業界独り言 VOL371 気がつけば北京に

五 年ぶりに中国にいっていました。といっても一週間こっきりです。前の訪問は、オリンピックの前で、電源事情も不安定な今から考えれば一時代前ということな のかも知れません。実際問題当時のレストランで、ランプが暗くなったりするのは日常茶飯事でした。むろんまともなホテルではそんなことはありませんでし た。古いインフラから新しいインフラに切り替わる途上だったからでもあるでしょう。

オリンピック以前の怪しげな北京からは、少しまともな北京の顔になったということかも知れません。人々がごく普通に道に痰を吐いたりしてもいたし、 山ほどの自転車軍団やら、自転車ベースのタクシーもどきのものまでもありました。空港からタクシーにのっても運が悪ければ、北京市内までたどり着かないボ ロボロな内情の車両だったりと所謂パチモンの町でもあったかと思います。

いまや、町は東京以上にカッコイイビルがあふれていて、町ゆく人たちも東京の街中のファッションを追っかけたりしているように映ります。むろん少し 路地を入ると古い昔ながらの食堂があったりもするようですし、屋台で売っているそれは怪しいままです。どんな食道に入ってもメニューに写真が載ったりする ようになったのは国家の大号令なのでしょうし、レシートが必ず発行できるようになったのも国際化の流れでしょうか。以前は、払った額と同額の子供銀行の紙 幣のようなものを渡されて、これが支払ったことの証明だとか言われていましたので大きな変化でしょう。

最終の金曜は、研修も午前でおわり溜まっている仕事のメールや案件処理を進めて、早めに切り上げてマッサージで肩をほぐしてもらおうと思ったのです が、時間がかかり、三時過ぎにようやくランチをホテル内で済ませるあり様でした。また部屋に戻り片付けをすすめてようやく夕方となり、仲間からの電話が 入ってきました。「夕飯はどうなさいますか」とのことで、「ホテルの中か、外かそちらに合わせるよ」と伝えるととどうもランチも外に繰り出していたような 音が聞こえてくる。市内の喧噪と共にラッシュアワーなので、あと20分ほどでロビーであいましょうということになった。

片付けを進めつつ、時間となった。気がつけば催促の電話がかかってきた、もう下に戻ってきているようだ。韓国の購買担当の女性と、日本からの3人の 仲間たちとでどこかに食事と散歩に繰り出すようだった。泊っているホテルは北京の動物園のそばだったが北上して、故宮の北に位置する前海という地区だっ た。実際問題としては、帰国するまでは、はっきりとどこだったのかは不明だった。外国人観光客窓口があったので地図をもらい、湖畔にある、お勧めのレスト ランを教えてもらい、そこに向かう。前海という、湖はボート遊びをするような不忍池みたいな雰囲気だった。

店内には、バドガールならぬ、オリンピックデザインの北京オリンピックガールがいたり、一生懸命数字だけは英語を話す朴訥とした田舎出のウェイトレ スだったりと店内はカオス状態である。雨上がりの屋外の席には、天幕の端からたれるしずくはご愛敬だが気持ちのよいものだった。適当にメニューから中華料 理を選択しビールと超甘いお茶で乾杯を交わした。淵の欠けた土鍋にボールとしてスープがやってきていた。ホタテのスープを頼んだのだが、浮いている実は、 どうみても大根だった。手元のお椀とレンゲは来ていたのだが、お玉はついてこず、レンゲを使ってピストン配送をしていると遅れてお玉がやってきた。野菜炒 めやら、肉まんや、スパイシーなチキンなどでテーブルは賑やかになった。

春巻きがやってきたのだが、気がつくとテーブルには、醤油もラー油も酢もないのである。韓国レディが「Sauce」とアクション付きで声をかけて、 朴訥ガールがなにやら中に向かっていったが、何もも持たずに帰ってきた。オーダーが通ったのかどうかは不明だ。諦めてひとつはそのまま春巻きを頬張った。 しばらくして醤油が充たされた湯呑がオーダーとして到着したのである。まだまだテーブルに小瓶に入ったソースやらを置くと無くなってしまうからなのだろ う。当然、醤油の小皿などもくるばすもなく、各自一つの取り皿に春巻きを置き、箸を使って醤油をつけて食べることにした。

池の周辺は、ボート遊びをしたり、ライブ演奏をする屋形船などが繰り出したりして市民のガス抜きをしているかのようです。横浜黄金町の昔の怪しさに 比べれば健康的な風情かもしれないが、軒をならべる店は、バーなのかカフェなのかあるいはレストランなのか共通するのはどこもバンドや歌姫あるいはイケメ ンたちがこぞって歌いこんでいるのてある。DVDが流れるのではなくライブで運用されているのだ。

市民の人たちの憩いの場というのが正しいのかもしれない。流れている音楽は、欧米のそれというよりは日本で見聞きするようなメロディーの中国語版で ある。フォークのような人もいるし、いまどきの若者のように歌いこんでいたり、いろいろだ。お化粧も含めて、日本の憧れなどがそこにはあるようだ。外国人 相手にカスタマイズされた点が何かと言えば、スターバックスを配置したり、前海公園周辺の街角のVISAの提灯は、少なくとも欧米の常識で立ち入ってくる 観光客を受け入れるための必然だったのでしょう。

怪しげな客引きの女性が付きまとってきたのは、日本人と見抜いた上で狙いを定めての行動のようだった。仲間から少し離れて歩いていたことも影響して いたのだろう。一人でこのあたりを歩いているのは誤解を生むのか、そういう人がメジャーなのかということの裏返しかもしれない。昨年から開発してきたワー ルド対応の電話機が、鳴り、客引きも諦めたようだった。気がつけば、仲間たちとは50メートルくらい離れていた。ライブレストラン地区をはずれると、祭り の様相を呈してきて綿菓子やら土産物やら細工物のデモンストレーションなどアジアを感じさせてくれた夜だった。

業界独り言 VOL370 なんかこの数字に魅かれるな

い まどきの若い人には感慨もないのが、この370ということだろう。小父さんたちの世代でいえば、前世紀のいや全盛期のIBMが誇っていたシステム370が 学校時代を思い返させてくれる。語弊があるかもしれないが、そうした先進のコンピュータを国をあげて追っかけをしていた今でいう中国のような状況が日本に もあった。日立も富士通もそうした中で国産コンピュータを世界のトップに押し上げようと躍起になっていたのだ。実は、昭和52年から、コンピュータメー カーだった富士通に縁あって出向することになった経験があり、システムエンジニアとして当時の内情を垣間見たりもしていた。

当時の富士通は、IBMからスピンアウトしたアムダール博士が興したベンチャーに肩入れして、IBM370の中枢技術を手に入れて互換路線を達成し ようとしていたのだった。実際問題、富士通自身もIBMのカスタマーでありマシンを導入しているのでIBM自身もその範疇でソフトウェアの提供もしなけれ ばならないという状況で、富士通では新しいIBMのソフトウェアの概観から同様な互換性のあるシステムソフトウェアの開発を進めるという仕事の仕方をして いたようだ。聞いた話では、残念ながらもっともよい結果が出るのは、富士通のマシンにIBMのソフトを載せて動かすのがベストだという話だった。さもあり なん。

私は、新入社員の流れで出向して、ミニコンピュータのSE稼業を経験して本職としての派遣元の事業で考えるシステム事業の礎を作るための人的投資で あった。富士通のミニコン事業自体は、業界標準ともいえるDECのPDP8とのパテント係争などがささやかれていたものと、松下が開発してきた独自ミニコ ンとの合弁で生まれ変わろうとしていた矢先でもあった。結局のところ、ミニコンでビジネスにつながることはなく、ツールとしての位置づけでこの後もしばら く使い続けることにはなったが、経験としてのソフトウェアシステム開発の実践はすることが出来た。派遣元に戻るまえにマイコンが市場を席巻してきていたた め8ビットマイコンの世界に引き込まれていったのだった。

初めて見たマイコンの命令は、8080だった。あまり綺麗とは言えないものの単純な処理なのでわかりやすいともいえた。これ以前に超シンプルな命令 のミニコンなどを見たりしていたことも要因かもしれない。命令が16個しかないミニコンはある意味でとてもシンプルなツールだったのかも知れない。 FuseROMライターなども、こうしたミニコンのソフトで開発して出力ポートを使って構成したりもしていたのだが、間違えるとあっというまにチップが焼 けてしまうといった危険な道具でもあった。msのパルスで書きこむ途中でミニコンを止めたりすればそうしたことになるのである。

マイコンの登場は、電気技術者のすべてに波及するようなニューウェーブを引き起こすと考えられ、NECのTK80トレーニングボードをこぞって日本 中のメーカーが購入して貪るように取り組んでいたに相違ない。松下では、ミニコン研修などをしてきたメンバーが講師となってUARTの8251を使ってテ レタイプ社のASR33を接続して入出力のプログラミングを実践して機械語でデバッグするといったメニューをこなしていたのだった。当時のTK80につい ていたメモリ容量は1kバイトだった。でも課題は、キーボードから読み込んだデータをプリンターに出力するというものだったのでタイミングやコントローラ の制御といったものには十分な経験をさせてくれるものだった。

一番下っ端の講師としてピットインにROMデータを焼きこみにばしりで行かされたり、デバッグを先行して実施するのだったが方眼紙に書き出したオシ ロからの波形でみたループで動作させたソフトのデータバス波形から原理を学んだのは血肉となっていまも流れている気がする。学校で教わった最大の武器は、 シンクロスコープでの二現象モニタによる遅延掃引の技であり、当時でも中古だったと思われる岩通のシンクロをじっくり学生時代に触らせてもらえた経験が、 このときは活躍して先見の明のある先生の深謀遠慮に感謝したのである。

十分にな準備期間を与えてもらったというべきか、活躍できるだけの経験素養をたまたま持っていたことはラッキーだったし、回路にも半田付けにも抵抗 がなかったことが新たな道に向かうことになった。先輩社員が、ミニコンを使ってクロスアセンブラを開発していた。最初の版は8080用でアブソリュートア センブラだったのだが、二代目の先輩は、やはりオブジェクトを使ったリンクローダが欠かせないとして、モトローラ6800用のクロスアセンブラをミニコン で開発してくれていた。参考にしているのは、ミニコンのシステムのファイルフォーマットだった。これに互換性を持たせることでツールが活用できるからだっ た。

電波事業部では、マイコンを活用した車載端末を開発して車両位置を検出するシステムを開発してタクシーなどの運用に有効活用するというものを手がけ ていた。そんな端末の開発に8085が適用されて、初代のクロスアセンブラが活躍していた。2代目のクロスアセンブラがターゲットにしているのは自動車電 話に適用するこれからの戦略マイコン6800だった。その源流となっているモデルは松下が心血注いで電電ファミリーに真っ向勝負をしかけて手に入れた自動 車電話の端末だった。マイコンがない時代から開発が行われていたので制御ボードという名前のコンピュータポードは自分たちで構築したRCA4000シリー ズで作ったコンピュータでもあった。

松下は、コンピュータから撤退はしたものの、富士通に売り渡した部隊との連携をとりつつマイコンという戦場で戦略的な開発をしていたのは知られては いないことでもあった。そして松下のオリジナルのコンピュータが3個も搭載されたモデルが初代の商用化した自動車電話TZ801だった。16ビットマイコ ンひとつ、4ビットマイコンがふたつ搭載されたこのモデルは先駆者たちのDNAが色濃く残ったアーキテクチャで構成されていて、正直しばらくソフトウェア の設計資料を読みながらもなかなか理解が難しいものだったが、そこにも深い互換性についての取り組みがなされていたことがわかり、とても良い経験となっ た。

開発された自動車電話を構築するソフトウェアは、開発において用いられてきた自らが定義したマイクロコードをマイコンを使う段階でも適用するという ことだった。言い換えればアーキテクチャを踏襲することでハードウェア設計の範疇として、昔の機械語を中間コードとして実行するインタプリタ構造をとった ということになる。最近のJavaやDalvikの意味とは異なるが解釈系のシステムであることに違いはない。まだまだ性能が十分でない時代ではあったも のの、制御シーケンスなどの要求事項なども、アナログ処理で実現するために、マイコンの命令実行に3-10usくらい要してもなんとか賄えるということ だった。信号シーケンスの速度から言えば150bps位のフレームが処理できればよかったのである。

業界独り言 VOL369 互換性の実現とは

世 の中には、インテルアーキテクチャという大層メジャーなものがデファクトとして君臨している。組み込みでは、ARMやらPICやらといったものがそうした ものに対応しているということだろう。組み込みという視点で考えた場合には、RTOS黎明期ではTRONが、そうした任にあっただろうが、最近ではそんな レベルの組み込みをスクラッチからするというような事態はないようだ。組み込みといいながらも出来合いのボードを持ってきて即アプリを組み込み稼動させて いく・・・とまでは行かないまでも、そうした流れに近いようだ。

組み込みソフトの黎明期から付き合ってきた仲間などは、ソフトハウスとして自立して頑張っているのだが互換性というよりも既存の設計資産を稼動させ るために四苦八苦しているという実情があるということは昨年にもつづったような気がしている。ある意味で気の遠くなるような状況が、要求されて同じものを 作り続けるということの難しさを開発する側としては共有するのだが、依頼する側には一切そうした理解も妥協もないのである。長い商品寿命の製品に同じソフ トや同じプロセッサを適用し続けて行くということは、もはや何も生まず、モチベーションもあがらない仕事となり、ますます組み込み業界に若者が興味を持た なくなってしまう気がする。

では、ソースコードベースでLinuxを活用していけば解決していくのかというと、必ずしもカーネル開発せずに解決できる問題ばかりではないが、取 込んでしまったメーカーは頑なに自分のビルドベースを使い続けていき、世の中の進化と隔絶していくのではないかと心配もしている。APIを決めてプラット ホームを提供していくというスタンスは、Linuxには必ずしも無いが、Linuxの上にそうした環境を構築しようという動きはある。アンドロイドもそう だし、iPhoneだって同じである。敬意をもっていえばマイクロソフトもそうしたことに留意しているのだろう。

さて、先日iPhoneのOSが更新された、新しいUIとして日本語入力などが更新された。メール画面の横入力なども対応できるようになったのだ が、実際のところ新しいメソッドが使えなくなったアプリも幾つかあった。いわゆる作法の悪いアプリには互換性を担保しないというのがスタンスであり、オー プンな世界であるiPhoneのアプリ市場では、当然お客の不満も出てくるのでそうしたアプリが対応しないとなれば駆逐されてしまうのである。良貨は悪貨 を駆逐する・・・の図式になるわけだ。これがオープンマーケットの健全な姿でもある。

組み込みの世界では、必ずしもこうした図式にはならない、バグであったとしても前動いていたアプリが動かなくなることは許容しないといった論理がま かり通るのである。こんな理不尽な世界は、当然先がないと考えるべきだし実際のところそうした流れになってきている。互換性を追求するのは良いことだが、 理不尽なバグ互換性の担保は出来ないのである。こうしたことを要求しつつ、既存の手を入れられないアプリがあるのでバグに手がつけられないといった理不尽 さなどが出てくるとあきれ返ってプレーヤーが退場してしまうのも致し方ない。

プレーヤーが離れて行こうとしている市場で、なおのことバグコンパチブルといったことを声を荒げていう理解のない人たちに手を差し伸べるにはいった い何をすることが必要なのだろうか。OOPなスタイルの世界に踏み込めない、組み込みベースのシーケンス図でのコーディングしか出来ないような人たちと付 き合っていること事態が間違いだといえるのだろう。互換性をきっぱりと捨てて新しい世界に飛び込むことを選ばないと、結局のところなんらの進化も得られな いということに気がつかないのだろうか。