶん非線形なものだなと改めて思い起こさせてくれた。とはいえ高みに到着してしばらくは汗をかきかき息を整えるで精一杯だった。一週間ほど続けたところ、体がびっくりしたのかある朝腿の付け根あたりが痛みを覚えたので様子見に一日自宅で仕事をすることにした。いままで自宅に置いてあったステッパ−は細君がいくら「あなたも運動をしないの」と誘っていたにも関わらず意固地に拒んでいたのがスーット踏むことにためらい無くは踏むことになれたのは不思議な感覚だった。

確かに朝の五分間のハードな運動ではあるが、山歩きで言う最後の直登といった感触を味わうことが毎日できるのはある意味楽しいことである。最近は、こうした感覚を持つことができるようになった。とはいえ、まだまだ一朝一夕に体重が減ったりするものではないのだが、ハードな運動を経た後の軽くなった足元の感覚をほぼ働いているあいだ維持できるのが快感でもある。もう少し進めば昼休みにも、もう一本やろうかということに繋がるかもしれない。今考えると意固地なままに運動を拒んできたような気がするし、何かのきっかけでそうした壁が取り払われたように感じている。やはり何か違うことに挑戦するということを日々実践していくことは大切なことだろう。続けていくことの障壁になるのが器材の障害だったりもするものであり、以前少し踏んだことのあったステッパ−などは細君と二人で利用したことがいけなかったのか摩擦熱で金属疲労をおこして壊れてしまったのだった。

現在利用しているステッパ−はそうした恐れもなさそうな、米国製の鋳鉄で出来たフレームにオイルダンパーで出来たプロボクサーが使うようなヘビーなものである。まあ、このステッパ−を踏んでいる運動の強さ自体は30分ほど踏んでも朝の五分のようにずっしりと残るものではないのだが、汗ばみ運動している感触として入浴まえの運動としては適度なものといえる。健康的な生活を続けているのが、まあある意味で余裕のある季節なので、問題は日本のお客様の支援活動の中でいかに米国流な緩やかなマイペースでスイートスポットを押さえていくような仕事スタイルに持っていけるのかどうかが次のシーズンの課題ともいえる。まずは来週の渡米作業の間にホテルでのジムなどの活用が如何に出来るかが課題ともいえるのだろう。毎朝、何は無くともこのページをアクセスされている読者のかたも居るようなので私以上に余裕ある技術者生活を実践体現されているらしい。まあ個人の意識さえあれば、そうした生活を実現しやすい環境であることは事実といえよう。あとは個人の問題なのである。個人の問題が少しずつ集約した結果として組織になっていくので、流されやすくなってしまうのかもしれない。そうした組織の慣習やらを改善していくためにも、まずは自己確立を追求していくことが必要なのだろう。