業界独り言 VOL293 ライフプランを描きながら

今週は知己たちとの予定で一杯だった。水曜日に年初の独り言のオフ会を行なったのだが、電機業界でお決まりのノー残業デーも携帯分野の知己達にとっては中々適合しないような状況にあるらしい。都合が付かない方も多かったものの、予定通り開催することにして二時間という居酒屋の制限枠を二倍にもなる中で、楽しくこれからの仕事や業界の流れなどを肴にして過ごすことが出来た。オフ会を通じて知己たちの元気な顔や声を聞くと安心もするのであり、また次なる技術展開に向けた仕事に張りが出てくるというものでもある。携帯電話業界がプラットホーム移行という大きな流れの中で、産みの苦しみを経験しつつも、開発プロセス自体の改革に向けた通信キャリアとの期待値とのギャップなどには、まだ思いが至っていないような様子だった。核となるエンジニアは、気が付いているもののビジネスをドライブする経営陣や、開発に従事する仲間達にそうした今後のプロセスの変革について意識を共有することが出来ないことが、変調を来たしていることを加速しているように映る。

金曜日には、前の号で紹介したサーバーベンチャーのCEOとの昼食会もあり転職経緯の発端ともなった六年前の事件などを思い起こしつつも、また同じ有楽町の海外特派員クラブでランチを取りながら、ケイ佐藤らと一緒に楽しく仕事や業界とのマッピングなどを思い描きつつ過ごした。4Gサーバーを開発するバラード氏の成果を評価する横須賀のキャリアでの導入成果は大きな以前からの進展であった。悪魔のサーバーと評した当時の私の転職顛末小説は、出資者をエンジェルと称する流れの中で、なかなか成果の出ない状況などと合わせてあえてデビルサーバーという名前で呼んでいたのも事実であった。現在も、実際にビジネス展開として、今回の成果を参照してきた日本の多くのユーザーからみれば理解不能な技術として敬遠されているような状況には変わりが無いらしく、まだまだ必要とするアプリケーションに出会わないという状況のようだ。バラード氏が、天啓を受けて始めたこのベンチャー技術のインキュベーションを、ようやく三つ目の会社として達成しようとしているのは、真のインキュベーターとしての山羽氏の心意気以外の何者でもないだろう。

まだまだ実用化に向けての障壁は、あるもののとにもかくにも商用マシンを出荷納入するというテーマを七年目にしてようやく達成したのである。栄えある最初の発注ということを実施した初芝通信時代のあの頃に達成していたならば、また別の展開があったのかも知れない。超大規模化を予感したI-mode時代の到来に備えるべきという警鐘を感じ取っての技術として評価してきたものの、それまでの技術から踏み出すには実績という理由が無きままに世の中は動いていかないものである。初芝をリタイアしてインキュベータの道を歩んでいる山羽氏が、こうした弁護士から技術屋に転じたバラード氏を本当に添い遂げていこうという心意気は、最初の投資家の人たちから発せられた詐欺師呼ばわりされつつも成果が出せずに破綻した二つの会社での歴史を拭い去りたいというものから来ているようだ。自らの活動に必要な資金を捻出しつつ、残っている時間を駆使してインキュベーションにまい進している山羽氏の生き様には、敬意を表したい。インキュベーションを重んじるという理念の会社方針を形式的に打ち出されている会社などもあるようだが、真のインキュベーターの精神までは社員に教え込んではいないようだ。

金曜日の夕刻には、20年振りの山の同好会の同想会が企画されていた。前の会社のハイキング同好会といった分類の仲間であるのだが、発起人である先輩からのメールでの連絡などがあり当日には15名ほどの方が集まった。もともとのメンバー構成でいうと、当時の初芝通信の無線事業部・周辺機器事業部・オートモビル事業部などを跨って組織されていたのだが、最近では事業部制からカンパニー制に移り変わったり事業分野の再編成などが行なわれている。そんな中で部外者となった私などにも声をかけていただいたのは有り難い事でもある。もともと発起人たちの同期メンバーとしての人の繋がりがあり、事業部を越えたグループ活動というものが実現出来ていたようだし、既存の活動として存在していたグループへの疑問などに対しての行動として新たなハイキング活動のグループとして出来たのが当時の背景だったようだ。そういった意味ではベンチャー的な要素を持ち合わせていた活気のある組織だったのだろう。私が新入部員として参加したのも25年以上も昔であり、同様な意識の世代で構成されてきたことが当時の活発な理由だったろう。

そんな活発な活動をしてきたハイキング同好会も、少しずつ仲間同士で結婚したり、転勤などが起こり世代が固まっているがゆえの若返りといったことに繋がらないままに活動を閉じることになった。気が付けば、最後の山行はなんだったか誰も漠として覚えていないという印象だった。組織として最後にリーダーを命ぜられていた時期があったことから当時のハイキング計画やら資料などをファイルした原本を預かったままに転職してしまったこともあり、後ろめたさも手伝い引っ越す度に思い返してはいたので、今回の同想会の参集要請は渡りに船というものであった。当時のクラブにいた中でカップルはいくつも生まれて我が家もそうした中の最後のカップルなのだが、今では事業経営のリーダーたる方もそうしたクラブのカップルである。今回は、ご夫婦で参加されて雰囲気を盛り上げていた。関東という土地柄なのかどうかは判らないのだが、会社の通勤範囲として90分程度はあるという中で実は通勤距離の広さを感じたのは当時のクラブの集まりを湘南地区で週末に行なうことになったのだが、当時は千葉県から通勤していた自分は切符購入すると窓口でしか買えないような距離だった。

週末にそうした距離を越えて会社の仲間が集い、コミュニケーションをとるような活動をしていた時代だった。そうした時代を過去に追いやったのはコアタイムをベースとするフレックス勤務だったろうし、開発プロセスがハードからソフトに変遷する流れがそれを押し流してしまったようだ。先輩達との付き合いを時間外にするなどということは「ありえない」ことに分類される時代になり、意識を共有したりする流れを事業部を超えて社風として堅持するようなことすら出来なくなってしまったようだ。冬のシーズンには、週末に各事業部の誰かが発起人となってスキーバスを仕立てたりする風景も最近では、グループ活動から個人同士の活動に変遷してしまっているようだ。昭和の時代から平成に移ったのだといえば、簡単だが同一世代だけでの付き合いしかないことが組織としての厚みをなくしてしまっているような気がするのは私だけだろうか。そんな山のクラブの中にご夫婦で山に来られる先輩のOさんが居る。

Oさんは、事業部は異なるものの、当時から開発を先導していく立場としてCADなどの技術に傾注されていた。私は、といえばソフトウェア開発という括りでコンピュータを日常的に利用するということから、インフラとしてのネットワーク整備などの社内委員会などでお会いしたりすることなどがクラブ以外の接点であり、転職前に技術管理に転籍したころは、より身近な分野としてお話しする機会も増えていた。技術管理という仕事を拡大解釈する中で当時の私が描いていた、エンジニアのコミュニティ創設という考えをミニコミ誌という実証実践をしている中でも、配布していたように覚えている。あいにくと全社活動というところでの文化醸成に至る前に、休刊のやむなきに至った中でネットワークなどを利用したいと思っていた矢先に転職を契機にメールと会員制掲示板というこのOneWayBlogのような仕組みの中でようやく有る意味でやりたいことに到達したのは皮肉な物でもある。Oさんは、私から送付する独り言メーリングリストをよくアクセスしてくれていて、こちらでもOさんにアクセスいただいたことをログから確認できると嬉しいものであった。

Oさんは、今回会社から示されたライフプランに応募されることになったと話してくれた。プリント板CADという分野で最先端の仕事を追及されてきたOさんにとっては、取り組んできた技術を集大成として技術書を発行したいという思いがあるそうだ。これについては強く共感するもので、Oさんの行なわれてきた組織での雰囲気をそうしたOさんの発言から羨ましく感じることが出来ました。Oさん自身も意識共有するための仕組みについていろいろな取り組みもされてきたようですが、会社のリストラクチャリングの中で会社としての強みをなくすようなコミュニケーション活動についての会社側の無理解があるのは、今でも変わらないようです。社外の2チャンネルに内情告発もどきで懊悩を書き込んでいる方もいらっしゃるのですが、社内でそうした活動をするインフラすら持つことが出来ないのは、プロバイダをしている会社とも思えない紺屋の白袴といった感じです。Oさんが寧ろ技術書を書き起こすことで、より広く貢献することになるだろうということは素晴らしいことと思う反面、社内で横展開出来ることが出来ないことに対する悩みを感じ取ったりもします。

ライフプラン活動という形で会社が資金を用意してくれるという姿を提示されるなかで、積極的に活用することでOさんのような形で、会社も含めて貢献していきたいという動きが出てくるのは良いことでもあるでしょう。会社を自己都合で退職してしまうことでは、退職金の額までも半額になったりする取り決めだったりするのが現実でする。そんな中で会社から提示された満額回答あるいは+アルファという内容に応えていく活動を自らにしていくということもコミュニケーションを重んじる意気を感じます。後進に道を譲りつつ、さらに外部から支援を差し伸べていくという考え方は、より前向きな技術者人生として、尊敬していく人物の一人でもあります。自分自身のライフプランを先ず自分として納得のいく形で考えて、家族を説得していくということを進めていくことからより良い結果が、自身の納得のいく生活に根ざして家族の協力があり幸せに繋がっていくものだと思います。私自身がOさんと同様な活動を取った結果は、必ずしも元の会社に対してよい薬になったとも思われないのですが、まだまだインキュベータの心をもって技術提供と共に良い成果が得られるまで対峙していきたいと考えています。

業界独り言 VOL292 世代交代の始まり

私の後任としてプロセス改善の仕事を担当されてきた後輩Aさんが、更に後任に引き継ぎ卒業されることになったとメールが届いた。OBとして余り表からは評価されない地道なプロセス改善をしているグループに対しては、転職以来地道な支援活動を続けてきたのであった。支援活動といっても独り言としての声援だったり、プロセス改善活動の過程のきっかけとなる憩いの場を提供するための素材の送付だったりしたのだが・・・。素材は、コーヒーなどと相俟って効果を見せてきたということが後輩Aさんからは報告されてきた。ある意味でエンジニアグループとしてのモチベーションの維持改善をしていく上でも、そういった部分が必要なことなのだろうということは、私自身が担当してきた17ヶ月足らずの間にも感じてきたことでもあった。だからこそOBとなった段階で支援活動に駆り立てられてしまうのだった。後輩Aさんから時々呉れる素材送付に対しての到着確認のメールなどで見聞きする中でも悩み深い様子が見て取れたのであり、支援活動を続けてきたことに繋がっている。優秀なエンジニアが居場所がなくなってしまうような状況なのかと思う反面、個人個人の家庭生活も含めて人生設計の中での展開なのだとも思う。後輩Aさんの新しい人生展開に向けての声援をさらに贈ろうと思っている。

後輩Aさんの学校の後輩にあたる、やはり優秀な組み込みソフトウェアエンジニアだった後輩Bさんがいる。実際の開発現場の中で先端製品の開発を具現化する中で壁に当たり学究生活とは異なる中での組み込みソフトウェアの開発エンジニアを生活に早くに見切りをつけて、中学校の教師生活に転進している。優秀なエンジニアであり残念ではあったものの華麗なるフィニッシュを決めての転職顛末は誰の眼にも鮮烈だった。世の中には優秀な人間は居るもので、プログラム開発などをしてもたいした問題も出さずに難しい課題を解決してしまう人がいるようなのだが、そんな人材だった。そうした優秀な人材を手放してしまうことになる会社の仕組みはいったいどんなものなのだろうか。人事的な考課からいえば、上司である私の指導能力に課題があると片付けてしまうだけなのだろうか。教師生活に移った後輩Bさんも既に十年の教師生活となったそうで、エンジニア生活などは遠い過去のことらしい。既に後輩Bさんが教えた中学生がエンジニアとして就職したりする時代になっているということも考えると味わい深いのである。素敵な先生にきっと優秀な教育を受けた子供らが素直に育って輝く世代のエンジニアになって欲しいと思う。

世代交代は、なにも個人の動きに限ったことではないOEMメーカーとしての開発チームの動きなども世代交代が起こっている。メーカーとしての開発に対する進め方、考え方といった文化までも変容していくには五年もあれば充分なようだ。文化継承がスムーズに行なわれているケースもあれば、衰退といった形になっているケースも眼にする。フィードバックが良いサイクルとして経験していった場合や、経験に縛られて新しいものについていけないといった違いが段々組織を変容させていくようだ。アウトソーシングを徹底しているということは最近の流行なのかも知れないが、アウトソースしたリソースに対しての文化継承という点については難しいのではないかと感じている。多くの機種開発を異なった開発リソース投入という形で成し遂げてきた場合に世代交代がスムーズに行かないというように見受けられる。アウトソースした人材達を社員のように手厚く管理指導したりしても、アウトソースした人材同士のコミュニケーションを支えるに必要なプロパーなリソースが無ければ正しい技術蓄積や文化形成に繋がらないようだ。

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業界独り言 VOL291 技術革新は、何を目指すのか

五年勤続の記念ギフトの案内がメールで届き、記載されていたイントラネットのリンクを通じて記念品を選択するようにというメールが届いていたのは昨年の11月頃だった。実際に勤続年数が達したのは九月のことだったのだが、外資の会社での中途入社のメンバーばかりで構成されていると日本の会社のような創業記念日に祝いを受けたりするという構図にはならないのである。年末には選択した立派な木製ダーツボードがアメリカから届いていた。中国製とかかれていた立派な品物だったが、貿易は米国に輸入されてから、日本に発送されてきたようだ経済を回しているということには繋がり活性化の一助にはなっているのだろう。年が明けて、米国本社から五年勤続の表彰状が贈られてきた。日本ではたかが五年でと思うような期間であると思うのだが、転職などのオファー条件で提示されるストックオプションが全額処分出来る時期とも重なりある意味で大きなターニングポイントであるわしい。今までの数限りなく届いてきたメールの中には、五年の年季があけて次のステップに踏み出していった仲間もいたし、そうした話を寂しそうにしていた仲間もいた。

Quad社のような技術追求型の会社の中で仕事を続けていると、どんどん新しい技術が入ってくるし、またそれに呼応して組織も変遷していく。大切なことはビジネスを続けていくためにどのようにしていくことが必要なのかどうかということを徹底していると思う。1Xで立ち上がった会社ではあるものの、主要なリソースを3Gに向けて大きく広げていく舵取りをしている。アプリ拡大という要請の中でアプリプロセッサとしてのアーキテクチャ開発研究も実際のビジネスの渦中に実践して提言をしてはみたもののOEMの触れてはいけない領域に立ち入ったと映ったらしく、立ち上がらない技術となった。ビジネス範疇の中で在るべき姿を追究していくことから出てきた路はワンチップとしての追究ということでもあった。ワンチップとして出来上がるのがベストであり、その延長上に別の意味でのアプリプロセッサなどが必要になっていくという図式を描きなおして基礎追究成果をワンチップ環境の上に書き直していった。

異能の技術の系譜としてアプリケーションオリエンテッドの事業部で進めてきたアプリケーション構築の為の協調型バイナリー実行環境の技術と第三世代としての無線システム構築技術追求の姿が融合しあう時代がやってきたようだ。通信キャリアの違いなどを抜きにして共通の技術と思えるUI開発というジャンルの技術追求というワークは、仕様書の書き方から含めてのUML記述で機能モデルを書き表したいという要望などが一つの方向なのかもしれない。そうして生成された仕様からコードを生成すればツールチェーンは完成だといったのりが聞こえてきそうです。10年前に取り組んでいた当時の先進通信端末開発というキーワードでも、今考えると稚拙ながら挑戦はしていたように思い返す。機能仕様を実際に動作させようとMacintoshのHypercardで書き起こしてリアクションなどがビジュアルに見えるようにというようなことをしてみた。当時開発していたスクリプト言語は、エージェントとして動作するように設計されていて常駐型アプリと飛来型アプリというような構想の下にしていたことを思い起こさせた。

残念ながら神戸の震災やらと遭遇したりしつつ、この開発自体はフリーズドライ状態になってしまったものの携わってきたエンジニアの間では、期待値がそのままに記憶の片隅に残っているようだ。最新の携帯端末開発最新事情という見方をすると、当時はスクリプトを開発しつつもソフトウェア開発環境としての仕上げのワークや、実装の観点からのウィジェット部品などの追及やらと最近の仕事と符号する部分も多いように思い返す。当時の皆さんのご賢察を有りがたく思い返しています。私の中に残ったイナーシャでプロジェクト凍結後に出来たことは組み込みJavaでの機能仕様から実装までのツール連携ということでしたが、それも志なかばで止まってしまったように思えます。中々時間も掛かりつつ、実際の開発に展開できない場合にはこうした技術が表に出にくいというメーカーとしての事情が出てしまうからでしょう。それ以上にリーダーとしての私の資質が不足して周囲の説得などに当たることが出来なかったからということが、大きな理由だったのでしょう。

周囲の状況と乖離してしまうような中に現場を置いてしまい、周りとの理解がずれてしまうことでは決して仕事はうまく行かないものなのでしょう。最新技術の追求と共に伝道者のような語り部をおき、啓蒙活動を続けていく大きな意味でのチーム活動が必要なのだとも思います。大きな懐のリーダーの配下で蓄積されてきた開発資産という見方をすると、確かに開発者の意識や資質も充分に育っていったのではないかという確信がもてるチームも居ました。そうしたチームを目指してはいたものの、自身がリーダーたる資質に欠けていたのだなあと思わざるを得ません。技術革新の追求の目的を明確に訴えてロードマップと共に追求してきた成果は、最近のビジネスではベンチャーの自立から売却までという流れが一つのアクティビティともいえます。ベンチャーとして独り立ちを目指すような尖がったテーマを追求して、会社の売却に繋がったという流れは、まさにそうした切磋琢磨の結果だといえるのでしょう。こうしたリスクを日本の社内開発で中々取れないのは会社としての開発投資というものの考え方が変わってきたからでしょうか。

ベンチャー的な仕事、いわゆる楽しくなるような、熱くなるような気持ちが持てる仕事というのは、リーダー次第で進められるものだと思うのですが会社の屋台骨を支える端末開発事業の中での責任範囲をこなすので一杯になってしまうということも多いのでしょうか。開発環境などの追求をある意味で長年手がけてきた結果として、今ではQuad社としてのパッケージあるいはソリューション展開のお手伝いをしている訳ですが、内容としてはまだまだユーザーニーズに応えられていないかなという思いもあります。また最近では開発の効率向上という目的で新たな開発環境あるいはプラットホームへの移行が叫ばれて知己の多くがそうしたプロジェクトで忙殺されているようです。効率向上という目的と以前と同様な事までを達成するのが大変という事情は何かおかしな気がするのですが、誰かに聞いてみたい気がします。携帯電話を開発するために作られたOSの筈なのに、「今までの機能実現をするために必要な部品が不足して100億円以上の開発費を投入して整備が出来ました」という会社もあったようですし、ではそれ以降は順調に開発が拡張していけるということなのでしょうか。

CPUの処理性能が向上してきたのは事実で低消費電力と高速化の達成とが出来るように半導体の製法が進化しています。しかし、そうした性能向上をどのように生かすのかという視点での技術追求が果たして為されているのでしょうか。開発効率あるいは端末付加価値といった視点で、実際のプロジェクトが推進されたり中止されたりします。そうした中で何が鍵かと言えば、皆さんはソフトウェアの開発が鍵だと仰っています。確かに3Gプロトコルの開発は大変だったのでしょう、でも実際にQuad社も含めてそうしたワークは完成度があがり次のステージに移ろうしています。3GPPでスタンダードの改版があり将来を見据えてまだまだ仕事がありますという人もいるのでしょうが、果たしてモデムプロトコルが開発の難しさの中心にはいないはずです。懸命にそうしたワークを追求してきたQuad社のチップセットを利用した中国メーカーが半年ほどでニートな端末を作りえる時代になってしまうのですか。アプリケーションとしてのテレビ電話や国内キャリアの非標準的な仕様のネットワークでの接続性までも達成できた今、メーカーとしてやるべきテーマは違うはずだと思うのですが・・・。

かつて携帯端末で何をしたいのかという理由で、スクリプティングやエージェントで熱く楽しんでいる研究者達が居ました、そうした開発成果を生かしてビジネスとして活用できるような端末やインフラを構成したいという思いを持ちました。未だに、まだそうしたところまでは達成出来てるとはいえないようですが、勝手アプリの世界で少し似たようなことは出来るようになってきたかも知れません。今、端末開発の現場で起きていることを考えると1000台程度の企画台数の専用の携帯電話を起こすことなどはQuad社のバイナリー環境やキャリアの標準化構想の中でもミート出来る技術とはいえないようです。今年、各通信キャリアが目指しているのはそうした端末競争の次の段階としてもっとカスタマイズが可能なUIを実現するための技術だといいます。フラッシュのUIなどがフォーカスされてはいるようですが、果たしてメールやブラウザの開発などにもミートするのでしょうか。きめ細かなUI開発をサポートするWYSIWIGでDrag and DropなVisualStudioのような道具も登場してきましたが、果たして開発効率の向上という観点でそうした技術で達成できるのでしょうか。

面白い事例となるような事件がありました、国内の通信キャリアに新しいUI技術の説明にいったのですが、ある意味でCPUの高速化という流れも含めてその技術の目指していることが今までのUIソフトウェアの開発スタイルからいうと革新的であるという評価が為されたようです。残念ながらそうした技術が動作する環境がQuad社固有のバイナリー実行環境であるということから、彼らの顔色が無くなりました。今まで共通化として進めてきたプラットホーム路線とミートしないと考えたのでしょう。彼らから出てきた質問は、ライバルの技術を教えてくださいという内容でした。私たちは彼らが想定していたであろうものと同様なものを説明して、リアクションとしてはある意味でしょげてしまったようでした。大きな誤解があるようなので、Quad社のバイナリー環境自体がチップセット依存あるいはプラットホーム依存をしていないことをロードマップも含めて少し話をすると嬉々として顔色満面になられてミーティングの後は、エレベータホールまで挨拶に来られてしまう状況となりました。まだまだ技術としての展開にはビジネスモデルも含めて課題はあるものの、現在の携帯電話の開発での課題を解決することについて大きな手ごたえを感じることが出来ました。

技術革新が目指す過程で最後に、その技術の結果が実はUIの仕様追及などをしている国内トップの通信キャリアの方達の仕事も失いかねないようなことに繋がってしまう可能性もあります。この技術追求の結果は、人柱となっているような開発の蟻地獄に朗報をもたらすものかもしれませんし、意義の無い仕事を失ってしまうことにも繋がるでしょう。実際には今まで対応が出来ていないような端末開発にも対応が出来るようになり開発効率も上がり八方まるく収まるかもしれません。しかし、技術革新の歴史を紐解いていくと必ず技術革新による結果として度々繰り返されてきたシーンがあります。こうした動きのなかで、自分達の進めている内容がより高次な形で活躍できるのは確かなので、また新たな再生が始まるのだろうと思っています。こうした新しい技術革新はUIのみならずに今年色々な部分で出てくるものだと思いますし、Quad社自身そうした流れの変化を嗅ぎ取りシフトして対応して、また脱皮変容していこうとしています。楽しみな一年になりそうです。

業界独り言 VOL290 プラットホームの行く末には

昨年の冒頭に内心考えていた、年内の独り言の300号達成という目論見は達成できなかった。残念だが、確かに最近低下してきた最近のアクティビティは寄る年波のせいだとは考えたくは無いのだが・・・。Quad社の私がある意味で精神的に疲れたりしているようでは、本当に大変な仕事に邁進されている知己たちからの毒殺でもありそうな状況である。まあ冗談は抜きにしても、最近ようやく噂の端末開発を終えようとしている仲間たちを囲んだ新年会でも企画してはいかがでしょうと労わるメールが届いたので、早速賛同者を募る旨のスレッドを掲示板に立てたのだが、果たして何人集まることやら。

プラットホームという言葉が最近の3Gを取り巻く環境では、通信キャリアも端末メーカーもチップセットベンダーも皆が口を揃えているのだが、興味深いことが最近起こった。Quad社においてチップセット評価用の端末を製造していることは、ご紹介したかも知れないのだが最近のプラットホーム展開の中で特に指名されているわけでもない。一つの実装例として、ここまでの機能がありますと紹介するあるいは機能確認をフィールドで行うための端末ですということで通信キャリア向けに提供しているレンガとも呼ばれるような無骨な大きさの端末であった。実際にメーカーが物づくりをしていくうえで、ある意味で実装サイズからも参考になるようなものでは決して無かったのだ。

いま、とあるメーカーが中国のデザインハウスで設計した端末は、リファレンスデザインを踏襲しつつも、そのコンパクトな形状ゆえか、そぎ落とした機能美というべきなのか3Gのテレビ電話としての機能を搭載した上で基本を抑えた挑戦をある意味で行なった成果でもある。この端末が、通信キャリアなどで評判が良いのである。実際にみてみるとQVGAサイズと映る液晶のサイズも実際の解像度はQCIFでありQuad社のリファレンス端末同様なのである。しかし現物として出来上がりでいえば満足のいく仕上がりである。無論、大味な仕上がりだという声もあるだろうが、完璧に仕上げることにとられていて品質過剰として、実際の商機を逸するような正気の沙汰とは思えないような状況よりは遥かによいと思うのだが。

ざらついた仕上がりという感触について、おそらく国内のメーカーでは耐えられないということなのかも知れない。機能は前よりも高く、完成度は高く、納期は限られた範囲で仕上げて欲しい・・・。そんな状況の中で、慣れてきたプラットホームからの切り替えを迫られて物づくりを進めていくことになり、以前以上の結果を求められているのは無理難題ということかも知れない。携帯電話の開発効率を高めるべく進められるはずのプラットホーム切り替えでありながら、足枷のごとく捉えられているということではないにしても、協業という形で分業してでも仕上げていくということになるのだろうか。エンドユーザーからは見えない、開発方法論の差異などは、ある意味で機能追及が停滞しているというふうに映りもするだろう。

ある通信キャリアがLinuxを採用すれば、自社も追従すべきかと考える通信キャリアも居るだろうし、「オープンソースが望ましい」というフレーズだけを取り上げて開発方法論の切り替えを求めてくるような短絡的な意見まで出てくる次第である。国内の通信キャリアからWindowsでやって欲しいと言われないのはVirusなどで懲りた経緯なのかどうかは不明であるが、モデムもクローズでアプリもクローズでは開発に収拾が付かなくなるということなのだろうか。携帯電話と事情は違うものの、政府のオープンソース路線に引きずられて単なるWindowsのライセンス料金などの問題のみにフォーカスして、あたかも安いシステムが構築できるということでシステム構築しようとしてきた流れの中で現実のアプリ開発が停滞している事実もあるようだ。

結局のところ、windowsベースで構築してきたアプリをJAVAやLinuxで置き換えていくことの本質としてアプリ開発が利用してきたWindowsAPIの代替案がないことのようだ。オープンソースで成功してきたという事例があるとすれば、自らがクリエイティブにアプリすらも開発していくというスタンスの仕事かもしれず、最近のCGベースの映画製作などがそうした事例になるのかもしれない。となりの芝生ばかり見ていても仕方がないのだが、携帯電話で最近起きているプラットホーム切り替えの選択をしたメーカー同士が結託いや協業するというのも、従来のプラットホームで構築してきたライブラリ整備をするために要した開発コストの共有いや分担が目的なのかも知れない。協業しているという会社にしてみても、多様な可能性の追求をしているのも実情のようだが、ふっきれた開発を出来るのかどうかはリーダーの資質と自由裁量を許す社風なのかどうかによるものかも知れない。

開発がある程度見えてくると、社内の競争相手との弁論合戦に移るらしく自分の論陣を張るための資料要求などが出てくるのも致し方なたところだろうか。欧州向けということで他社チップセットを選択してみたところで、かならずしもスムーズに開発が出来るのかどうか別問題らしい。ある意味でWCDMAのOEMメーカーから嫌われ者の烙印を押されている観のあるQuad社のワンチップソリューションを選択して評価するメーカーなどの場合には、ローエンド向けとしての位置づけで評価するということでしか、始められないというのが実情なのだろう。結果としてミドルクラスの端末機能が出来てしまったりすると、その会社の中での暗雲が立ち込めたりするのは日本メーカーならではの政治的な風土などがあるからなのだろうか。両天秤に掛けるという裁量があるのならば想定されたケースの一つだと思うのだが・・・。

正月明けとはいえ、新年度に向けて各メーカーや通信キャリアが新たな展開に向けて色々な要望が出てきているのは、勢いのあることでよいことだろう。ようやく世の中にはLinuxやSymbianの端末がメジャーリリースを始めていて、これから続く世の中のベースとなるのかどうか興味深いところでもある。知己の会社のSymbian端末が欧州モデルとしてリリースされたという記事があり、昔携わっていた同僚に確認すると永い開発期間を経ての成果だといい、自助努力で販売するしかないのだという。開発期間の短縮の先鋒として登場してきた携帯電話専用のOSを利用しても時間が掛かってしまう現実には、なにかビジネスモデルがどこかで間違っているのではないかと思ってしまう。チップメーカーが、そうしたOSの組み込みまでをサポートしたとしても実際の物づくりの過程で必要となることには移植組み込みだけでは済まされない事情があるようだ。

かつては、プラットホームの移植や評価を星の数ほどしているのではないかと知己には冗談をいっていたのだが、実際にそうした全方位外交をしていたようなOEMメーカーも、少しずつ実際の端末を着地リリースさせつつということが求められていて膨らんだ仕様の実装解決に苦労を続けている。現在のモノリシックな構成ではなく、OS9やQNXのような動的な真のモジュール化を達成できる構造などを目指していくというのが流れの一つだろうし、これまでのソフトウェアアーキテクチャーとのシームレスな移行を提案できるような仕組みが無ければ、知己たちの期待するプラットホームとはなりえないのだろう。国内トップのキャリアもマイクロカーネル仕様であることを要求仕様に打ち出す状況なども含めてプラットホームベンダーにとってはチャンスあるいは転機の年となるのだろう。多くのユーザーや実装アプリを抱えている現在からの移行や、より魅力的なアプリ開発に向けての新技術提供が期待される新年となりそうだ。

新年早々に、中国のお客様のサポートに訪れてみたものの、半日のミーティングの後は、何故か西欧人ばかりが客となっているタイ料理レストランでお客様と夕食をとることのみになった。帰国のフライトが早かったので、折角ホテルで用意されたフルコースのアメリカンブレックファストも食べることが出来ずに空港のラウンジでカップヌードルを啜るという残念な経過となった。駅前の立ち食いそばやで食事をとっているような状況を解決して、もう少しゆったりと、しかし確実にテンポよく開発を進めていくための支援をしていけるように今年はしていきたいと思うのである。四回も北京を訪ねてサポートをしているのに、いまだ、天安門広場も故宮も見たことがないのである。UMTSのみならずCDMA2000もサポート対象としてプラットホーム依存部分の仕事を中核にすえるという自身の体制変更もあり、今年は相当に変化のある年になりそうである。知己たちとの新年オフ会なども楽しみにしつつ頑張っていきたいと思う。