業界独り言 VOL145 光ファイバーがやってきた

週末の出張帰国で月曜である本日は代休となっている。本日は光ファイバー工事があるので自宅待機である。朝の9時にNTT東日本の担当者がやってきた。室内の電話線の引き込み口をまずは確認して内部が配管を通していることを確認していた。通りの電柱には中継箱があるようです。外部の引き込み口からワイヤーでガイドして入れる算段であるらしい。ONUの設置場所を確認してから引き込み作業を開始した。家の外に梯子をかけて、ワイヤーガイド付きの光ファイバーを送り込んでいった。

思ったよりも簡単に室内の電話の引き込み口から青い光ファイバーの線が出てきた。電話線コンセントの口を少し切り欠いて引き込み完了である。ガイドのワイヤー部を折り曲げて引き抜き防止のためストラップで止めていた。2メートル弱引き出したファイバーの先端を裂いていき中から細いファイバーが登場してきた。端面を綺麗にカットするための道具を用意してゴソゴソと圧接作業を始めていた。藤倉の銘が入っている道具達である。今は、溶接しなくて良くなったので楽になったそうだ。

どこかのメーカーが作ったと思しきONUの箱から出てきたのはDSUとほぼ同一容量のサイズに見えるものだった。無論無骨なDSUよりは薄くなっている。その会社の期待の星となる製品は昨年の10月製造という表示が入っている。我が家のDSUは初代の物らしく取りつけにきたNTTの工事担当も「そういえば古い型ですよね。」「設置したときには、コンビニ始めるんですかといわれましたけれどね。今となっては番号振り分けもしているので、ADSLに戻りたくはないので光を待っていたんですよ。」「ADSLはISDNと相性がありますからね」

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サンディエゴ通信 VOL8 テロからオリンピックへ 

発行2002/2/15

前回書いたのが八月だから半年前のことである。もともとは、あの日の翌日9/11に出張予定が入っていたのだが当然のことながら流れていたし、当日に出張した仲間や、出張していた仲間達は、それぞれカナダに入国して郊外の観光地に嬉しい足止めになったり、米国から帰れなかったりしていた。米国の人たちの国の威信を傷つけられたテロとの戦争により、愛国心の下に挙国一致する心意気は日本には見られないものだった。会社としても哀悼の意味のリボンをつけての生活が始まっていた。世紀を越えた積もりでいた実は世紀末だったのかも知れないこうした事件の中で、この会社としてあるいは世界がどうなっていってしまうのかというのが気がかりな日々の始まりでもあった。

もともと、翌月には年度末の会社イベントもあり、すこし長い出張を予定していたのである。戒厳令というものに近い異常な状況の中で日本のメーカーの皆様の危機管理もとまどいながらも離陸して米国あるいは海外への出張そのものが凍結されたのはご存知の通りである。11月始めに延期された華やかな期末イベントも結局中止になってしまった。少し浮かれていた20世紀からの流れがリセットするというのは、会社にとってもよい刺激であったのかもしれない。文化と信仰のぶつかり合いの中で現在の社会として動いているという認識がどれほどの世界人口からみた時のバランスでみると100人の村ではないが一部の人間がエデンの園を貪っているのかも知れない。

三連休の中日に出張となったのでどこかで代休をとらなければと思いつつ、テロ事件以降に強化された手荷物検査などの時間で凄く時間がかかると聞かされていたので早めに家を出ていた。荷物を整理している段階で、ラップトップの電源を会社に置き忘れたことに気がついた。急遽タクシーで桜木町まで向かう、「お客さんどこいくの」と気さくに聞いてくる運転手の車には見慣れた松下のAVM対応のタクシー無線機がついていた。「これから出張でさ、アメリカだよ」と返すと「いいねぇ、おれっちまだ飛行機に乗ったこともないしパツキンのお姉ちゃんにもあってみたいなぁ」と呑気な会話が続いた。外を見上げるとランドマークに見下ろされる感じの風景は、いやな感覚を思い起こさせた。

東横線で青山に向かい、休日のオフィスに入る。誰かがミーティングで会議室を使っている様子だったが各自のブースには誰もいなかった。相変わらず散らかっている机の上に取り残されたさびしい格好の電源アダプターを収容した。最後にまとめてメールを高速にダウンロードしようと会社のlanに接続したのが少し命取りになった。メールを落とすのにすこし余計な時間を費やしてしまい予定の成田エキスプレスにはのれそうもない。赤坂見附の駅で丸の内線との連絡はぎりぎりアウトとなった。はて次の案はと携帯で検索すると乗ってきた銀座線で上野へ行けとでる。どちらも万事窮すとなり、とぼとぼと半蔵門線に歩く。これなら最初から半蔵門線で水天宮に向かえばよかった。

水天宮駅にも久しぶりであったが、テロ以前から利用客が寂れてきてチェックインできる会社は今ではJALしかなくなっていた。テロによりこれも無くなるといわれていたのだが実際はまだオペレーションしていた。二階にあがりチケットを求めると直ちに出るバスがあるというのでそれを選んだ。三階のターミナルからお茶だけをかいこんで乗り込む。利用客は少ないもののリムジンバスの時間は成田エキスプレスよりも速い。時間帯や天候によってもまちまちという癖はあるものの今日はなんとかなりそうだった。やがて成田エキスプレスの線路をまたぎリムジンバスも空港出口へ折れていった。

噂にたがわぬ行列は、減少した利用客の数とのバランスで微妙にウィングに収まっていた。オリンピック観戦にいく人が少しは増えている時期でもあるらしく飛行機自体の便数が減った中では利用客は多いほうなのかもしれない。ドラえもん状態の私の荷物の中に映るおもちゃと思しきPDAやら電源やらは怪しげなものと捉えられて全数御開帳という事態で時間を更にようした。「ああ、でもここだけであとは楽だな」とその時は思っていた。荷物検査を終えてカウンターで発券してもらい、荷物を預ける二番のAなので窓側だった。日本から行くときには短い夜の末に朝になるので窓側で正解である。帰りは長い長い昼間のままに一日をロストする。銀行でドルに両替してもらい日常生活費を用意する。両替票からは多くのヨーロッパ紙幣項目がなくなり窓口の方も楽になったのだろうか。

ノースウェストのラウンジで一時間ほどは時間がとれたので、書きかけの原稿であるVAXシミュレータ開発騒動について書き進める。今回は前後編という形にして実は後編は中心人物であるK氏からも原稿をいただいて合作にしようかと考えているのである。前編ではK氏が登場するところまでで終える予定にしている。開発途上で私自身に生じた事件により話が急展開した関係もありK氏の視点が加わるとより楽しいのではないか考えてのことである。実はTechnoWave25号の中でこの記事については次回以降に作成予定として懸案だったこともあり、またそれについてK氏も何か書かせてくださいとメールを戴いていた経過もあったのでした。

麦酒のグラスを片手に書き進めていると時間はあっというまに経ってしまい搭乗アナウンスが流れてターミナルに移動する。茜ラウンジからターミナルまでは動く歩道でちょっとかかる。近くにもうひとつあるラウンジは閉めているのかもしれなかった。サクラメントに住む姉へのお菓子を買い求めて飛行機には乗り込んだ。ノースウェストのビジネスは間隔が広いので仕事をしたりくつろぐのにはもってこいである。隣席は中国籍とおぼしき女性であった。ノースからの案内ではステレオ装置を刷新しましたと書かれていたのだが実際に操作パネルが壊れていて接触不良を起こしている席だった。乗員を呼ぶボタンすら効かないのだ。ときおり入るランプのボタンのみを苦労して点けた。

夕食は例によって松花堂を選択した。今回のバージョンは蕎麦寿司となっていていつもの俵状態のご飯もついている。日本人としては美味しいと思うのだが隣席の中国籍の女性は蕎麦寿司が気味悪いものに映ったのか食べ残していた。VAXシミュレータ開発の記事を大体書き上げると少し眠気がきたので寝てしまった。目が醒めたときには現地時間の六時少し前で乗員の方たちが朝食の準備を始めていた。窓の風景は、明るくなってきた空をみせていた。食事を終えて、眼下に太平洋岸の海岸線がうつり、やがて金門橋がみえて空港に向けて南下していった。着陸した時には七時を少し回っていた。入国手続きでは、社用である旨を伝えてこちらの会社の社員章を見せるとぱっと終了した。こうしたとき位は会社の名前が通用する。

ビジネスの荷物は早くに出てくるのでバゲージ処理は手早い。10度目ほどの米国旅行で箔のついた小さなサムソナイトは直ちに コネクト便の手続きでユナイテッドに委ねられた。サンフランシスコからの連絡便は午後二時過ぎのものなので六時間あまりの時間があり、あらかじめ私が導師とあおぐベンチャーの先達の片山さんがサンフランシスコに来ているので連絡をとり飲茶をすることにしていた。何せ免許の無い身の上なので、日本人とも見えない片山さんが逞しく見えるのは仕方の無いことです。到着出口で落ち合うことができて早速彼の車で飲茶に繰り出した。聞けば、日本の奥さんから電話で起こしてもらったらしく申し訳なくおもった。

片山さんは台湾とバークレーと日本の神田で仕事をしておられてWindows向けのデータベースを長らく開発されている業界の草分けのかたである。ビルゲイツも一目おいているという話は事実なのだとおもう。業界独り言をしばしば送る中でたまにあって話をしても示唆に富む事例などを話していただきとても勉強になる。自分自身開発支援という仕事を通じて、かつて片山さんが行っていた自社開発のデータベースでのユーザーからの珍問答などが実際に体験する中で似たような経験を積み、さらに共感する点が増えてきている。開発現場への憂いや嘆きと国際的に暮らしている片山の日常から感じる世界との接点からはより次の日本の世代への不安が伝わってきた。

テロ事件いらい、訪米を止めていた片山さんが来たのは知人が殺害されたからである。葬式などに出席したりしつつ後片付けをしているのだが息子さんがバークレー校にいることもあり奥さんの家から息子の家に移動しているというのも正しい見方かもしれない。自宅の土台の沈下などで基礎工事のやり直しをする必要がありそれに追われているといっていた。日本では知人が何かの事件に巻き込まれて殺害されるなどというのは異常な事態なのだろうけれど、日常とまではいわないまでも海外ではあたりまえのことなのかもしれなかった。いわゆるヤバイ仕事という意味に於いてはヤバイ仕事をしている人。ヤバイ仕事をしている人を告発糾弾する人。のどちらもヤバイのである。しかし、実際には後者のほうがより命に関わるという意味ではヤバイらしい。

わたしも、「いろいろ書いて夜道を注意して歩きなさいよ」と嫁さんには言われもするものの「殺されるかもしれない」とまでは思い至らない。片山さん自身久しぶりにサンフランシスコに来たということと現在空港周辺の道路が新しくなりつつあるので毎回風景が変っていて空港から出るまでは大変らしいのだ。空港の周囲を記憶に則って南に北に走り回るものの見つからずようやく思い出して辿り着いた店は開店はまださきの十時からの様子だった。「さいきんサンフランシスコに来たかい」と問われて暫く来ていないというとじゃあ金門橋を越えて岬の町までいこうということになった。

坂の町であるサンフランシスコの町を越えていき金門橋のルートに辿り着く。市内まで来たのは四年ぶりになる。北の海岸線から金門橋を越えてそのときやってきたのだが、今回はその途中にある岬だった。途中で路上に赤い塊が落ちていた。何かの動物の屍である。「スカンクだっ」と片山さんがおもわずハンドルを切るが踏んでしまったのだろうか。凄い臭いが車内に充満してきて堪らずまどを明けた。「ここいらじゃよくあるんだ」と言われた。サンディエゴだとあらいぐまが轢かれていたりするが。サンフランシスコの郊外ではゆるやかな丘がつづくような風景である。実際には結構な標高差があったりするのだが丘のかたちがそれらを感じさせないのである。

大きな風景が続き、丘の連なる先には太平洋が見えてくる。「ここいらの風景は映画でよく使われるらしいよ」と教えてくれるが確かにそうした美しい大きな風景が続く。岬へ伸びる道に入っていくと瞬間、車山高原にでも来たような錯覚に襲われる。しかしそうした風景がいつまでも続きやはり日本ではないと納得する。徐々に下っていく山道を時折汗をかきながら登って来る自転車の一団などがいるのだが凄い馬力だと恐れいる。やがて伸びた岬の尾根が低くなり突端の町に近づいた。入り江を囲む形の町に到着すると、そこはヒッピー達の住み着いた小さな町だった。海岸の先まで車ではいり堤防のところから海をながめた。綺麗な海岸の風景はヒッピーたちの安住の場所なのだろう。

町の食堂でブランチにして今日のスペシャルとなっていたラザニアとサラダを頼んだ。7upと片山さんのアイスティーとで乾杯となった。「麦酒は呑まないのかい」と聞かれたが、機中でアルコール濃度が高いのでと遠慮をした。木造の食堂に天井にはサーフボードがかかっていた。ネイティブとおぼしき風体の髪を編みこんだ人物が入ってきたときは最初は乞食なのかとおもったりもしたが、徐に食事を注文していたので彼らの装束なのかもしれなかった。食事をしながら話す内容は相変わらず、日本のソフト開発の話なのだがあたりの風景から考えてこんなところで、そうした話を真面目に話しているのもおかしなものだった。

空港まで戻ると丁度一時を少し回っていてノースウェストのドメスティックのターミナルに下ろしてもらった。しかし気がつくとコネクト便はユナイテッドなのでターミナル二つ分ほど中を歩くことになった。ターミナル2は今は工事中で使用していなかった。ユナイテッドのターミナルでは異様な行列が二つできていて、一つは発券カウンターへの列で一つは手荷物検査の行列だった。今度は、手荷物検査の行列にならび待ちようやく手荷物検査とあいなった幸い金属検知器はベルトまで外す周到さで回避できたが荷物の御開帳の再来がやってきた。今回は靴も脱がされて検査対象となった。なんだか丸い紙をこすりつけてはクロマトメーターかなにかにかけて検査するという厳重さであった。私の靴の中をかがされたクロマトメーターに合掌。

サンディエゴまでの便は中型のジェットであり両側に三列の座席のものである。飛行時間は一時間と少しで北海道から福岡に飛ぶ程度の距離だろうか。こんどはみっちりと詰まった席の間に挟まれて一時間の修行の時間となった。ブンブン飛行機のがくっがくっと高度を下げる不快感とどちらがましかと問われると中々微妙な選択である。なれの問題ともいえば後者のほうが楽かもしれない。半年振りのサンディエゴにはジェットでの到着でそのままターミナルに直結となった。なんとなく青空の空港に降り立ち歩くほうがサンディエゴっていう感じに合うような気がする。

さっそく私のセーターはお菓子の袋に追いやられて春から初夏のような気候のなかでタクシーに乗り込んだ。またサンディエゴの日々に帰って来た。明るい5号線からの風景で私を迎えてくれる。ラホーヤ地区までには一走りが必要となりメーターは35ドルほどになる。ヒルトン系列のホテルエンバシーは最近は会社の指定からは外れてしまい料金的には割高になってしまうようだ。一泊180$という額からもサンディエゴ地区の物価がもともと高いことは確かなのだが。同僚が先に投宿しているので同じホテルを選択したのである。朝食が付くのと部屋が広くて冷蔵庫やレンジがあるのは便利である。まあ、そうした設備が無いのは少ないのだが。入社以来慣れ親しんだマリオットホテルは設備的には冷蔵庫やレンジなどはなくて、そうした要求はルームサービスに頼るという性格のホテルでもある。

同僚には連絡するも日曜ということもあり遠くまで出掛けているようだった。翌朝は時差ボケもあり朝は早くから眼が醒めてしまい早速アメリカンスタイルの朝食とあいなった。ホテルは中抜けとなっていて天井は明り取りが付いているものの室内という構成だった。中庭を建物で囲み、天井のあるという特異な構造である。12階建ての建物の天井に届くほどまで木が伸びては居ないのだが、実際大きな池には鯉が泳いでいて木も植樹されていて公園のようになっている。この一部がテーブルとなり食事が出来るのである。毎日食べていると体に悪くなりそうな盛り付けで出てくるのはどうしたものだろうか。二日に一度であとは果物だけという選択もあるだろうし、実際に朝食でフルコースをとっている(?)人は少ないようだ。家族で来ている人たちは部屋に持ち込んで食べている様子だ。

さあ一週間の研修が始まる。

業界独り言 VOL144 閉塞感からの脱却

昨年のテロ以来、QUAD社の日本オフィスではお客様の訪問への支援やら社内イベントなどへの集合要請などが延期或いは中断してきた。そうした流れも年が明けて、冬季オリンピックなどの掛け声が高まってきたせいか徐々に戻り始めている。開発の母体が米国である以上、行き来が必要になるのは致し方ないことである。主要なお客様である、日韓のメーカーに米国から訪問して、現地のサポート担当がフォローしつつまた最新情報を更新しに米国で研修を受けるというのがそのサイクルである。

最後の審判を待っている電気メーカーの方がサンディエゴを訪問して決断の為の資料を用意したいと弊社を照会してきた。聞けば、この開発をしないという判断は、無線業界からの撤退を意味するらしい。無線オタクを少年時代に過ごしてきた私にとってもそうした変遷は衝撃的な事実でもある。昔は、無線イコール短波であり同等の意味合いにおいてアマチュア無線も存在していた。実際、現在の携帯電話を開発されている方々の多くあるいは経営幹部の方々のレベルではコールサインを保有したりかつては記事の投稿をしていた方も多いだろう。

このメールの先あるいは、電話の先で何が起きているのだろうか。リモートでコンサルティングをしている生活を続けてきた。お客様の所で起きている背景や状況が電話やメールの端々に現れているのが感じられるようになる。うまくいった場合には応答がなくなる。うまく回らない場合には問い合わせやお小言電話の拝聴というサイクルが続く。日本のお客様の感性からは、とうてい理解してもらえない文化的なギャップが米国メーカーであるQUAD社とのやり取りではよく起こる。必死になって開発から生産に乗せようとしている様と時差の先で発生した不具合があるとインタフェース点でショートが起こるのは致し方ないのだろうか?

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業界独り言 VOL143 光ブロードバンド化計画までの経過

混迷の携帯開発業界を尻目に、我が家の光ブロードバンド化計画は進行している。既存技術の集大成ともいえる  100Mbpsのイーサネット技術によるPPPoEのブロードバンドルータが2万円を切る価格で設置される予定である。現在のQUAD社での支援作業環境として光が生み出す環境がマッチするのかどうかは大きな関心がある。下りの速度よりも出先から自宅のリソースに高速にアクセス出来るのかどうかがADSLと異なる期待ポイントである。

今は、まだフレッツISDNで常時接続までは果たしているのだが出先から自宅サーバーのコンテンツをアクセスしようとは考えずにレンタルサーバーを借用してコンテンツのアップデートのみを実施している。実際のサーバーが何処にあるのかは知らないのも面白いことかもしれない。重要なことはTechno-Web.netというドメインで私の作成したコンテンツにアクセスできるようにすることである。長いドメインかも知れないが独自のドメインを一度設置してみたいと考えていたのでTechno-waveからの流れで言えば素直な展開でもある。

セキュアな環境が確保できて速度が達成できればコンテンツを更に双方向性の高い物にしていくことが出来るし自分自身の時間を生み出す最終兵器になるかも知れない。米国オフィスとの間のアクセスは既にフレッツISDNの中でVPN接続が確認されている。光にシフトしたときに聞くのは太平洋の間のインターネットのパイプと自分の会社からインターネットへのパイプの太さとゲートウェイの性能である。セキュアで高速なリンクが沢山張られる時代になるとデビルサーバーなどが活躍する時代ともいえる。

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