VOL110 Javaの楽しみはこれからか 発行2001/6/25

Javaの実用化時代を迎えようとしている。「携帯にスクリプト言語を搭載しよう」という暴言を吐いたのは94年頃だっただろうか。インタプリタで動作するスクリプト言語の多様な応用について研究してきた西海岸の研究所生活の成果を実践していた技術者との出会いがそれを携帯への実装という展開への取り組みになった。

まだJava以前の時代にそうしたものを米国に対して提起したというのも時期尚早だったのに違いない。PHSの32kbpsのデータサービスを使い切って実験をしていた仲間との出会いが早すぎる時代の扉に手をかけてしまった理由でもあった。ソースコードを飛ばしていた当時の実装が中間コードになれば、凄いことが・・。

そうした思いに突き動かされて初芝電器の技術力を総動員してのプロジェクト推進という展開になった。エージェントを飛ばしあい受け入れあうという概念は、今のJavaと何も違いは無かったし実際問題スクリプト言語もスタック型の言語だった。コンパイルした中間コードを飛ばそうというのが合言葉だった。

赤外線の規格であるIrDAの標準化も離陸しそうな状況だったこともあり今の愛のサービスとノキアの電話機とIアプリも含めて実装しそうなトンでもない内容ではあった。中間コードの実装検討と上位層のアプリケーション設計などをマーケティング推進の中でカスタマーである米国キャリアと詰めていたのだが、頓挫してしまった。

一つはデジタル無線機のコストが顧客の要望価格に至らないこと。一つは年明けに発生した阪神大震災である。中核の技術者が被害地域にすんでいたことも有り仕事に大きな影を落としてしまった。初芝の既存技術の集大成ともいえるプロジェクトではあったがビジネスユニットである事業部の価格理由などから中断となった。

プロジェクトは中断したものの、一度意識を高めてしまったことからJavaの前身となるプロジェクトなどの情報やWAPなどの立ち上がりを見つけて情報交換しつつ自分達の取り組みが時期を得たものだと納得していった。インフラを起こし端末を開発してアプリケーション開発ツールまでも提供するという仕事は大仕事であった。

Javaのコードが提供されたときには、VMを実際にコンパイルしてみて速度やサイズの評価などをしたりしてもみた。まだ実際の端末に展開していくにはVMのコードサイズが大きすぎた時代でもあった。速度はPCの上でも不十分であったが、評価用の画面やUIの設計をしていくことへの適用を試みたりしていた。

単なるインタプリタとして捉えた場合にはBASICも同様の制限があったはずでVMとしての問題点については解決すべき共通項があった。バーコードリーダ端末を開発した際にSDKの開発も含めて行ったのだが、当時としてはC言語のクロスツールを自前で提供していた事が時期尚早すぎてBASICの提供を要望された。

BASICについては当時すでに色々な端末にマイクロソフトベースのものが実装されていた。CのSDKも自前で提供していたこともありBASICについては、更に色気を出して高速なインタプリタを提案して開発を行った。ハードウェアによるインタプリタである。中間コードの割り付けを工夫して機械語と共存させた。

無論、当時の8ビットマイコンの命令セットがbasicに適合するわけもなく、16ビット整数演算の命令範囲のみが機械語となり、文字列演算やら倍精度演算達は中間コードとなった。コンパイラとの併用で中間コードと機械語を混在させる形を取っていた。インタプリタという仕組みは機械語と中間コードの識別だった。

結局、中間コードは例外割込みの処理として組み込まれた。現在のJavaの実装でのハードウェアインタプリタと同様な概念である。この際にパテント申請はしたものの、事業部の本業と関係の無い特許に光があたることはないだろう。無線端末を開発している事業部で「プログラム実行方法」に関する特許は、蚊帳の外だ。

Javaの実装技術としてマイコンコアの命令セット切り替えで対応するコア技術が登場した。レジスタの割付の意味などをJava状態と従来状態とで切り分けた上で不足する命令群は、拡張命令として処理を実装されている。拡張命令の実装は割込み処理としてのインプリメンテーションに依存する。先の特許に抵触する。

とはいえ、転職した先では、こうした早期の基本特許に相当するものに光が当たらないほうが良いのかもしれない。いろいろな意味で特許について提出や申請を求められてきた結果が、有用な特許が埋もれてしまうのは皮肉なものであるが、大企業の実体としては、きっとそんなものなのだろう。灯台もとくらしという奴である。

マイコンコア技術の一角になるかも知れない技術ではあるが、インタプリタの歴史というホームページでも作ったほうがよいのだろう。Linuxの上で動作する、CPMエミュレータが雑誌に掲載されていた。そういえば、VAXのエミュレータをUNIX込みで作成したことも、もっと陽のあたるところに出すべきだろうか。

いずれにしてもJavaの楽しみはこれからだ。携帯コアに搭載されて登場するのは来年だろうが、開発環境やアプリケーションのスタイルなど色々な物が改革時期になってくるのだろう。エンジニアの面接を行いながら、彼らが活躍する時代の姿が少しずつはっきりと見えてきた今日この頃でもある。

VOL109 次世代携帯の夢を追う 発行2001/6/20

二週間の出張が終わり帰国すると、国内での出張ラウンドが待っていた。一日に二つのお客様を回るペースで四日間を過ごした。まとめをする金曜日にはかなり疲れてしまった。プロダクトマネージャーやソフトウェアリーダーを日本のお客様に連れていき問題認識を深めて次世代チップなどへの反映が図られた。

同一時差で暮らしてきた仲間とそのまま時差に突入してしまったせいもあり、互いに疲れを感じつつの出張行脚となった。西東京の一部のお客様は、乗り換えも含めて気持ち的にはかなり遠く感じたりするし、新幹線で向かう必要のあるお客様が、かえって近く感じたりもする。

奈良駅に直結したホテルに泊まることになったのだが、学研都市線で奈良に向かう途中ではラッシュアワーと共に途中からは車両切り離しに出くわして木津につく頃には周囲の風景は一転しまっていた。木津から奈良までは程なく到着しようとしていたのだが周囲の夜景からは、果たして夜の食事の心配を始めていた。

幸いにもホテル内のレストランでのラストオーダーにはまにあった。こうした規模のホテルには珍しく大浴場もありゆったりと浴槽で足を伸ばすことも出来た。修学旅行の団体もフロアによっては使っているようだ。夜中に電子メールが繋がらずに閉口したが、交換機が無料通話のダイヤルを国際電話と解釈したのが理由だった。

ほぼ田植えの終わった水田風景の中を雨を縫って顧客先をタクシーで回るのだが、サンディエゴのメンバーは当然の如く傘など持ち合わせてはいない。昼食を顧客近くのハンバーグレストランで取ってから距離的にはほどない中も折りたたみの傘ではビショビショになってしまった。待ち合わせのショールームにはPDAがあった。

次世代携帯の中核となっているPDAライクな世界は、まだ誰も信じていないのが事実だ。現在全く存在しない市場には、PDAの世界からの延長線あるいは携帯からの延長線という事で予想していくしかないというのが各メーカーの方々の考え方だ。検討してみた上で弾き出したコストでの採算性と商品力と利便性は不透明だ。

個々の要素技術に立ち返ってみて、徐々に取り込んでいくというのは考え方としても納得性の高い方法である。昨今慌しい携帯ソフトの完成度を高める方法として、製品としての回収を避ける目的でメモリプロテクションを採用するのも考え物だったりする。開発プロセスの改善といった長期的な観点での取り組みでは不足なのか。

誰が使うのかという観点、そしてそのコストおよびビジネスモデルなどがコンセプトから実需への展開のなかで迷走しはじめているようだ。オプションで接続する事でお茶を濁そうという展開も当初のメール端末などからみると正しい選択肢かも知れない。端末との接続仕様が性能を満たすのかどうかの議論はあるだろうが・・。

携帯電話から次世代携帯に移ろうとしてベースとなるチップセットも産みの苦しみを感じている。コアの改変やら開発環境の整備など難題が山積している。携帯というビジネス全体が要望しているものに応えようとしているのだが、ライセンスビジネスとの関連などまだまだ難関は多いようだ。気がつくとコピーライトだらけだ。

コピーライトを進めている会社でコピーレフトなLinuxでも採用すれば面白いと思うのだが・・・。サポーター体制などが課題になるようだ。いずれにしても、メモリ保護のかかる時代に突入しようとしている。コストと品質の二つが背景にはあるようだ。性能向上に押されてキャッシュもつみモードも増強する一途だ。

電話機としての性能を高めていくべきか、モデムとしての性能バランスに傾注すべきなのかという議論がある。ターゲットとする分野は異なるからだ。ただし、後者については新たなジャンルであり次世代携帯とPDAの中間的な位置付けの不透明な状況である。ザウルスもありEPOCもありCEもあるわけだ。PALMも・・

忙しい開発アイテムを戦略マーケティングと共に配置していくことが、必要ではある。実際にお客様方が成功して達するのであり現在のWCDMAのような見世物であっては困るのだ。ビジネスモデルとしてコンテンツ屋とチップ屋(ソフトもあるが)と製造屋さんと方針を決めていただくキャリアという構図である。

自分達の技術ロードマップに自信を持ちつつも現状の動きとの綾なす中、激論を太平洋を挟んで戦わせているトップマネージメント同士の戦いの記録なども非常に参考になる。記録が残るメールの仕組みで戦いあうのは相互に確たる自信や意見があるからに相違ない。電話で説明をするような類のマネージメントとは一線を画す。

みな、次世代の現状と未来について色々な意見があるからだ。色々な方式を開発している人たちの状況などをみているとまだまだ判らないというのが正直な感触だ。サンディエゴで大学のセミナーコースを一日受講してGSMのおさらいなどをしたが、インフラ構築の話などが中心で既に欧州をカバーしたことの裏返しだった。

もう技術論ではなく、政治の話となっているような気がしてならない。技術論から展開を予測していた人たちがいるとすれば、その予測は外れてしまったようだ。GSMとCDMAの両用機がワールドな答えになってしまいそうだ。その次のワイドな展開に繋がれば良いのだが、技術論の好きな欧州人の議論とビジネスは別だ。

次世代のキーフィーチャーとして画像センサーやユビキタスコンピューティングの為のシンクロナイズ技術やマルチフォーマットのビューワなど楽しいテーマが盛り沢山である。提供する側、使う側ともに大変なボリュームの仕事になりそうである。RTOS開発していたメンバーもアプリを含めた広がりを楽しんで(?)いるようだ。

日本語のアプリケーションを実際にデモしたいので実機で開発させてほしい・・・と単身、サンディエゴに乗り込んできたのは彼であり、おかげで二週間の滞在の後半も車に不自由することはなかった。渡航決済などの手続きはメールの返事のみでOKである。マイペースな中で時期を得た開発を分担して、彼は光っていた。

VOL108 煩悩はここで打ち止めか 発行2001/6/14

サービスインしたFOMA端末のニュースを帰国する機内でみていた。普及機とカードの二機種が対象となっている。ウルトラマンの見れる高級機のサービスはまだらしい。大丈夫だろうかと思うことも憚られるこのごろである。組織変更が各社で行われている時期でもあり各社のトップが状況をどのように考えている目安だ。

先週発売されたTech Beingの霊験はまだ不明だが、この状況を正しく認識している意識あるエンジニアの出現を期待はしている。あまりにも若い技術者の卵の育成を出来る会社ではないが伸びたがっている優れている技術者であれば年齢を問わないというのも事実かも知れない。いずれにしても英語がネックになる人は無理だ。

先日、知人にも紹介していた英語耳という訓練CDの存在は少しは朗報になるのだと思う。聞けなければ始まらないからだ、このCDを聞くとかなり倍音強調したような内容と専用のヘッドホンでの訓練はかなり耳につく印象がある。実際には、既に二年の経験を通じているので、訓練CDの効果のほどは自覚はしていないのだが。

まる五週間の入社時期を米国本社で生活してきた中で自分の意識が目覚めてきたのかだんだん聞こえてきたという経験はある。きっとこうした感覚を日本にいても、持つことが出来るのであれば素晴らしいことだろう。自分に不足している、単語力の育成は新聞などの読解で補っていくことになるだろう。

実際、毎日の英語メールでは、互いのパターンが限られていたり米国メンバー達のスペルミスもよくあるからである。日本人は、カナ入力などで大変なのに彼らは、asciiの範囲しかないのに情けないように思うときもある。スペルチェック位は必ずかけて欲しいものなのだが。私の怪しげな英語に困惑もしているだろうが。

地方技術者の方が優れている印象を持つのは仕事に恵まれていない性だろうか。仕事に不自由しない都会の技術者が自立していない印象が強い傾向があるように感じる時もある。実際、知人の学校の先生などと話していても地方からの企業への求人は大変らしい。よい企業が地元に増えて欲しいというのは事実だろう。

都会に本拠を置く、最近仮想マシンで鼻息の荒い会社の実体もそうした優秀な関連企業の下支えがあってのことなのだ。インターネットの時代でエクストラネットも含めて開発を分散体制で進められるようだ。とはいえ、開発環境も含めたドキュメントなどが英語であることを厭わないのは地方ベンチャーのほうだ。

岡山に本拠を置く、日本語処理の会社の研究所には初芝時代の友人もいる。携帯での日本語処理もようやくDOSからWINDOWSクラスの機能を必要としてきたプラットホーム推進をしている立場からするとこうした識者との共同作業を通じて仕上げていく事も必要なのである。JRにもマイレッジが付かないものか。

通信プロトコルはIPV6とIPV4の共存の時代に突入を始めていて基礎研究から実用化での楽しみを行う事が出来る時期でもある。今サンディエゴでは、HDRの試験運用が為されていてHDRアダプターを利用している仲間が増えた。実際には通常のLAN接続でアダプターとコネクションするだけだ。快適な環境だ。

快適な環境を日本のモバイルニーズに適用していく上では上位層の技術としての、IPV6によるIPアドレスの確保が必要なのだ。全てのコンテンツがまだV6として揃っているわけでもないのだが。V4との接続にトンネリングすることも必要だろうしそうしたインフラ側での技術も含めてキャッチアップが必要だ。

Javaの本格化もこれからは環境も含めた取り組みがテーマになりそうだ。ETMも含めたインタフェースの平準化と共に中を飛び交うデバッギングインタフェースの高度化か進み、Javaのデバッガとネイティブデバッガとが並存するのが、来年求められている姿でもある。こうした環境を引っ張っていたりもする。

友人が、FOMAのモニターに当選した。実際にはデータカードタイプのものだ、実際に使っているのを見せてもらった。アンテナバーが不安定で通信状況も不安定だ。実際にインターネットからのファイル転送などを試みると息をするように三秒と持たない。とはいってもさすがにI-MODEよりは高速だ二倍の速度は出るようだ。

知人が転職していった鷹山が方針変更をしてUMTSに主眼を移すという。背景に何があるのか判らないが、まだまだ試験サービスのグレードも不十分だというのが印象である。秋までには十分な試験サービスに突入してもらいたいものだと思う。そうした花形として期待されているカメラ内蔵の端末に登場してもらいたいものだ。

モデムチップとしての位置付けで始まったQUAD社のチップにも期待されている内容がPDCでの結果を受けて多様なものをサポートする必要が求められ今変身を遂げようとしている。幾つかの取り組みはまさに先進的な物であり、今まで以上に多様な人材やベンチャーとの協業が必要だ。

VOL107 デジカメと携帯 発行2001/6/9

最近流行りの必須携帯グッズといえば、ケータイとデジカメだろう。気軽に撮れるデジカメの画面サイズは技術の進展と共に果てしなく競走を増している。最近では、一番手軽なおもちゃの会社が出しているものが実は一番手ごろだともいえる。カタログおたくな人であればメガピクセルといったものにまで手を出しているようだが。

最近のおもちゃのメーカーで出しているものでも35万画素程度の解像度は持っていて簡単にケーブル接続でデータを吸い出せる機能も持ち合わせているようだ。解像度が高いとモニターでの表示枠まてもはみ出してしまいかねない。35万という数値はVGAの規格であり通常の遊びやホームページに貼るには手ごろなサイズだ。

さてメガピクセルで写真をとりホームページに大きな写真を貼りこむのだが、実際のサイズを画面でみるとはみ出してしまう。必要なサイズに合致するようにHTMLの規約の中には論理的なサイズを指示してブラウザ側で縮小表示しようとする事が出来る。適当な画面サイズになるように簡単にホームページが作成できてしまう。

最近では、ADSLやらフレッツやらの効果も手伝って常時接続というのが普通になってきた。ISDNの64kbpsという速度では笑われてしまうような時代でもある。画面サイズの実物を越えてしまうデータが入っているために画面表示が遅いと嘆くのはもう過去の遺物のISDNの人だけらしい。

高速にしなければ、高解像度にしなければと、プリンタメーカーもカメラもネット屋も声高にいうのは相互結託しているのではないだろうか。世の中で限られたリソースをうまく活用していくということに力をかけるのではなく、浪費社会に向かわせているのは発信源が消費大国のアメリカだからなのだろうか。

浪費なのか消費なのかは使う人の意識次第なのだが意識ない人の消費は浪費なのだろうか。電話代がフレッツで安くなったのは良いのだが限られた携帯インターネットという怪しげな範囲にまでも持ち込まれると小さな画面しか持たないケータイに高解像度データが送られて話中が増えて、パケットが嵩み、バグ顕在で回収に走る。

実は、こうした画像サイズの向上を認識してシステム特許をとろうとしていた事があった。端末のクラスを認識して、送信側が自動的に最適なサイズや色数に落として送信するという機能なのだが、サーバー側がそこまでの機能能力を持てる時代が来ないことには実用化出来ないので忘れていた。不要なトラフィックで課金される。

そんなことが出来そうなサーバーベンチャーとの接点を見出していたのは、パケット交換サーバーの検討をしていたころの感覚だった。いまでは、そんなことよりもインフラとしての基本性能を実現することにはっちゃきになっているようだ。会社としての研究や戦略がなくなってきたのだろうか。ペンチャーは順調だろうか。

おもちゃの如く画面サイズ見合いの小さなカメラをつけた程度が良いのかも知れない。新聞記者が現場から送るデジカメのデータと日常の遊びで行っている事をまぜこぜにしているような気がするのは、そうした要望に対応しようと考えてきた業務用という特殊な世界に暮らしてきた性なのだろうか。いま業務用は死語となった。

業務用というと保証をしなければならないという感覚に陥るから、ベストエフォートでしかないインターネットとの接続は許されず、あいも変わらずアナログ専用線と専用の嵩張る、高額なモデムを購入してシステム構築をしている。サブシステムだけのリライアビリティを高めても、徒労に終わっているのではないか。

カリフォルニアでは電力会社の破綻が問題となり、あまり解決策の見えないままにホテルではエネルギー税のような費用を払わされる羽目になっている。何をしているかといえば電球を全部、蛍光灯に変えたりといった当たり前の企業努力をしただけのようなのだが何故、その費用を払わされるのかは理解できない。

それでも夜に停電したりして、朝の目覚まし時計が止まり遅刻する人もいれば、信号システムがダウンしてハイウェイが渋滞して朝のミーティングまでに会社に到着出来ない人が出たりする。すでに電力供給というインフラ自体がベストエフォートになっているのである。インターネットから電力供給される時代も近いのか。

インフラが混乱すると結局そうしたパニック状態では人間としての品位が問われるのだが、ここ米国では渋滞にはなるものの局面毎にみてみると一台ずつ交互に行き来するということが守られている。空港の発券システムがダウンしても手書きで、飛行機に乗せた荷物が正しく相手先まで届いているのは大したものである。

日本ではパニックが発生すると若い人はすぐに我慢の限界を超えてしまい、ホームでバックブリーカやヘッドロックを起こすような情けない状態である。教育の程度というものを、人間の品位という点で見てみると日本という国は超後進国なのではないだろうか。高度な電話機を開発しても殺人事件の材料にしかならない。

デジカメだけではなくて動画までもやり取りしようとしているのが、次世代というケータイの主要機能だそうだが見たい画像はウルトラマンだったのだろうか。人前で化粧する子供達だから、寝ぼけ顔であってもケイタイテレビ電話で話しをするのかも知れない。あごに押えながら電話をしてもカメラには黒子しか映らないのでは。

自分達で作り上げたPHSのインフラを捨てて、ケータイでわざわざ高速データ通信という掲げた目標はPHSと同じ速度しか出せない。それはもともと判っていたはずだ。矛先をImodeで変えさせて、新しい周波数帯に誘導していくことが狙いだったのだが新機能は動作せず余っていた1.5Gという周波数のi-MODE電話で落着。

実はこれで目的は果されたのだろう。どこでも電話がかけられるという国際ローミング機能などで電話された日には、パリからの電話で夜中に叩き起こされたりするのだがら。出先で電話で話しが済むほど国際会話に長けているようなお国柄の人達とは異なるのだから。絵空事の目標がはがされるとデュアルバンド対応で決まりか。

いや、どっちかというとPHSとの共用で十分なはずでありシステム的に二つを融合させるオペレーションを達成したほうが容易だったのではないか。どっちかという問い掛けに対してPHSを持たないキャリアの選択は、もう無線LANしかない街角でとまっていると高速にアクセスできるしスタバでも使える。どっちーか?

次世代という言葉に踊らされて色々な取り組みをしている各キャリアであるが、実際、今年これから展開される状況はドラスティックな物がありそうだ。破綻している携帯業界のメーカー側にとっては辛い時期だといえる。自分自身をしっかり確立して行っていることに納得しつつの開発をしていかないと維持できないだろう。

VOL106 来たれワールドクラス 発行2001/6/5 サンディエゴ

You are valuable in Japan. ハードウェアサポートの技術者に対して米国側の上司が言った台詞だった。パテントとチップのIPでビジネスモデルを構築した会社であり採用した人材に対しても、厳しい要求を突きつけてくる。当該の技術者は、日本の半導体メーカーの米国技術センターで早期からVHDLなどの実践を進めていた技術者だ。

彼は、永年の半導体開発の経験と英語会話能力に長けていることからサンディエゴでの開発やサポートに回ったらよいのだと思うのだが、同じ会社でも上司によって異なる処遇になるのはいたし方ないことだろう。無論自分で他の部署に売り込みに行って移籍する人間もいるので、彼もこれからの生活で挑戦していくことだろう。

会社が提供する開発プランを利用して自分自身のトライしたいテーマに取組むというのが技術者としての姿だろう。収入を得るために仕事をしているという人は別だが、技術者として何らかの社会貢献を自分自身の技術力を適時に活かした開発などを通じて行えれば最良だろう。設計という名前の生産ラインに流されている感覚ではない。

青色LEDを開発した中村さんのようなワールドクラスもいれば、QUAD社の例では、スタンフォードを出たばかりの日本人技術者でまだベンチャー黎明の時期に入社した若いディレクターもいる。日本の会社経験をもたない彼の場合には殆ど日本人の感覚ではないかも知れない。生粋のワールドクラスだ。

将来のワールドクラスになって欲しい技術者を養成するという姿と、現在のワールドクラスの技術者を迎えるという二つのアプローチがある。後者に相当する技術者だと既にそのメーカーにおいて活躍して海外の会議や打ち合わせに奔走している中枢か、あるいはマイペースで仕事をしつつ趣味として個人旅行で海外生活の長い人もいる。

中枢の技術者の採用には、そのメーカーとの間の関係に影響する場合もある。また、マイペースの技術者の場合には、個人的理由で退職することになっても会社としては特に彼の隠れた素養に気がついていないので問題にはならない。そのような人材こそは、QUAD社のような環境で仕事を悠々と進めていけるワールドクラスの人材だ。

まあ、なかなかそうした人材はいない。最近は米国出張が多く、また向こうのメンバーの日本出張も多くて相互協力をしつつの新たな時代に向けたコア技術の開発をチップという実需を通じて進めている。日常の携帯業界の動向のニュースを同時にウォッチし、意見を英語のメールや電話で議論するという生活でもある。

にわかにワールドクラスの生活に突入して二年余りの中でかなり自分自身でも肩の力も抜けて生活できるようになった。会社生活の中でTOEICなどの試験を受身で逃げていたことを思い返すとおかしなものである。無論、TOEICスコアで900といった点をたたき出す人や英語で喧嘩をするような人までもいるが・・・。

実は技術者生活として考えるとワールドクラスに達するのは自分の殻さえ破れれば、容易に到達していけると感じている。私の尊敬する大阪在住のRF技術者はQUAD社にも訪問したことがあり思い返すと漸く彼の姿に近づいてきたのかもしれない。何か自分自身にわだかまり昔はあったように思い返している。

やりたいテーマに取組めるのかどうかというのが技術者としては拘る点だと思うのだが会社から提供されるテーマを待っているだけではなくて、これがやりたいと提案して攻撃的に取組んでいくのは中々楽しいものである。自分でベンチャーの会社の方向性に影響を与えていけるということは会社からも自分が要望されているという事だ。

今、携帯電話というプラットホームに求められていることを集大成する中でLINUXのようなカーネル内部で通信処理を行い、アプリケーションとの独立を果すようなことをはじめようとしている。昨今のアプリケーション暴走などによる回収などという事態を回避できるようにしたいのとダウンロード可能な環境としての仕上げである。

IPV6の世界の構築やJavaの最先端技術の組込などソフトウェア技術者としては、かなり楽しめる世界がそこには広がっている。携帯電話の中にUNIXのような世界を構築してアプリケーションを安価に構築できるような実質的な世界を提供していくことは世の中の表層で見えているEPOCメーキングな世界とは異なる。

PDAの世界の延長上に構築していきたいと世界もあるだろうし、システム物の延長で端末構築をしたいという世界もあるだろう。WCDMAやCDMA1XEVが提供するインフラコストがマッチすればより面白い世界が提供されるだろう。通信キャリアを周波数毎買い取ってしまうというような投資家達が登場するような何しろ日本では周波数に費用がかからないのだから、こうした事態も容易に想像できる。

ユーザーがそこそこついている業務用通信キャリアなどでは維持更新をしていくのに必要なだけのユーザーがいるらしく、新規な要件を開発しなければこのさき五年は安泰らしい。周波数利用効率などの点がXのファンからクレームが付くような事が無ければ・・・。何かに新規の規格を興す為に余計な予算が国からつく状況ではない。

それよりもWCDMAを軌道に載せる事にしか感心はないだろう。溜池テレグラムがおかしくなると日本としては一大事である。自分達の進めたい仕事が、手がけられるかどうかという点に答えが見つからない人にとっては自分の殻を破る時期なのかもしれない。横須賀近郊にもQUAD社の看板を立てるらしい。沢山のお客様のいる場所である。

給与のことなどに関わることを忘れて技術者としての仕事に邁進できるということは私達が望んでいることではないだろうか。今、トレーニングの中で説明している女性の技術者はインド人系の人で、コールフローのシーケンスを判りやすい英語で説明してくれている。初芝情報の女性ソフト技術者の事をふと思い出していた。

就職情報誌の霊験はないと思ってはいるが来週戻ってからのリアクションを楽しみにしつつ彼女の説明を聞いている。金曜日にはUCSDのGSMのクラスも取らなければならない。休暇をどこかで取りたいと思うものの昨夜行った電話会議でサポートをした会社のサポートも気になっている。月曜日は休もうか・・・。

サンディエゴ通信 VOL6 安っぽいJALにがっかり 

2001/6/3

今年に入って三度目の訪問をすることに急遽なった。スケジュールが近づくと明らかになり、突然のように降りかかってくる出張要請は本社であり仲間からの要請なので絶対なのである。とはいえ、久しぶりに週末を挟む形の出張だ。また、出張初日はメモリアルデーである。日曜日にフライトすれば、日曜と月曜はまるまる休めることになる。

降って沸いた出張だが、日曜フライトにして。成田からサンフランシスコ経由サクラメントで、さらにロス経由でサンディエゴというコースにした。実姉がサクラメントに居るのでよっていくことにした。土日が挟まるのでここで往復するという選択もあるが、飛行機代は二倍かかる。サクラメントからロサンゼルスまでのフライトを自腹で払うことで話がついた。

いつもノースウェストで飛んでいたのだが、最近はJALが安くなったので変えてみてはという会社側の申し出があり、今回変えてみることにした。ビジネスだから大差ないと思っていたのだ。ノースウェストではTCATの閉鎖などがあったがJALではその心配もないということも背景にはあった。SEASONというビジネスクラスの広告は見たことはあった。

例によって3日分の着替えとスペアのチノパンをいれて読みたい本と仕事の道具というセットをでっち上げて日曜に出発することにした。PCバッグとコンパクトスーツケースあとはザックである。基本的にいつものユニクロスタイルであること違いはない。ライフスタイルとしては、質素を目指しているので収入が割れるような要素はなく、絡まれる要素も少ない。

商店会の花鉢引換券を持った嫁さんと途中まで出かけて地下鉄駅のところで別れた。日常の風景になりきっている。さすがに自宅から成田に行くときには横浜から成田エキスプレスを選択する。地下鉄からJRに乗り換えるには日曜の雑踏を掻き分ける必要がある。買い物客でごった返しているなかをみどりの窓口に進む。

カウンターは二つオープンしていたが狭い中で荷物を持っている私はかなりの厄介物である。荷物が邪魔にならないように奥の方にさけて荷物を配置したうえで近いほうのカウンターの列に並ぶ。幸い、列は次の番だったが、列車の旅が確定していない方がカウンターとのやり取りを続けていて中々結審しないのがたまに傷だった。

窓際の席だった。最後部の車両でもあった。乗り込口の見計らいが悪く荷物を載せた側とは反対の位置の席だった。とりあえず買い込んだシューマイ弁当を昼食代わりに食べた後、屑処理で立ったついでに荷物を移動させて近い乗り口の棚にスーツケースを移した。テーブルにパソコン用のCD-R装置を乗せてMP3を聞いている間に成田目前で電池が切れてしまった。

充電という行為をしないかぎりはアダプターを挿していても充電されないらしい。ちなみに充電中は当然だが動作しない。電池の特性からは、そうなのかもしれないが使い勝手からみると・・・。まあ確認不足の自分に諦めてフライト中のCDリスニングはキャンセルになった。スーツに入れるべき状況に代わった。

気が付くと成田の駅につき、そこから空港までの単線でありながらデラックスな作りかけの新幹線でも走りそうな状況の線路を進む。単線の中を進むとほどなく第二空港駅に到着した。今回は日本航空なので第二ターミナルなのである。ホームにおりるとはじめてそのホームがJRとして一つしかないことに気が付いた。たしかに単線だったのだ。

前回のノースとは異なり日本航空のビジネスカウンターは閑散としていた。荷物の行き先をサクラメントと告げて受け取ってもらった。日本語でカウンター処理が出来るのはメリットだったかも知れない。一応、マイレッジカードの手続き用紙を受け取り移動する。日曜日というせいもあってか時期も悪いのか出国手続きはガラガラだった。

桜というラウンジを見つけて入ろうとすると、違うサクラのラウンジだといわれた。同じ名前をラウンジにはつけて欲しくないものだ。ターミナルを結ぶコミュータで目指すターミナルに到着した。ラウンジでの状況はノースと比べても少し見劣りはしていたが、こんなものだったかと納得しビールを飲みつつ、マイレッジの書き込みをして搭乗開始の時間を待った。

時間になり、カードを台紙から外して機械に読み込ませて登録を行い、申し込み用紙は搭乗窓口に預けて乗り込んだ。通された席は、ノースに慣れた私にとっては椅子の幅を除いてはほとんどエコノミーのような印象を受けた。荷物を棚に載せたりする間に誰も背広を預かったりするような光景にはでくわさなかった。ウェルカムドリンクはジュースとカクテルからの二者択一である。ぞろっと並んでいる盆から取らされる。新聞を配りに来て違うと思ったのはスポーツ新聞はどうかという点くらいだった。

ノースでは、お客の名前を確認されて担当者が名乗る。というのが普通なのだが、そうしたことはJALではない。必要なものがあれば籠から歯磨きやスリッパを受け取る。合理化されたという印象と安直という感覚しか伝わってこなかった。こうしたことに気を配らないのは国際線といいながら社員ではなくてアウトソーシングしているのではないかと感じた。

食事も含めてよい印象もないままにサンフランシスコについた。ビジネスからエコノミーの近くにランクダウンされた印象だけが残った。さすがに椅子の幅は違うが前との距離や、アテンダントの心遣いが感じられない今回のビジネスクラスについてはがっかりした。サンフランからはサンディエゴ行きと同じミニ飛行機なのである意味で安心していた。

入国審査も出国審査同様にすいていてすぐに終えた。サンディエゴのホテルに滞在する旨を伝えて今日一日サクラメントに泊まることの細かい説明まではしなかった。ただし、これからサンディエゴに向かうということだけは伝えた。嘘ではない、明日には向かうからだ。荷物を受け取ると、また国内便の荷物として預けなおす。終着地はサクラメントと書いてある。

サンフランシスコ空港からは、フォンカードを使って電話を姉にいれた。ミニ飛行機の時刻が変更になっていたので到着予定時刻を伝えておいた。空港内のコーナーで饂飩があったのでそれをオーダーし昼食代わりにした。サクラメントはカリフォルニアの州都であり平野の真っ只中にある。近くには川があるが、変化はあまりない地形である。

ミニ飛行機で到着した空港で、少し荷物が届くのかびくつきながら待っていると遠くに実姉が到着したのが見て取れた。カウンターに掛け合ったりしているのだが、こちらに振り向くのを待ち手振りで知らせた。荷物も無事到着して、久しぶりのサクラメント空港から実姉の車で家に向かった。ただちに実姉の運転で現実に引き戻された。方向音痴なのである。

車が選んだ道は、逆方向に向かっていた。シアトルでも目指しているような方向だった。ハイウェイの最初の出口でおりて地図を開いているのだが・・・地図をめくって現在地の確認に務めていた。とりあえず現在地が確認できてきた道の戻り方を確認して戻ることにしたのだが、それだけならば地図を開くことは無かったような気もしている。

サクラメントは今、少し暑いらしく100度を越すらしい。といっても華氏なので実際には37度といったところだろうか。また日本でのそれとは乾燥の度合いが異なるので不快指数といった尺度を表示することはないようだ。また同時期のサンディエゴでは68度くらいで日本流にいえば20度くらいだ。曇っていることも手伝っているかもしれない。

サクラメントのダウンタウンを越えて少し、レノの方向に向かったところに家はあった。部屋数も十分にある平屋の家である。まだ義兄はサッカーの試合から帰ってきていなかったので姪や甥たちと挨拶しつつ、テーブルに残されていた素麺を少しお相伴した。義兄はボランティアでサッカーの審判をしていて週末は試合に借り出されている。週の間の仕事は教師だ。

ここから、デイビスの病院まで産科の看護婦・助産婦として通勤している姉の収入と義兄の教師の収入とで三人の子供達が教育してきたのはたいしたものである。母と同様に尊敬している次第である。心豊かな生活をしている姉の家で夕食はバーベキューとなった。広い庭のテーブルで食する食事は何物にも変えがたいだろう。日本ではそうした状況にはなりにくいのはなぜだろうか。

長男は秋から大学進学が決まっていて、今は大学生活に向けてアルバイトをしている。大学は建築学を志向するらしく大変らしい。奨学金の申請をしたのだが、姉さんの給与では不可といわれたらしい。義兄と姉の収入を足した場合には奨学金の対象からは外れてしまうらしい。もっと貧しい人もいるということだ。米国での看護婦の地位や給与は高いらしい。

食事を終えて、暗くなってはいたが近くにあるミニゴルフをしにいくことになった。コースがあるらしく遊園地のようになっているらしい。甥二人は難しいコースを選び、残った私達は優しいコースを回った。義兄はこまめにスコアをつけつつ、パターゴルフを楽しんだ。最後のホールはクリアすると料金が無料という仕組みだったが、みなクリアできなかった。

実姉の家のパソコンで日本語のメールやワープロが動作するようにというのが姉の要請でもあったので夜はPCの設定を行い、パーティションを切り直して半分に英語環境を残して、残りに日本語ウインドウズ2000を導入した。アップグレードでない正式版を買い求めてきたものを一式置いてきた。プリンタから日本語が正しく印刷できて、メールが出来て、元の環境も動作していることを確認してから休んだ。

翌朝は、姉の運転で義兄とサクラメントに向かい、今度はジェットでロサンゼルスを目指した。ジェットのフライトスケジュールは大幅にずれ込みサンディエゴでのコネクトに支障がでそうな状況になっていた。支障が出ているのはユナイテッドのコンピュータがダウンしているのも理由の一つだった。マニュアルで手書き発券しているスタイルは初めてだった。

当然、席は自由に座っていくのだが、窓側から詰めて座っていかなければならない。こうしたあたりまえのことがスムーズに出来ている様には感心した。日本ではこうした状況では、収拾がつかなくなりそうな気がする。平等に暮らすことになれているこの国の人たちの感性には学ぶものが多い。私が座った席は通路側で窓側には日系の女性が荷物を隔てて座ってた。

多分、知り合いが来るだろうから先に席確保をしているのだろうと思っていると、あとから若い女性がやってきてまさにその通りだった。ラッキーだったかも知れない。ベルトを締めて90分のフライトの間には話をしつつ、親子の様なこの二人組みは実は英語学校のクラスメイトらしいことなどが判ってきた。彼女らは日本にこれから別々に一時帰国で向かうらしい。

フライトが遅れていることは、到着段階になっても同様で本来のスケジュールでは15分ほどの時間しかなかった。同じユナイテッドだったのでまだターミナル移動が無いのが幸いだった。ミニ飛行機の搭乗カウンターでチェックインをすると幸運にも飛行機が遅れていた。しかしすぐに乗り込むことになり自分の荷物が正しく同乗できるのかどうかが気がかりだった。

ロスからサンディエゴまでは海岸沿いの上空を飛んでいく45分程度のフライトである。一杯のジュースとスナックをつまむと着いてしまう。しかし雲の上を飛んでいるなかで下降が、始まり雲間に下りていくとそこにはサンディエゴの市内を飛んでいた。軍港を一望しつつ、飛行場に着陸する。空港で半ば諦めてまっているとあにはからんやひょっこり何事も無かったかのように手書きの札がついた、荷物はしっかりと出てきていた。ユナイテッドは大したものかも知れない。

タクシーでホテルに向かい、早速ホテルではメール環境の確認などを行う、既に日本は火曜日の朝に入ろうとしている。同行の仲間も着いているはずなので食事をどうしようかと思いおりていくと、同僚も含めて日本から来ていただいたお客様の一行と同じホテルだったらしく現地営業や日本からのメンバーとも併せての食事をすることになり郊外の日本人の居酒屋に行くことになった。メニューが日本語でしかないという普通の居酒屋である。日本の居酒屋チェーンと違うのは、メニューに写真が無いことだろうか。

サンディエゴでは実は海産物が結構豊富で、日本人の好きなウニなどは日本に輸出しているほどらしく新鮮で安くて美味しい。ここのメニューにはほうれん草のウニ炒めがお勧めとしてのっていた。ウニを焼くなんてっと思う方もいるかも知れないが、中々美味しいものでした。結局この週はお客様との接待が続き次の週末までは食費はかからなかった。