業界独り言 VOL322 歴史は繰り返す

ソフトウェア開発を生業とするに至ったのは、母校で学んだ電子計算機との出会いだったか。ミニコンとの遭遇で始まった新たな世界は、オイルショックによる不況真っ只中での気まぐれな大企業での採用との出会いからだった。なにしろ不況下で採用したところで受け入れる先の事業部が無いというような時代である。大企業の威信にかけても継続は力なりを誇示する為に採用した当時の新入社員はミニマム級な採用記録となっていた。導入研修をして、販売研修、工場実習を行えば配属にいたるというサイクルを回せないでいた時代である。当時のJIS表記の変更が契機になったかどうかは別として時間潰しとは言わないまでもミニマム級の人員でのみ達成しうる挑戦をするのは大企業の中での採用部門としての気まぐれだったのだろうか。

時間潰しとしての提案は、まったく異なる実習先工場での第二次工場実習であり、製図・機械工作実習といった流れであり気がつけば次の年度の新入社員が入社するに至り採用部としては、山下飛びと揶揄されるような新たな経営陣の刷新も受けての配属作業にいたるようだった。まさか会社に入ってから高専で学んだような製図実習や図学実習あるいは機械工作の実習をするなどという事態を想像することはなかった。おそらく、そんな気まぐれを体験したこと事態が会社として封印されているのではないだろうか。ようやっと配属されるに至った事業部から、まさか次のステップが用意されているとは当時の新人としては、またまた想像の枠を超えていた。入社した翌年の五月に、あるコンピュータ会社の翌年の新人研修の中に投入されていたのである。

無論、新人研修に続いて二年間の出向研修という名前の実務が待ち構えていた。学校でFORTRANとアセンブラを学んだのも束の間、ミニコンピュータのシステムエンジニアとして、出向先のコンピュータメーカーの名刺を持ち、その客先の自動車メーカーに駐在して工場制御システムの更新プロジェクトに投入されていたのである。まさにOJTで既存システムのコードを確認しながら、ミニコンサポート部隊とコンタクトをとりつつ新たな機能実装に向けて新デバイスのドライバーやらミドルウェアを組み込みための作業を経験ある上司の下に現場で行うはめになった。といってもミニコンと小型コンピュータの二系統のソフトウェア更新で、開発は高卒の新人と私の二人で上司がシステムをまとめていた。

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業界独り言 VOL321 添乗員・通訳・エンジニア・・・

行きがかり上、進行しない議論を効率的に進めようとすると勢い米国でのフェイストゥーフェイスのミーティングを提案してしまうのだが、最近陥ったケースはちょっと間が悪かった。複数の関係者を引率して連れて行くことになってしまったからだった。ご存知の方も多いかもしれないが、電機労連に参加しているメーカーでは過去の大事故の経験などから出張先での運転を禁じているのである。それが何を意味するのかといえば、お客様が訪米されてきた際にはホテルと会場あるいはレストランの間でシャトルよろしくといった対応を迫られるのである。無論、そんな縛りを気にしないで当然の如く運転される方もいるのだが、人数が20名となってくると話が異なってくるのである。所謂シャトルサービスを依頼して時間割を決めて移動を運用することになるのである。なかなか、自由な時間割では運用できないのだが致し方ない。ましてや運転免許を国内でも持ち得ない私の場合には当然の帰結でもある。

お客様たちの滞在するホテルの手配もQuad社での定常的なサポートの仕事でありはするものの、セクレタリーの人たちにしてみても20名といった規模で一箇所のホテルに四泊もしてもらうためには手配に必要な期間や場所からも準備が大変なことはいうまでもない。代行して予約をするためには、ローマ字でのフルネームや喫煙希望やカード情報が必要となる。一社のみならば集約が早いものの、複数のお客様を集約するといった今回の異様な状況の中では、それにすら時間が掛かってしまうのである。そうした手続きのオーバーヘッドに時間が必要なことを説明しても、そうしたことまでをして米国までミーティングに向かわせるのかといったリーダー格のお客様の方針決定までの経緯も大変なようで煮え切らなかったりもする。見切り発車での手配が結果オーライとなったりしたのはQuad社としての順風が吹いているからだと理解している。

セクレタリーも巻き込んで始まった今回の大捕り物も、先行してサンディエゴに入って別件対応も含めて仕事を進めている中で向こうとこちらの時差を越えての最終フォローをしながら良く分からない現地の事情を日本の代理店を通じてのホテルに指示手配するといった無理が重なり混乱を引き起こしていた。最終的に救って解決してくれたのは現地オフィスのセクレタリーにヘルプを求めたことだった。日本から応援で駆けつけてくれる仲間に依頼をして現地のセクレタリーに茶菓の手配をお願いしてねぎらった。

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椅子の更新

こんな仕事をしていると、自宅でもPCに向かう時間が増えるのは致し方ない。安物の台湾製のコンピュータチェアを自宅の机では使っていたのだが、構成しているビスが緩んだり外れたりといったことが増えてきてゆっくりと伸びも出来ない状況だった。まともな椅子に変えようと思うものの、普段に出かけていく家具屋にあるのは、同様なものしか見当たらず悩んでいた。昨今の不景気な状況ゆえか安物中心の品揃えに映るのはいたし方ないところだろうか。109で「花よりもなほ」の映画待ちをしている間に、時間があったので、まだ入ったことがなかった大塚家具のショールームをたずねることにした。お台場で日本一の売り場面積を誇る家具屋である。ここ横浜のショールームは2/3ほどの規模ではあるものの、それでもたいした品揃えだと感じた。個別の客単位でガイド役の担当員がついて回るタイプのセールスとなるようで、ワークチェアを探していると告げても初めての来訪であることを告げると会社方針としての最低ラインを説明することを強いられた。まあそれはそれで、さまざまなギミックの家具を紹介されて楽しい時間だった。さて件のワーキングチェアは、はたしてアーロンチェアが置いてあることを見つけて安心した。NTTソフトで見かけた疲れの少ないしっくりとくる椅子である。少し値ははるものの買うことにした。1200ドルほどである。納入は一週間後ということで、せっかくの配送日には米国出張と重なり若干残念なところてもある。こうご期待。時差をものともせずにコンタクトを取り合う仲間たちと落ち着いてコミュニケーションをとるためにも必要な自己投資だと考えている。

アーロンチェア

花よりもなほ・・など

日曜には、この映画を楽しむことが出来ました。天下泰平のお江戸での仇討ちエンターテイメント、岡田准一さんの初主演作となり楽しむことが出来ました。脇を固める人たちも素晴らしくすっかり江戸時代の中を生き抜く中での刃傷いや人情を味わうことが出来ました。キムニイの味わい深い演技?も素晴らしく、最近は欠かせない寺島進さんや宮沢りえさんの演技も楽しませてもらいました。こうして邦画を楽しむのは、また格別です。先週楽しんだ間宮兄弟では一人で楽しんだのですが、今回は夫婦割引で楽しんだので2000円で二人というわけで、とっても気軽にリーズナブルに楽しむことが出来ました。

カーテンコール

横浜シネマ倶楽部の主催の映写会で「カーテンコール」を見た、昭和の映画館の栄枯盛衰の流れの渦中を生きた幕間芸人の人の取材を通じて、在日の人の人生や親子の絆が取材する自分とも重なりつつ人生の妙味を教えてくれる。映画自体は、リアルタイムに見ていたのですが、二度目でも緩んだ涙腺はとめどなく流れて仕方がなかった。おりしも横浜の映画街は衰亡の時期を過ぎて、こうしたボランティアの倶楽部となって映画好きの方たちが理想の映画を志向する流れが出来ていたりする。シネマコンプレックスで限られた受け狙いの志向の映画のみがもてはやされやすい時代になりつつも、運営の母体の方針次第ですばらしい映画は廃れることなく続いていくと信じている。DVDで最近購入しなおした、「Allways三丁目の夕日」でも泣きはらしてしまった。 良い映画をリーズナブルかつタイムリーに見ていくためのよいシステムには期待しています。

夏休みの展開か

急な展開で、IEEEの会員になることにした。入会手続きはきわめて容易なのはインターネットの時代ゆえなのかもしれない。なぜ今更に入会する気になったのかというとあるカンファレンスに参加しませんかという問いかけがお客さまとの間であったからなのだが、よくよくスケジュールを確認すると暑い夏のさなかに南半球で開催されるということで細君にも問いかけをしたりする展開となったからでもある。まあ仕事でいくのか夏休みで行くのかは別にして予定としてブロックするようにした。今までに学会らしいものに入ったことがない私だったが、ひとつには電気通信学会への加入処理を郵便局で行った際に振込み手続きが正しく行われなくて郵便局の担当者の対応にいやな思いをもった事件があったからでもある。上司からの推薦で加入する手続きをしていたのだが、実際には払い込み手続きの郵便局側が過ちを認めないということがあり、私としては参加すべき時期ではないと判断したからでもある。今回はクレジットカードであっというまに手続きが完了して、その場で会員番号が付与されるという手続きの展開となった。

梅雨のさなかに

じめっとした梅雨にあっては、はっきりとカラッとした回答が欲しくなるような事態に遭遇すると、両面からやりきれない気持ちになったりもする。まあ四季のある国で過ごしていることが原因かどうかは不明なものの、もって回ったような説明をしたがるのは日本人の特性かもしれない。忙しいさなかの将来ある顧客との重要な打ち合わせを放り出して、一日かけて二時間弱の打ち合わせのために飛行機で西を旅してきた。新しいお客様を迎えての仕事にあたってはメンタリティや感性の違いからなかなかコミュニケーションがうまくいかないのは仕方がないことでもある。言葉が同じであっても難しいのである。メールや電話だけでは解決しない問題があり、結局のところANAやJALのお世話になって時間をつぶすことが必要不可欠になったりもするのである。インターネットで解決しない問題なのである。

思い出したように古いICEコントローラのことを思い出して当時のミニコンの写真を検索して見つけ出した。4KWのワイヤメモリーを搭載したミニコンでターゲットマシンにはこのミニコンからDMAで転送を行うといった仕掛けだったので、ソフトウェアのパッチ自体は、このミニコンのメモリを書き換えることで行い、ダウンロードをしなおすという時代でした。ちなみにまだFlashはおろかEPROMも登場する前の話です。マイコンというよりはマイクロコントローラーという時代でしたし、実際問題ソフトウェアは機械語と中間コードで書かれていましたので新人エンジニアとしてのスタートでショックを食らった印象があります。マイクロコントローラーに搭載されていた機能を使って簡単なデバッガ機能を実現していたのが当時のICE?でしたが、レジスタ読み出し機能がなくて閉口した思い出があります。で・・・当時のグル達がどんなデバッグをしていたのかというと、レジスタをメモリに格納する命令をで次の番地を書き換えて、ステップ実行させて当該のメモリを読み出すというものでした・・・。

よくよく調べてみるとチップにはレジスタを読み出すいわゆるコンソール機能が搭載されていたので、この機能を使って外部LEDに表示するような回路を設計して実装してデバッグに利用して便利に思っていました。私は、コンピュータメーカーでの研修時代に使ったパネルと同様なレジスタ選択のスイッチをつけて16ビットのLEDを並べて内容を表示することで、グル達とは一歩距離を置いた形でのデバッグを始めました。このミニコンのパネルをみるとそんな時代を思い出します。

 懐かしい私のICEコントローラです

時の狭間に

外資に転職して7年が経過しようとしている。99年の七の月を目前として自暴自棄になっていた訳ではないものの多年の経験で現場から離れることを要求されるような事態を迎えていたのは日本企業では普通のことでもあった。奉職して23年が経過して一つの会社でソフトウェアに関する経験を積ませていただいたのも何かの縁だったし、そうした縁を通じて外資ベンチャーに転職したのも、また一つの流れだったかも知れない。当時の思いをつづった転職顛末記のダウンロードはどれほどのものだったかは不明なのだが・・・。開発最前線の支援という職業に転じてからは余計に時間が短く早く過ぎるようになっている気がする。多くのタイムゾーンの狭間に暮らしているせいかも知れない。 通算して30年という長きに亘り仕事が出来ているというのも幸せな限りでもある。

残念な初戦となってしまいました

四年前の時には何をしていたのかというと、携帯ワールドカップに出場して名古屋地区をはじめとするテスト風景の中にまぎれていました。気がつけば、泊まっていたホテルのレートが日曜のみ大阪での試合があったことが災いして一泊四万円に跳ね上がっていたのは、そうした状況を反映してのものだったようです。今回はドイツまではいけないのですが、ドイツで走行試験をしている仲間もいるようです。オーストラリアに語学研修に一年余り向かう知人がいるという話を細君から聞きました。なんだか今日は我が家でも世界に話題が向いています。