業界独り言 VOL169 関西は負けへんでぇ

3GPPの準備が俄かにスピードを上げてきた。最新技術を搭載したという基地局システムのソフトウェアが、その最新技術のバグ取りが進んだというのが、どうも理由らしい。リソース管理に問題が出ていた基地局システムが、急に完成度向上するのは信じられない点もあるのだが。完成度の高い基地局ベンダーとそうでない基地局ベンダーのソフトあるいはハードの完成度の差は、通信キャリアにとっては選定対象にもならないらしい。

やはり世の中は政治力なのか。とはいえ完成度が低いと思われていた海外ベンダーの完成度が急に高まったのは、腐っても鯛というべきなのか。トップを維持していくための努力は怠っていなかったということなのかも知れない。交換機時代のゆるぎない成果が、選定理由の実績といった政治力のバックグラウンドでもあったのだろう。第三世代への挑戦が彼ら自身も無線システム方式実現の上の技術力追求の手を緩めなかったのだとすれば開発プロセスとしての健全さがそこにはあるようだ。

基地局開発のシステム構成論としてもsmalltalk的な考え方を持ち込んだのであろうか。まさかガベージコレクションをしているとも思えないのだがメモリーリークするよりはという選択肢なのかもしれない。以前ある通信メーカーのWCDMA基地局開発に従事していた仲間がQuad社の支援チームに転職したりもしていたのだが、この例はクラシックな方法論でトランザクションベースのデバッグで、やはりリソース開放には苦労していたようでもあった。こうした現場での問題点がうまく次の開発に向けた技術検討に回されているのだとすればプロセス改善の良い事例といえるのかも知れない。とかく、現場からは非難されることが多いプロセス改善ではあるが、革新を掘り起こすのもプロセス改善なのかも知れない。

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業界独り言 VOL168 中国に養ってもらう

例年恒例のワイヤレス展示会が、今年も三日間行われた。これが行われるのが梅雨明けだという認識があったりもする。残念ながら、今年は米国での支援出張となり日本には居なかったので四度目の展示会は、説明員作業も含めてパスと相成った。Quad社にジョイントする段階で初めて知りえた業界向けの展示会であったのだが、組み込みを中心に活動してきた今までの業界とは少しずれた印象があった。突出した携帯業界のアンバランスな状況で動いていた事と技術的な流れとのギャップを感じていたからかも知れない。

Quad社での展示会への位置づけは、卓越したアプリケーション文化と数多くの端末メーカーとが織り成す先行技術商品を志向する業界へのソリューション展示であり、大きな市場を抱える中国へのゲートウェイである。中国の通信機メーカーや通信キャリアが実際のアプリケーション文化と各メーカーあるいはソリューションメーカーを求めて来訪するからだ。今年はチップよりもアプリケーション環境にシフトした展示になっていたようだが、もうチップでの展示には余り意味を持たないのも事実だろう。

アプリケーション担当の技術者が、今回の展示会ではQuad社でのヒーローだったようだ。彼は、やはり私と同様に三年前からQuad社にコンサルタントとして登用されたのだった。まだ学生在学中だった彼は、ケイ佐藤と同じ国立大学でマンガを一万冊読破しているというオタク道まっしぐらな青年であった。そんな経歴を買われてか、まだ携帯でアプリがどうこうという時代には程遠く、ようやくi-MODEでネット接続が出来る携帯が出来始めた時代だった。「なにか面白い提案」というものを求めたケイには新鮮に映ったようだった。

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サンディエゴ通信 VOL10 滞在日数オーバー 

発行2002/7/18

台風が来ていた、余韻なのか強風が吹きつづけている。例によって急な出張となってしまった。お客様が米国で現物を交えて最終懸案事項の解決を図りたいというのだった。木曜に言われたのだが、仲間と連絡をとり向こうでの受け入れやらホテルや飛行機の手配などを直ぐにお願いしていた。まあ、こんなことは日常なので、最近はスーツケースは出しっぱなしで国内での出張も三泊以上続くことも続いたりしていたので実際問題自宅で寝ることのほうが少なくなっていたようだ。出張清算報告もしないと百万円近いオーダーで会社費用を立て替えていることになる。先日溜まっていた国内出張の最新分のみを消化したのだが、米国二回と国内が四回分残っている。最近、土地を購入したりするので出費も続いていて家計状況としての銀行残高にも気を回す必要が生じてきていた。

二人だけの気ままな暮らしであり、銀行残高などには最近気に掛けていなかった。といっても細かい出費は続いてはいた。この三年間の軽微な工事などを合わせると結構な金額になっていたはずだった。少し残りが貯まると繰上げ返済などに充てているのが実情であまり計画的だったとはいい難いものだった。都内での仕事が続いていくことが今後もそうであれば都内への移転を考えたりもしていて、都内通勤圏でのもう少し近接区域での不動産物件を今年の初めには探していたりした。おかず横丁などの下町生活に憧れたりして出かけてみたりはしたもののやはり庭弄りがしたいという細君の希望は難しい。

例によってWebで検索したりしていくつかのメーリングリストのような案内が届いていたりしたのも沙汰やんでいた。六月から七月に掛けての国内宿泊出張ばかりが続いていたさなかにある不動産屋が過去のメールリストなどから出来た台帳に基づいて電話攻撃をしかけてきたのだが、迎撃に出た細君と電話の主の彼女との波長があったのか迎撃に失敗して迎合してしまったらしい。普段なら数秒で打ち落とす電話を長々と話しているさまは友人が増えてしまったような印象だった。こちらの要望を話して物件調査依頼のリストに入れてもらうことになっていたようだった。

電話を掛けてからほどない土曜日に、不動産屋の彼女から電話があり「出物の物件があります、土地もちょっとはあるお近くのものなんですがいかがですか」というくだりになり、のこのこと現場に出向いていってしまった。実はこの夫婦は、いつもなにかこうしたパターンで出向いていってしまった件で断ることになったことはないという繰り返しの歴史があり車を購入したり、家を買ってしまったりマンションを買ってしまったりしてきたのだった。今回も・・・その轍を踏んでしまうことになった。この不動産屋の彼女という細君の友人が増えて土地購入の契約を済ませて今は建設工事の検討をしているのだった。

やはり今様の不動産屋との暮らし方なのかどうかはわからないが希望の間取りなどのアウトラインをメールで話したり、急遽買った3Dの間取り実体化ソフトのデータを送ったりして遊んでいるのだ。不動産屋でもこうした形が流行っているようだ。横浜なりの坂の風景にある土地は戦後に建った木造平屋の古家が残っていて今は空家になっていた。細君のすきそうな庭弄りも出来そうな広さであり接道までのスペースなどは恐らく自慢の花木が並ぶことになるだろう。そんなやり取りとはいえ、メールで済まないのは最初の挨拶などであり建築担当の方などとの挨拶や打ち合わせも出来る限り前だしして進めようとして出張前日の土曜日に設定した。

ちょうど台風が一本やり過したあとで、米国から姉が父母の様子を見に日本に来ていたこともあり挨拶訪問と打ち合わせを一日で済まそうと画策していた。結局父母を訪ねてから不動産屋で細君と会うことになっていた。タイ航空で来たという姉は荷物が届かずタイまでいってしまったようで、ようやく土曜日の朝に届いたらしかった。互いに入れ替わりで米国と日本を行き来することになるのも珍しいことだったが久しぶりに姉弟が父母と話をするというのも楽しい時間だった。普段面倒を見てくれている介護ビジネスの妹も逞しいとはいえ姉兄が対応してくれる数時間は気が休まったことかも知れない。

不動産屋との打ち合わせ時間が近づくと携帯の着メロが鳴り、不動産屋の彼女からお迎え電話だった。内容をすぐさま細君に転送して私は直接不動産屋に向かった。土地の制限などから来る工法上の考えなどのベースを建築担当の方から聞き、こちらからの希望となる間取りについて3Dデザイナーのデータを見せて説明した。あいにくと印刷が出来なかったのでPDFに打ち出して早速PHSモデムでメールとして添付し不動産屋の彼女の同僚に送信した。間取り図が紙で手元にあると書き込みを行い打ち合わせは短時間で済んだ。いくつかの宿題検討をお願いしてベースプランの作成までをお願いした。この先は設計屋を巻き込んでの手順になるのでステップを踏んでいくことになる。

そんな土曜日を過ごしていたら夜中に、お客様から電話が私の携帯に入り、「大きな問題は解決できたようなので渡航人数を減らしたいのでお願いします」というまた、一方的な電話であった。まずはホテルの予約のキャンセルであったのだが実は金曜に一人追加したばかりで三人のお客様予約を入れていた。無線担当の方たち二人が来なくなりソフト周りの親方のみが来ることになったようだ。もう米国も土曜に入ってしまうのでこちらで起こっていることをメールで伝えて残りは月曜日に現地で説明するしかなかった。目まぐるしく変わるもののじっくりと対応する以外に方法はなかった。月曜から水曜の三日間を対応に予定していたものの、一日は短くなるかしらというのが取りあえずの印象だった。

荷物は機材などは会社に置いてあるので日曜の朝会社に入り、荷造りしてそのままいく事にした。日曜出発は代休をとっても良いのだがなかなか取れないのは自分の都合が押してしまうからだった。お客様から預かった電話機とソフト一式のCDなどを詰めCD-RやUSBハブなどのお道具一式を詰めるといつもの出張道具が出来上がった。夏なので日よけもかねて最近は帽子を被っているのだが、周囲の評価は虫取りにきた伯父さんという雰囲気らしい。確かにバグ取りに出かけている伯父さんなのである。半蔵門線で水天宮に向かいリムジンで成田へ進む。一眠りすればもう成田である。成田エキスプレスよりも便利なのはそのままチェックインカウンターに入れるからである。出発ロビーに横付けなのである。成田の周辺は天候は良いもののやたらと強風が吹き付けていた。

ビジネスクラスのカウンターでスーツケースを預けて、まともな昼食を済ましてから銀行で両替をして、ラウンジへ向かう。日本の検査ではバックルは鳴らないので外さなくともよいのだが米国ではバックルが鳴ることが多い。ベルトをいちいち外すのもメンドクサイのだがホールドアップやタッチ攻撃は苦手なので回避できる手立ては出来る限り講じるのである。チタンのメガネは決して鳴らない。指輪もオーケーである。国内では靴まで脱がされることはない。搭乗カードにはバスゲートが指示されていたので近くのラウンジが示されていた。ラウンジ内で最後のメール確認などをPHSで行い連絡を済ませていた。搭乗案内からのアナウンスでは急遽バスゲートから一般のゲートに切り替えになったという。確認してからゲートに向かう。少し出発に手間取っている様子だった。

ビジネスクラスの最後尾の席が今回の座席だった。少し後方にはカーテンがありそこから後ろはエコノミークラスだった。機内アナウンスによれば、強風で成田に着けなかった機体があり、代替の機種を手当てしたので時間がかかったという説明だった。案の定機体整備の状況が思わしくないところがありオーディオサービスでトラブルが起きていた様子だった。最近はビデオを見たりしないのであまり関係がないのだがお客様からはブーイングだったようすだ。食事のオーダーは変則的な順番で取りに来ていて何故か私のあたりでは私が最初で前にいったり後ろにきたりという形でとっていた。お陰で和食をゲットすることが出来た。席を予約するときに頼むのを忘れていたのだがマイレッジが貯まっていて優先されたのだろうか。

朝起きると、めがねがないのだ。寝る前に外さなかったので下に落ちていると思ったのだが、見当たらない座席の周りを一通り見たのだが何処にもない。フライトアテンダントにお願いして探してもらったがやはり見つからず予備のメガネをスーツケースに入れていたことを思い出し一応安心はしていた。機内放送の効果もなく機体は米国上空に到達して着陸準備に入っていった。エコノミーとビジネスクラスとの間の仕切りであるカーテンが開くと後方座席の足元に金属光がちらっと見えた。落ちた眼鏡を気づかずに蹴って転がったらしい。ラッキーである。とくにレンズも無事である。探してくれたフライトアテンダントのお嬢さんは着陸応対のポジションに移っていて見当たらなかったので別の方に見つかったことを伝えておいた。

入国審査に並ぶといつもとは並べ方がことなり海外からの処理が右側になっていた。何時もは左なのだが。何事もなく済むはずの入国審査だったが、なんだか審査官がクレームを云っているのだ。どうも90日を越えるステイをしているので駄目だといっているのだが、今年は回数が多いとはい滞在日数は超えているとは思えなかった。第二審査で話をするようにと聞こえたので分からぬままに、その窓口に向かった。聞けば、米国の入国記録データベース上では、96年に7月に入国して10月に帰国したとなっているらしかった。そんな以前のことを急に言われても「そのパスポートは自宅にあるのか」といわれても「あるかどうか分からない」としか答えられないし、思い出して個人旅行で7月にきて、10月にも見学旅行で来たという説明をした。合わせて、このパスポートに記載されているほど(11回も)来ているのに初めてそんなことを言われたと反論すると向こうも納得したようだった。米国のテロ対応のせいか古いデータも含めて検査しているようで、そうしたデータが結構いいかげんだということも分かった次第である。

ロスの空港乗り換えも荷物のハンドオーバーも慣れたので気楽なものとなった。また、周りで声を掛けられるフレーズが聞き取れるようになってきた気がする。とはいえあまり他の空港にいく用事はあまりないのだが。二時間ほどあった筈の乗り換え時間も90日滞在オーバーの判定不服申し立てに時間を取られてあまり時間もなかった。バスで向かったリモートターミナルからほどなくブンブン飛行機に乗り継ぎ間際の靴脱ぎ検査も免れてトラぶったわりにはスムーズに済んだ。ロスからサンディエゴまでのブンブン飛行機からの視界は相変わらずの空と海でまた来たなと思わせるものである。私はこの光景が気に入っている。最後、サンディエゴ上空で旋回しつつ降下していくさまには最近では楽しみになってしまった。昔はこのシーンが一番いやだったのだが。落ちていくという感じから舞い降りていくという感じに感覚が変わり、宮崎アニメの一シーンのようにさえ感じるのだった。

降り立ったサンディエゴのコミューターターミナルは工事中で舗装工事のために実際のターミナルまで100メートルほど歩いていかなくてはならなかった。強い日差しが虫取り帽越しあるものの乾いた風涼しく相変わらず快適な気候に変わりはなかった。荷物を受け取りタクシーでホテルに向かったのだが途中で気が変わり、今回の旅行で出来そうもない買い物の時間を今日初日にとる事にして途中でスーパーに立ち寄ることにして運転手にお願いをした。「おれは、そのスーパーは知らないから道案内してくれればどこでもいくさ」という返事だった。五号線を北上していきいつもの降り口の一つ手前でおりて左に折れると丁度目的のWhole Foods Marketであった。10分ほどで済むから待っていてねとお願いして買い物に入った。

このマーケットは食材に関しては一番種類があるのではないかと思っているところの一つである。実際にはもっと大きなスーパーは沢山あるのだが。私がほしいのはドライトマトであり、あとはバージンオリーブオイルであった。細君からの依頼は以上だった。初日のお土産を買うのはどうしたものかというもののタクシー代に差はないので願ったり叶ったりであった。お客様とのサポートをしていく上で自分の時間の余裕は最後の帰国日以外はないからだ。まあ予定をもともと長くとっていれば良かったのだが、お客様に合わせておきあるいは短くなれば日本での展示会説明員として早めて戻ろうかと考えていたからでもある。

たった一人のお客様も無事既にホテルに到着していたようで、夕刻の食事の手当てをこちらで研修途中の上司に依頼しておいた。サンディエゴは二度目というお客様だったが今回のホテルは作業場所に近いホテルで歩いていける場所を選んだ。私が運転できないこともありお客様自身があまり煩く言わないタイプの方であることも読んでいたので二人で毎日歩いていくことにしていた。15分ほどの道のりである。多数のお客様がいる場合には毎日タクシーを呼ぶ必要もあっただろう。日曜の夕食はおなじホテルに宿泊していた上司にお願いしてコンボイにある韓国料理の店で豆腐料理に舌鼓を打っていた。ホテルの近くにはちよっとまともな日本料理の店は見つけていなかったのである。

よく初日は、明るい涼しい中を歩いて向かい気持ちのよい仕事始めとなった。サンディエゴのメンバーたちは三人到着して物々しく進める予定にしていたので若干拍子抜けしたようであった。交互に専門の担当技術者の都合をつけて呼び出しをして案件を処理していくのだが、お客様との端末とQuad社の端末とでの動作の差異がありソフトウェアの差分を検証したりしつつの作業は予想外にかかりやはり予定通り三日かかりそうな様子だった。夕食には現地の日本向け営業担当の日本人に連絡しておいたので会食する予定だったが、メールを読んでいると上司が変わってケアしてくれることになっていた。夕刻の七時過ぎに作業しているビルまで来てもらったがまだ終了の目処がつかないので一旦ホテルに戻ってもらった。当然多くの米国人は七時を過ぎれば帰ってしまうのが普通なのだが、日本人のお客様の場合には本国に電話をしてもうすこしこんな作業をしてもらえといった注文がつくのでお尻が見えないのである。

たまたま、最近ジョインしたインド人のメンバーが前職で韓国メーカーでWCDMAの開発に従事していた経歴があり彼は時間が遅いのは厭わないタイプであり問題をもう少し追いかけたいというスタンスがありラッキーだった。遅くまで詰めていると、上司がお腹が空いたらしく電話を掛けてきたのでそろそろ食べられなくなりそうな時間だったのでようやく初日を終えた。上司の車が到着するとそのままホテルの近くで見つけたという日本料理の店江戸寿司に向かった。一度いったことのあるモールだったがこのすし屋は最近出来たらしかった。入り口にはCLOSEと掛かっていたものの中にはお客様がいて、なかの板前さんが引き入れてくれた。早い注文で握りを一式頼んで食事にありつけた。なかなか新鮮な寿司は高かったものの、満足できたようだった。お客様を交えての出張は、ケアも大変である。

つづくかな

業界独り言 VOL167 仕様書通りでは繋がらない

3GPPと呼ばれる一連の規格に基づく壮大なシステムが離陸しようとしている。実際に離陸するのか失速するのかという意見もあるのだが必要性のあるシステムならばスムーズに立ち上がるだろう。開発リソースの限りを尽くして取り組んできたメーカーも音を上げて最終コーナーで乗り換え案内を立ち尽くして見ている風景にも出会う。IMT2000と称して次世代通信としてもて囃されてきたシステムの実像は、どこか国際標準とはいいつつも欧州のシステムであることに疑いはない。

国際化システムというよりもGSMをCDMA化したシステムであり、特許問題を逃げようとしてきた歴史により作られてきた袋小路のような印象である。開発の主体は、欧州であり先頭集団で走ってきた国内通信キャリアの一連隊が途中で放送時間内に納めようとしてコースアウトしてしまったことからも長距離コースをじっくりとやってくるノルディック競技のお国柄の人たちのペースとは相容れないようだ。交換機の歴史などからも経験豊かな北欧のメーカーへの期待は上がる一途の様子である。

世の中のアンバランスな状況を日本からの視点のみに立っていると危ういのが最近の実情である。先に述べた矛盾点の大きな問題点はパケットサービスへの異様な執着であり、基本機能であるはずの基地局間ハンドオーバーの軽視である。国内の通信キャリアでの取り組みと北欧メーカーが地盤とする欧州キャリアでの実情の差異がそこには如実に現れているようだ。国内でのPDCと同様に欧州でのGSMと第三世代の間には大きな方式上の開きがあり第三世代にすべて移行するという図式は欧州にはないのである。

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業界独り言 VOL166 三年坊主の戯言

三年前の今頃は、こそこそとした後ろめたい暮らしをしていた。会社で仕事をしながら次の勤め先に転職面接の為の旅行訪問をしていたのだから致し方ない。そんな思いも感性のなせる技か最近では、仕事さえしていれば会社に対しての忠誠心というような尺度とは相反しないのではないだろうか思うようになってきた。三年間の暮らしで自分自身としての技術者としての考え方とは別に社会人としての考え方として成熟してきたというべきなのかもしれない。ドライという言い方で当てはまるのかどうかは判らない。

初めての転職面接が言葉の問題もある国でのこともあり文化や考え方などが大きく異なった会社への物だったからだ。組み込み業界に長く暮らしてきた技術者として以前の会社で多彩な製品開発に従事してこれた経験は有り難く思っている。会社で与えられたチャンスを活かして頗る楽しい仕事をしてきたとも言えるし、他の携わった人からみれば、そんな私に振り回されてしまった大変な仕事だったと言うかもしれない。以前の会社での技術者としての幸福は、一つの大きな会社の中にうまく自分をマッチさせて仕事を続けてきたということだった。

違う会社を経験したことが無いというと語弊があり、配属と同時に出向を命ぜられたからでもある。自分の会社で働くことが出来たのは実は、入社してから三年目の事であった。一年間の研修生活というものはオイルショックの賜物だったし、その後の通信とコンピュータの会社への出向も社内がそうした方向を向いていない時代の反映であったかも知れない。三年が一つの区切りとしては適当な単位なのかも知れない。学生生活から社会人になり、試験雇用的な出向研修という時代を暮らしてから、本来の会社で社会人としてしていきたい事に取り組むという手順を踏んでいた。

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