業界独り言 VOL375 神無月に向けて

出雲大社への旅行を兼ねて、出かけるつもりだった。米子高専の先生を訪ねて学生相手に講演をするためだったのだが、副次的に付けていた出雲大社への旅行は直前の情報調査でキャンセルとなった。現在は式年遷宮に入っていて出雲大社のお社を見ることが出来ないからである。四年かけて行われるということなので、出雲大社への参拝は四年越しということになりそうである。先の楽しみが増えたということが正しいだろう。米子高専と言えばロボコンが有名であるが、最近はプロコンでも名をあげている。

組込ソフトの世界で仕事を始めてからの経験や高専での学生生活から就職にでる過程での想いなどをまとめてプレゼンテーションにつづった。エンジニアとして仕事を始めるまでのとっかかりと、エンジニアとして遭遇するだろう経験などについてをまとめて述べた。エンジニアとしての拠り所をしっかりと持つべきだということも併せて説明したのだが、まだ時期尚早で理解できないかもしれなかった。いずれにしても、彼らにとって竹の棒に見えるような計算尺の世界から現代までに至る程度のギャップを説明した。そして、それは彼ら自身がこれから遭遇して学んでいくことに相当するのも事実だった。

自らが真剣に、それこそ死ぬ思いで取り組むことはエンジニア生活でかならず一度はあることだろうし、そうした地獄をみるような中から得られた極限状態での頭脳の回転が新しい世界を切り開いていくのも事実だった。そうした経験をつまずにエンジニアから管理職に移っていくようなことでは、将来の絵も描けない状況に陥ってしまうということが私の懸念でもあった。今回の講演の対象者は、五年生の全学科ということであり、すっかりゆとり教育を小中学校で経験してきてしまった世代である。それでも好奇心をもち高専を志望して、五年生まで進んできた彼らには伝えたい、伝わってほしいことだった。

講演では80分あまりを熱く語り、残された時間を質問の時間に充てたのだが、質問された内容はエンジニアとしての地獄を見た中近東向け自動車電話の経験のなかで「実際の設計担当者達に去られてしまい呆然としている状況で何を考えていましたか」だった。私自身が思い描いていたのは、全社プロジェクトで肝いりで取り組んできた自動車電話システム一式開発への挑戦。そして当時世界中から嘲笑にさらされてきたそのプロジェクトの志向する新アーキテクチャを稼働させることで見返そうとやっきになってきた。その努力の積み重ねを移動局開発の管理不行き届きで危機に晒してしまったことへの責任感でもあった。そうした極限下でアイデアを絞りだし自らのクロックアップを果たすことが出来たのは神のみ業だったかも知れない・・・と。機械語への関心をもっていただいようだった。

こうした経験で心に織り込まれたエンジニアとしての心のよりどころは、その後のエンジニア人生に大きく影響を与えたし、世界に類を見ない大規模システム開発の一部を担わせていただいたことが心の糧になったといえる。その後の無謀ともいえる、Z80でNECのコンピュータシステムをリプレースするような挑戦すらも完遂させたのである。ベンチャーライフをある意味で謳歌してきたエンジニア人生だったが、その会社の組織としての老化などから自分自身の居場所としての疑問を呈するような状況になり、転職することになりもした。その後の転職生活での思いのたけやら仕事への夢なども語りはしたものの時間も限られていたし消化不良になったのではないかと考えている。

発表が終わったあと壇上に質問にきた、若いエンジニアは「どんな資格をもっているのですか」と質問を寄せてくれた。私のエンジニア人生の中で資格を取るような状況ではなかったのだが・・・「資格を示すことで理解を得られる会社もあるでしょうね、でも私たちは簡単な質問でその人の理解度を確認するようにしています。」と文字列転送の関数のコードを示して「たとえばC言語のこの関数の間違っている点を教えてもらうというのが例です。」アルゴリズムをC言語表現から理解できた問題の認識と対処について期待しているのだが、疑問符を隠せない雰囲気の学生には「チャレンジして理解して超えてください」とエールを贈った

業界独り言 VOL374 ETロボコンという教育スタイル

工学院大学で行われていたETロボコンの東京地区大会会場を訪れた。組み込みソフトウェア開発のスキルを競う、モデル設計のレビューと実践性能での検証をかねた形の実践でもある。参加者の対象は、組み込みソフトウェアの会社あるいは、エンタープライズ系からの移行組、またはオブジェクト指向を学ぶ学生あるいは一般・・・。LEGOのMINDSTORMで出来たNXT走行体という共通仕様のロボット群を駆使して、ソフトのみを純然と書き込みトライアルコースを正しくトラックして、あるいはその中のトリッキーなポイントを技を駆使して走らせるということになる。

ちなみに、今年から適用されている新しい走行体は、NXTというもので二輪自立走行するタイプのAppleのあれに近い。さぞや制御が難しいかと思うと、必要な制御機能はドライバーとしてライブラリ提供されているようで、いわゆる技を駆使する点というとライントレースと動輪制御とセンサーからの情報認識ということになる。実態としてコース上に設置されたさまざまな課題に対してどういった戦略で臨むのかということがソフトウェアのモデルとして求められる。その意味では、組み込み制御という観点でのドライバーを開発するといった点が薄まるようにも思えるが一般にドライバー開発に重点を置かれるよりもUIとしての機能期待値に向けた実装で解決しようということなのかも知れない。

実際に高校生のグループやら、専門としてOOPなツールを開発提供しているソフトハウスなどの参加者までがいた。プロがツールでコード生成までも駆使しての実装デモをするようなチームもいれば、一生懸命UMLを勉強してソフト開発を学んでいる学生までさまざまでコースを取り巻く観客席の外側には、各チームが開発したモデルのソフトウェアの工夫がUMLベースで展示されていた。MINDSTORMの実態としては、ARMが載っているようなのだが、実装可能なコードはCまたはC++らしい。昨年までの走行体のモデルではJavaもあったようなのだが、二輪自立制御の処理が追いつかないからか、Javaの適用はないそうだ。

 

仕事の合間をみて、仕事では取り組めない新しい技術に挑戦してもらいたいという業界の流れと、実情としては、そうした技術を定常的には使っていないというギャップがこうした活動をある意味教育として提供しているのだと思う。ただし、完全走行もままならないような状況が続くこうしたコンテスト?コンクール?といった状況は課題が難しすぎるのか、モデルベースでの設計をさせることで問題となっているのかは別にしてもお粗末ではないのか。確かに良い設計 で、スマートに制御されていくものを見て学ぶということが期待値であり、設計を志す者たち同士でのワークショップや懇親会に力点があるということかも知れない。

二兆円市場を支える、エンジニアたちの祭典の出し物としては、今後の日本を支えるスーパースターが登場するという期待値でもなく平均点をあげる底上 げが目的なのだろう。ドライバーレベルにも別次元で取り組み協会提供のライブラリを使わずとも高性能を達成する。そんなチューニング提供するようなクラス の登場も待たれるような気がするのは期待しすぎなのか。ある意味無差別級なコンテスト?ではあるものの提示している環境で制限をしてしまっているのは残念 な気がする。無論、共通のハードを簡易に提供するというくだりで考えていくと管理運営も難しくなってしまうのはやむなしか。

まともな設計をさらりとこなし、ロボットがスムースな身のこなしで技をクリアしていくということでソフトハウスの技量も評価されるという意味では、 よい広告塔になるのかも知れない。先日若手学生にアセンブラベースでのシステム開発の感激を味わってもらいたいと送った寄付金も、MindSTORMの ETロボコンに向けた追加の寄付を考えても良いのかも知れない。

業界独り言 VOL373 組み込み技術(ET)の深みに嵌って

1999 年7の月から始まったローリングストーンのような展開に転がり続けて10年の節目となった。いったいいつからこの仕事をしてきたのかと思い返す。すると体 験してきた様々なエンベッデッドな仕事が実は関連してきたのかと思うような感覚に襲われたりもする。見知った見知らぬ世界に飛び込んで実は孫悟空が飛び 立った釈迦の掌の中での10年だったのかも知れない。ここまできたぞとマークをしてみても、デジャブのような無力感にさいなまれたりもする。仕組みを理解 しようとしない世代の人たちが最前線で仕事をしている日本の組み込み業界の怖さを見るにつけ、進化したのか劣化したのかと悩んでしまう。

理想を追い求めようとしてもビジネスとしての昇華を果たしつつという流れが、邪魔はしないまでも足かせになったりはする。湖上に敷き詰められたとい うよりは浮かべた茣蓙の回廊を走って渡り切るといった達人の映像をみた。常人では5メートルも進めずに湖水に消えてしまうのだが、50メートルあまりの水 上の回廊を走り切り、船にタッチをして、岸辺まで帰ってくるという。この技に到達するには、20年の鍛練が必要だったという。ソフトウェアの世界において は、どんな鍛練でいったいどんな能力が身につくというのだろうか。突然いろいろな現象からの推定の結果がシナプスとしてつながりゴールに到達するといった 感覚もそうしたものの一つかもしれない。

インド人やフランス人など様々な人種の仲間たちと一つの仕事を通してお客様に開発支援というビジネスを展開していくと、コミュニケーションの障害と なるの互いの文化、慣習といったものだったりもする。相手が違う感性の人種であることを理解した上での共同作業をしていくということが必要だと達観するに は数年を要したと思い返す。ベンチャー創業して25年を迎える会社と比較したりもしつつ何をしていたのかを回顧する時間は最近の重要な時間でもある。週末 には、ETロボコンの東京地区大会の観戦にいくことになった。ET技術の中での取り組みということでこじつけてみても楽しみである。

ET8200という機種名で開発してきたのはザイログのZ80ベースのマイコンボードシ リーズであり、16ビットな空間をアセンブラベースで開発していた。ライバル機種はなにかといえば、ACOS450シリーズというNECのコンピュータシ ステムであり嵐の中を突き進むなんとかドンキホーテとサンチョパンサのような無謀な戦いだったのかといえばお客様に必要な機能は提供しつつ競争には打ち 勝ったというシステム開発だった。アセンブラベースでネットワークでブートをして共有DBを照会する日本語表示のシステムを開発したのは、無線機のビジネ スを勝ち取り、お客様の問題解決に必要なシステム構築するというテーマでもあった。

イベント駆動でトランザクションが交換可能な複数ユニットが通信できるバス接続のシステムを作ったのは、実は100人余りの設計人員を投入して御三 家の電子交換機開発に対抗した分散処理型の電子交換システムの開発を横目に見ていたからかも知れない。既成のHPIBのデバイスを用いてZ80とDMAの 組み合わせで開発した分散処理システムは確かにACOS450で構築したRDBのシステムを凌ぐ性能を叩き出してはいた。違いがあるとすれば、ITの方々 が独自に開発しうるようなシステムではなく作りつけ機能に固執したことがあるだろう。お客様のジャーナル処理が実際には最も性能が出ない構成になったの は、当初のシステム性能比較あるいは設計時点で想定していなかった機能だったからでもある。

当時は、Z80でアセンブラで開発していれば出来ないものは、無い・・・ぐらいにとらえていたかも知れない。一年ほどの開発期間で照会系アプリの開 発や、システムを構成するRTOS、ドライバーの開発などを行いGDCを駆使して漢字表示をグラフィックスで実装したりしていたのは、少し国民機と言われ たNECのパソコンの少し前のことでもあった。デバイスはほとんど国産パソコンのような様相で作成した専用システムだった。そしてこれを仕上げてしまっ た、このベンチャー気風の漂うチームでの取り組みには確かに勢いがあった。TRONとは似つかない馬鹿なコーディングを許さないといったポリシーのデザイ ンには、設計したコード自体が他人を慮って最高の条件で動作するということを自然と実現するような流れだった。

ただし、プロの集団での作業とはいえアセンブラーベースでの開発や、Unixではない開発環境で大規模な開発をしていくのには構成管理面では、まだ まだ大変な時代だった。バッチで注意深くアセンブルジョブを消化していくという流れは、のちのUnixの登場でmakeにより解決されるのだが、これはま だアセンブラーベースの大文字の時代である。リアルタイムトレースを使いトランザクションの流れをモニターしつつシステム構成での展開テストを駆使してい くのだが光ファイバー接続で高速UART接続を76.8kbpsで実現してみても複数回線をポーリングしながらサービスするよりも結局4800bpsで同 時4ライン接続をするほうがシステムとしては高速な動作となった。

データベースというにはシンプルなハッシュ検索による直接編成のハードディスク構成にはテストデータを用いたプロトタイピングをすることも必要だっ たが実際に使ったのは自前のFM8でのベーシックコードだった。640*400のスクリーンのピクセルをHDDのレコードに見立てると当時のディスク容量 に匹敵するテスト環境が構築できたので、ハッシュ衝突がどの程度起こり、差し替えといった処理をする必要があるのかということを試行確認してピクセルの色 が変化していく様をモニターしたりしていた。システム開発の責任がすべて自分たちのチームにしかないという切羽詰まった環境でようやく目鼻がつきだしたの は結婚式の少し前だった。しばらく婚約者にもコンタクト出来ないような状況ではあったがエンジニアとしての暮らしはそんなものだろう。

披露宴会場への祝電には、「あなたのソフィアが待っています」と意味深な電報があったのだが、細君やその友達の誤解はあれども、デバッガベンダーの 名前に過ぎなかった。デバッガーと戦っていた・・・そんな時代だった。そのくらいアセンブラーベースの開発は大変なものではあったが開発環境の向上も手 伝って1年あまりで、コンピュータリブレースを実現するほどの規模を作りうるような時代になっていたのは確かだった。もっと実機ではなく開発マシンの上で 評価や開発がしたいという思いに至るには、失敗の経験が必須だった。

システムは完成して、実際の展開テストで中部地区のお客様に納品したのだが、稼働していたNECのコンピュータを撤去して戻れぬ決勝戦といった緊迫 した中で1週間ほどの稼働を見守った。このシステムが繋がる無線センター卓を通じて、宅急便の集荷指示が名古屋の空を電波で飛んだのである。当該車両に積 まれているプリンターにお客様の注文データが印刷されたのである。本来の私がしていたのは、端末側の開発だったのだがシステム開発に借りだされての仕事 を、好奇心いっぱいにやらせてもらった貴重な体験でもあった。

このシステム開発後に、上司として加わったのは米国での先進開発スタイルでのプロジェクトを経験して、志半ばで戻ってきた寡黙なエンジニアだった。 このシステム開発を稼働後の拡張などに没頭している私に声をかけたのは、Unixベースでの開発を経験してきた上司からの小文字世界の誘惑だった。商品開 発としては完了したので、先進工事を進めるような仕事屋としては、次の好奇心の対象に飢えてきていた。技術トップの想いも手伝い、VAX11が導入されて 4.1BSDが導入されるにいたり、端末開発をC言語でやらないかという悪魔の囁きと契約を結んでしまうことになるのは、エンジニアの性だったろう。

業界独り言 VOL372 組込み開発に夢見る若手を

かっ こいい仕事がしたい・・・、将来性のある仕事がしたい・・・などといった少し前の価値観から最近の就業率の低下などから意識変化はあるのだろうか。むろん 時期としてゆとり教育で育まれてしまった心優しき若者たちが、厳しい環境に放り投げこまれてしまった。これは一縷に世の中の社会常識にかけた、意識ない心 優しき罪深い大人たちの所業の結果でもある。心優しき人たちが暮らしていけるような環境に日本はないのであり、資源も土地もない状況で前向きに生きてきた 先人たちの成果に甘んじてしまったのが大きな過ちなのである。子供たちの教育に関しての責任はすべて大人にあるのだが、そうした大人たちの教育自体が戦後 の歪んだ中で偏向してきた結果だろう。

明日に控えた選挙で、国家当局がこうした状況から変わることは考えられないし、悪くなる以外のことは想像もつかない。政治家に任せていて解決すると いう考え方自体が破たんしているのが、今の日本の国情なのだとおもう。しかし政治主体の方々には、もっと国情を正しく理解していただき国民が進めようとし ている仕事を貶めるあるいは邪魔をするといったことにはなっていただきたくない。そうした意味においてのみ政治家を選択するということが必要なのだと改め て認識をしていただきたいものである。

不景気な状況を打破して未来に向けた投資をしたい・・・といった会社としての取り組みなどには、それぞれの現状認識に基づいた来るべき未来に向けて の絵が描けているのだと思う。それが間違っていたとすれば淘汰されていくだろうし、そうならないために皆さん色々な合議や検討を続けて進められているのが 社会経済活動自身である。政治が果たすべきは、そうした社会経済活動を潤滑して動かすようにしていくことなのだが、そうした結果としての国の富の結果とし ての税金や手当の話に終始している昨今の状況では若手が夢を描けようはずもない。心優しき、若手を覚醒させて変身していただかないことには我々の未来はな いということである。

学校の教育システムそのものも大きな政治政策としての結果であり、時代の中に合わせていくことが必要である。社会経済活動が必要とする職の担い手を 輩出していくことが求められているのだが、プランなき心優しき競争心を持たない子供たちを輩出していただいても彼らを必要とする現場がないのである。国と しての老成化の結果としてなのか少子化となり、進学率は結果として向上するも、塾活動も破たんして、意識ない子供たちの意識ない学部設定が必要なニーズと シーズのマッチングが図られないことが学校現場で起き、それが社会経済活動に帰還されて状況を悪化させている。

意識ない平和の民を養っていけるような豊かな国土も資源も持たない我が国を正しく認識することが第一である。ただ平和の連呼を繰り返すだけのような 教育ではやつていけないのである。そうした教育者が、過去の歴史を封印してきたことの責任は大きい。しかし、これらは国家としての取り組みではなく隣国を 含めた諸外国からの妨害活動に基づく結果だったかも知れないが・・・。まあ50年も続いてきた自民党という名前の官僚と地域が密着してきた流れをリセット することに異議はないとしても、国家経営としての指針も持たずに経営破綻してきた歴史から甘言だけで解決するはずもない。

さて、現在の心優しき若い学生たちに苦言を申すではなく、厳しい世の中においても夢見つつ好奇心旺盛に生きていくことの意義をせめて教えたいという のが私が現在心がけていることである。地に付いた仕事をしていただき世の中に貢献することを心の拠り所にしていただくことの安らぎをぜひ伝えたいと思う。 今の経済環境よりも恵まれていたのか比較のしようもないが、高度成長からオイルショックでのリアクションをしていた時代に始まった経験のピースをいくつか 例にしていこうと考えている。懐かしい写真を整理しながら、組み込みの歴史とこれからの流れの中で想いを伝えるべく記憶を手繰りつつPowerPoint に手を染めている。

通信技術の進化、ソフトウェアの進化、インターネットの進化といったありとあらゆるものがドラスティックに変化してきました。問題解決の中での仕事 をしていくためのモチベーションの源泉は好奇心であることには本質的に変わりはありません。学生時代に学んでほしいことは、学び方であり現象をひとつずつ 確認検証していくことの手順や測定方法の理解と習熟です。実践的な高専といった学校で学んでいる若者ならばなおのことです。計算尺で計算しろとはいいませ んが、理論式に基づく試行実験のパラメータへの理解は必要かと思います。でもそれを通じて解決していきたい命題やゴールへの想いも共有できればと思うわけ です。

機械語で始まり、A(アセンブラー)、B(Basic)、C(Compiler)といった流れで、あるいはさらに踏み込んだOOPな世界の入り口に 立ち、挫折や転機を超えて開発プロセスとしての意識や3G開発サポートというビジネスを通じて組み込み業界へのハウスドクター的な10年あまりの体験など バラエティな内容から取捨選択を回りのご意見番から意見を聞こうとしているこのごろでもある。

業界独り言 VOL371 気がつけば北京に

五 年ぶりに中国にいっていました。といっても一週間こっきりです。前の訪問は、オリンピックの前で、電源事情も不安定な今から考えれば一時代前ということな のかも知れません。実際問題当時のレストランで、ランプが暗くなったりするのは日常茶飯事でした。むろんまともなホテルではそんなことはありませんでし た。古いインフラから新しいインフラに切り替わる途上だったからでもあるでしょう。

オリンピック以前の怪しげな北京からは、少しまともな北京の顔になったということかも知れません。人々がごく普通に道に痰を吐いたりしてもいたし、 山ほどの自転車軍団やら、自転車ベースのタクシーもどきのものまでもありました。空港からタクシーにのっても運が悪ければ、北京市内までたどり着かないボ ロボロな内情の車両だったりと所謂パチモンの町でもあったかと思います。

いまや、町は東京以上にカッコイイビルがあふれていて、町ゆく人たちも東京の街中のファッションを追っかけたりしているように映ります。むろん少し 路地を入ると古い昔ながらの食堂があったりもするようですし、屋台で売っているそれは怪しいままです。どんな食道に入ってもメニューに写真が載ったりする ようになったのは国家の大号令なのでしょうし、レシートが必ず発行できるようになったのも国際化の流れでしょうか。以前は、払った額と同額の子供銀行の紙 幣のようなものを渡されて、これが支払ったことの証明だとか言われていましたので大きな変化でしょう。

最終の金曜は、研修も午前でおわり溜まっている仕事のメールや案件処理を進めて、早めに切り上げてマッサージで肩をほぐしてもらおうと思ったのです が、時間がかかり、三時過ぎにようやくランチをホテル内で済ませるあり様でした。また部屋に戻り片付けをすすめてようやく夕方となり、仲間からの電話が 入ってきました。「夕飯はどうなさいますか」とのことで、「ホテルの中か、外かそちらに合わせるよ」と伝えるととどうもランチも外に繰り出していたような 音が聞こえてくる。市内の喧噪と共にラッシュアワーなので、あと20分ほどでロビーであいましょうということになった。

片付けを進めつつ、時間となった。気がつけば催促の電話がかかってきた、もう下に戻ってきているようだ。韓国の購買担当の女性と、日本からの3人の 仲間たちとでどこかに食事と散歩に繰り出すようだった。泊っているホテルは北京の動物園のそばだったが北上して、故宮の北に位置する前海という地区だっ た。実際問題としては、帰国するまでは、はっきりとどこだったのかは不明だった。外国人観光客窓口があったので地図をもらい、湖畔にある、お勧めのレスト ランを教えてもらい、そこに向かう。前海という、湖はボート遊びをするような不忍池みたいな雰囲気だった。

店内には、バドガールならぬ、オリンピックデザインの北京オリンピックガールがいたり、一生懸命数字だけは英語を話す朴訥とした田舎出のウェイトレ スだったりと店内はカオス状態である。雨上がりの屋外の席には、天幕の端からたれるしずくはご愛敬だが気持ちのよいものだった。適当にメニューから中華料 理を選択しビールと超甘いお茶で乾杯を交わした。淵の欠けた土鍋にボールとしてスープがやってきていた。ホタテのスープを頼んだのだが、浮いている実は、 どうみても大根だった。手元のお椀とレンゲは来ていたのだが、お玉はついてこず、レンゲを使ってピストン配送をしていると遅れてお玉がやってきた。野菜炒 めやら、肉まんや、スパイシーなチキンなどでテーブルは賑やかになった。

春巻きがやってきたのだが、気がつくとテーブルには、醤油もラー油も酢もないのである。韓国レディが「Sauce」とアクション付きで声をかけて、 朴訥ガールがなにやら中に向かっていったが、何もも持たずに帰ってきた。オーダーが通ったのかどうかは不明だ。諦めてひとつはそのまま春巻きを頬張った。 しばらくして醤油が充たされた湯呑がオーダーとして到着したのである。まだまだテーブルに小瓶に入ったソースやらを置くと無くなってしまうからなのだろ う。当然、醤油の小皿などもくるばすもなく、各自一つの取り皿に春巻きを置き、箸を使って醤油をつけて食べることにした。

池の周辺は、ボート遊びをしたり、ライブ演奏をする屋形船などが繰り出したりして市民のガス抜きをしているかのようです。横浜黄金町の昔の怪しさに 比べれば健康的な風情かもしれないが、軒をならべる店は、バーなのかカフェなのかあるいはレストランなのか共通するのはどこもバンドや歌姫あるいはイケメ ンたちがこぞって歌いこんでいるのてある。DVDが流れるのではなくライブで運用されているのだ。

市民の人たちの憩いの場というのが正しいのかもしれない。流れている音楽は、欧米のそれというよりは日本で見聞きするようなメロディーの中国語版で ある。フォークのような人もいるし、いまどきの若者のように歌いこんでいたり、いろいろだ。お化粧も含めて、日本の憧れなどがそこにはあるようだ。外国人 相手にカスタマイズされた点が何かと言えば、スターバックスを配置したり、前海公園周辺の街角のVISAの提灯は、少なくとも欧米の常識で立ち入ってくる 観光客を受け入れるための必然だったのでしょう。

怪しげな客引きの女性が付きまとってきたのは、日本人と見抜いた上で狙いを定めての行動のようだった。仲間から少し離れて歩いていたことも影響して いたのだろう。一人でこのあたりを歩いているのは誤解を生むのか、そういう人がメジャーなのかということの裏返しかもしれない。昨年から開発してきたワー ルド対応の電話機が、鳴り、客引きも諦めたようだった。気がつけば、仲間たちとは50メートルくらい離れていた。ライブレストラン地区をはずれると、祭り の様相を呈してきて綿菓子やら土産物やら細工物のデモンストレーションなどアジアを感じさせてくれた夜だった。

業界独り言 VOL370 なんかこの数字に魅かれるな

い まどきの若い人には感慨もないのが、この370ということだろう。小父さんたちの世代でいえば、前世紀のいや全盛期のIBMが誇っていたシステム370が 学校時代を思い返させてくれる。語弊があるかもしれないが、そうした先進のコンピュータを国をあげて追っかけをしていた今でいう中国のような状況が日本に もあった。日立も富士通もそうした中で国産コンピュータを世界のトップに押し上げようと躍起になっていたのだ。実は、昭和52年から、コンピュータメー カーだった富士通に縁あって出向することになった経験があり、システムエンジニアとして当時の内情を垣間見たりもしていた。

当時の富士通は、IBMからスピンアウトしたアムダール博士が興したベンチャーに肩入れして、IBM370の中枢技術を手に入れて互換路線を達成し ようとしていたのだった。実際問題、富士通自身もIBMのカスタマーでありマシンを導入しているのでIBM自身もその範疇でソフトウェアの提供もしなけれ ばならないという状況で、富士通では新しいIBMのソフトウェアの概観から同様な互換性のあるシステムソフトウェアの開発を進めるという仕事の仕方をして いたようだ。聞いた話では、残念ながらもっともよい結果が出るのは、富士通のマシンにIBMのソフトを載せて動かすのがベストだという話だった。さもあり なん。

私は、新入社員の流れで出向して、ミニコンピュータのSE稼業を経験して本職としての派遣元の事業で考えるシステム事業の礎を作るための人的投資で あった。富士通のミニコン事業自体は、業界標準ともいえるDECのPDP8とのパテント係争などがささやかれていたものと、松下が開発してきた独自ミニコ ンとの合弁で生まれ変わろうとしていた矢先でもあった。結局のところ、ミニコンでビジネスにつながることはなく、ツールとしての位置づけでこの後もしばら く使い続けることにはなったが、経験としてのソフトウェアシステム開発の実践はすることが出来た。派遣元に戻るまえにマイコンが市場を席巻してきていたた め8ビットマイコンの世界に引き込まれていったのだった。

初めて見たマイコンの命令は、8080だった。あまり綺麗とは言えないものの単純な処理なのでわかりやすいともいえた。これ以前に超シンプルな命令 のミニコンなどを見たりしていたことも要因かもしれない。命令が16個しかないミニコンはある意味でとてもシンプルなツールだったのかも知れない。 FuseROMライターなども、こうしたミニコンのソフトで開発して出力ポートを使って構成したりもしていたのだが、間違えるとあっというまにチップが焼 けてしまうといった危険な道具でもあった。msのパルスで書きこむ途中でミニコンを止めたりすればそうしたことになるのである。

マイコンの登場は、電気技術者のすべてに波及するようなニューウェーブを引き起こすと考えられ、NECのTK80トレーニングボードをこぞって日本 中のメーカーが購入して貪るように取り組んでいたに相違ない。松下では、ミニコン研修などをしてきたメンバーが講師となってUARTの8251を使ってテ レタイプ社のASR33を接続して入出力のプログラミングを実践して機械語でデバッグするといったメニューをこなしていたのだった。当時のTK80につい ていたメモリ容量は1kバイトだった。でも課題は、キーボードから読み込んだデータをプリンターに出力するというものだったのでタイミングやコントローラ の制御といったものには十分な経験をさせてくれるものだった。

一番下っ端の講師としてピットインにROMデータを焼きこみにばしりで行かされたり、デバッグを先行して実施するのだったが方眼紙に書き出したオシ ロからの波形でみたループで動作させたソフトのデータバス波形から原理を学んだのは血肉となっていまも流れている気がする。学校で教わった最大の武器は、 シンクロスコープでの二現象モニタによる遅延掃引の技であり、当時でも中古だったと思われる岩通のシンクロをじっくり学生時代に触らせてもらえた経験が、 このときは活躍して先見の明のある先生の深謀遠慮に感謝したのである。

十分にな準備期間を与えてもらったというべきか、活躍できるだけの経験素養をたまたま持っていたことはラッキーだったし、回路にも半田付けにも抵抗 がなかったことが新たな道に向かうことになった。先輩社員が、ミニコンを使ってクロスアセンブラを開発していた。最初の版は8080用でアブソリュートア センブラだったのだが、二代目の先輩は、やはりオブジェクトを使ったリンクローダが欠かせないとして、モトローラ6800用のクロスアセンブラをミニコン で開発してくれていた。参考にしているのは、ミニコンのシステムのファイルフォーマットだった。これに互換性を持たせることでツールが活用できるからだっ た。

電波事業部では、マイコンを活用した車載端末を開発して車両位置を検出するシステムを開発してタクシーなどの運用に有効活用するというものを手がけ ていた。そんな端末の開発に8085が適用されて、初代のクロスアセンブラが活躍していた。2代目のクロスアセンブラがターゲットにしているのは自動車電 話に適用するこれからの戦略マイコン6800だった。その源流となっているモデルは松下が心血注いで電電ファミリーに真っ向勝負をしかけて手に入れた自動 車電話の端末だった。マイコンがない時代から開発が行われていたので制御ボードという名前のコンピュータポードは自分たちで構築したRCA4000シリー ズで作ったコンピュータでもあった。

松下は、コンピュータから撤退はしたものの、富士通に売り渡した部隊との連携をとりつつマイコンという戦場で戦略的な開発をしていたのは知られては いないことでもあった。そして松下のオリジナルのコンピュータが3個も搭載されたモデルが初代の商用化した自動車電話TZ801だった。16ビットマイコ ンひとつ、4ビットマイコンがふたつ搭載されたこのモデルは先駆者たちのDNAが色濃く残ったアーキテクチャで構成されていて、正直しばらくソフトウェア の設計資料を読みながらもなかなか理解が難しいものだったが、そこにも深い互換性についての取り組みがなされていたことがわかり、とても良い経験となっ た。

開発された自動車電話を構築するソフトウェアは、開発において用いられてきた自らが定義したマイクロコードをマイコンを使う段階でも適用するという ことだった。言い換えればアーキテクチャを踏襲することでハードウェア設計の範疇として、昔の機械語を中間コードとして実行するインタプリタ構造をとった ということになる。最近のJavaやDalvikの意味とは異なるが解釈系のシステムであることに違いはない。まだまだ性能が十分でない時代ではあったも のの、制御シーケンスなどの要求事項なども、アナログ処理で実現するために、マイコンの命令実行に3-10usくらい要してもなんとか賄えるということ だった。信号シーケンスの速度から言えば150bps位のフレームが処理できればよかったのである。

業界独り言 VOL369 互換性の実現とは

世 の中には、インテルアーキテクチャという大層メジャーなものがデファクトとして君臨している。組み込みでは、ARMやらPICやらといったものがそうした ものに対応しているということだろう。組み込みという視点で考えた場合には、RTOS黎明期ではTRONが、そうした任にあっただろうが、最近ではそんな レベルの組み込みをスクラッチからするというような事態はないようだ。組み込みといいながらも出来合いのボードを持ってきて即アプリを組み込み稼動させて いく・・・とまでは行かないまでも、そうした流れに近いようだ。

組み込みソフトの黎明期から付き合ってきた仲間などは、ソフトハウスとして自立して頑張っているのだが互換性というよりも既存の設計資産を稼動させ るために四苦八苦しているという実情があるということは昨年にもつづったような気がしている。ある意味で気の遠くなるような状況が、要求されて同じものを 作り続けるということの難しさを開発する側としては共有するのだが、依頼する側には一切そうした理解も妥協もないのである。長い商品寿命の製品に同じソフ トや同じプロセッサを適用し続けて行くということは、もはや何も生まず、モチベーションもあがらない仕事となり、ますます組み込み業界に若者が興味を持た なくなってしまう気がする。

では、ソースコードベースでLinuxを活用していけば解決していくのかというと、必ずしもカーネル開発せずに解決できる問題ばかりではないが、取 込んでしまったメーカーは頑なに自分のビルドベースを使い続けていき、世の中の進化と隔絶していくのではないかと心配もしている。APIを決めてプラット ホームを提供していくというスタンスは、Linuxには必ずしも無いが、Linuxの上にそうした環境を構築しようという動きはある。アンドロイドもそう だし、iPhoneだって同じである。敬意をもっていえばマイクロソフトもそうしたことに留意しているのだろう。

さて、先日iPhoneのOSが更新された、新しいUIとして日本語入力などが更新された。メール画面の横入力なども対応できるようになったのだ が、実際のところ新しいメソッドが使えなくなったアプリも幾つかあった。いわゆる作法の悪いアプリには互換性を担保しないというのがスタンスであり、オー プンな世界であるiPhoneのアプリ市場では、当然お客の不満も出てくるのでそうしたアプリが対応しないとなれば駆逐されてしまうのである。良貨は悪貨 を駆逐する・・・の図式になるわけだ。これがオープンマーケットの健全な姿でもある。

組み込みの世界では、必ずしもこうした図式にはならない、バグであったとしても前動いていたアプリが動かなくなることは許容しないといった論理がま かり通るのである。こんな理不尽な世界は、当然先がないと考えるべきだし実際のところそうした流れになってきている。互換性を追求するのは良いことだが、 理不尽なバグ互換性の担保は出来ないのである。こうしたことを要求しつつ、既存の手を入れられないアプリがあるのでバグに手がつけられないといった理不尽 さなどが出てくるとあきれ返ってプレーヤーが退場してしまうのも致し方ない。

プレーヤーが離れて行こうとしている市場で、なおのことバグコンパチブルといったことを声を荒げていう理解のない人たちに手を差し伸べるにはいった い何をすることが必要なのだろうか。OOPなスタイルの世界に踏み込めない、組み込みベースのシーケンス図でのコーディングしか出来ないような人たちと付 き合っていること事態が間違いだといえるのだろう。互換性をきっぱりと捨てて新しい世界に飛び込むことを選ばないと、結局のところなんらの進化も得られな いということに気がつかないのだろうか。

業界独り言 VOL368 使えないものと侮るなかれ

最 近ハマっているのは、SSDである。120GBで3万円ほどで買える物が登場したのだが、ノートにインストールしてみるとこれが使えないものである。イン ストールが極端に遅く、なにがSSDなのかと勘繰ってしまうのだが、こうしたプチフリと称する現象が発生するのは細かいアクセスを期待するWindows の動きなどとメディアからシステムに昇格させて使い込むには性能評価が不足していたということになる。売っているほうも確信犯と思われるのだが、自己責任 であることに違いはない。調査不足でもある。まあ持ち歩きのメディアとして120GBのデバイスHDDを持ち歩く危険性を考えれば安心だし、なにより SATAデバイスであるにも関わらず、USBコネクタもついているのである。

300GBのHDDを携帯していた事態からの改善ではあったのだが、ノートが発熱しなくなったような気がする快感からは逃れられず、結局さらに価格 が倍ほどもするインテルのMLCではあるもののスマートなキャッシュコントローラが搭載されている160GBのドライブを7万円ほどで購入することになっ た。今度は、何のストレスもなくスムーズにシステム移行も完了して、いったいあのSSD騒ぎはなんだったのかということになる。MLCではあるものの小規 模書き込みのベンチマークなどからみても10-15倍ほどの速度が出ているのは素晴らしいものだった。

使えないという最初のドライブは、システムドライブとしてのWindowsのふるまいとの相性でもありシステム性能という観点でファイル領域に使う 限りにおいては、何の支障もなく活躍している。SSDにより発熱はしなくなったというのは若干の嘘があるように思われる。確かにHDDの発熱は格段に減る のだが、今度はIO待ちが減りCPUの負荷は高くなってしまったようにも思われるのだ。使っていて快適なのは、大容量のメールアーカイブを使った outlookな世界が快適になったことである。私の場合には過去の4-5年分の必要なメールは残してあり、サイズとして8GBを超えるのだがこれらの中 の検索が圧倒的に速くなったのである。DB化されたOutlookではあるものの、SEEKの物理速度の改善が飛躍的なシステム性能の向上になったという ことらしい。

SSD化の流れは、マシンの更新よりも、システム性能を向上させる武器になるということである。70,000円の個人投資は、パソコンのリニューア ル以上の性能改善をもたらしてくれて、システム安定化も含めて現状はとても満足している。自宅のデスクトップの最近の問題は、ファンの故障というか騒音の 増大であり、放熱周りのペーストを更新したりと対策をしたのだが、静音で大容量の風量対応が出来るPWMなファンを探し、さらに内蔵の3.5インチの 250GBのHDDも、今度はCORSAIRというメーカーのインテルよりは性能が劣るもののプチフリ知らずという安価なデバイス90000円を投じて改 修した。この組み合わせで、私のQuad COreなデスクトップも静かで快適な環境に変貌した。

チップの歴史も同様に様々な進化を遂げている、5年前ではARM9からARM11に移りつつあったのだが当時の主力はARM9だった。 Clock150MhzのARM9とDSPの組み合わせでテレビ電話を作っていた時代の後追いでベースとしてそうしたものを活用してアジアな人たちが日本 メーカーの下請けで活躍して物づくりを学んでいた時代だった。当時のODMベンダーは、日本のメーカーの不用意な物づくりの展開をチャンスとしてとらえて 着実にものにしていったのである。今では、そうしたベンダーがレファレンスデザインを早期に使いこなすというのは悲しい現実である。

チップセットビジネスの進展において、昨今のアンドロイド事情は、より追い風にも映っているようだ。組み込みの世界の方々もUbuntuにアンドロ イドで実践したいというような流れが出てきているようで、皆さん真剣に手弁当での検討開発が進められているようだ。アグレッシブなこうした草の根の方々と アンドロイドイネーブラーとなるべきキャリアやメーカーの方々の温度差は、まだまだ深いようだが、結局のところいったい幾らでどれだけの期間で仕上がるの かという競争原理において実績を出したところがのし上がってくることに相違はないだろう。システム全体を見渡して端末としての完成度を高められるかどうか については、私自身も興味深々であるし、Quad社が期待もされていることなのだろうけれど・・・。

アンドロイドにうつつを抜かしている人もいるし、地道にローエンドモデルを作り出そうという人もいる。ローエンドをロープライスで開発するために腐 心している人などは潔いともいえるだろう。むろん、ローエンドモデルがイコールシルバーモデルではないだろうし、実際問題、いま一番コンスタントに売れて いるのはシルバーな需要だろう。突出した日本の要求を培ってきた感性を支える人口は激減しつつあり、実際に購買力もあるシルバー世代にとっては尖がった機 能などが役立つのかどうか意味不明だともいえる。10年前に、VAIO-Pがあったら嬉しかったと思うのだが、現在の視力ではこうした細密な画面で利用で きるのは無理だといえる。

シルバー世代が必要とするのは、親身になってコミュニケーションを支えてくれる技術だろうし、そうした技術は4Gになっても何の解決策も提示はして いないのである。速度や通信価格の戦争は終わっていると思うのだが、世の中にはそうした認識がまだまったく無いようにみえる。冒頭のSSDの如き話に似て もいるのだが、5年ほど前に流行の兆しのあった簡単UIの開発ツールなどは、現在のチップ性能の更新などから見直す段階に入ってもいるようだ。ただし世の 中はさらにインターネットベースのAdobeな世界に入ろうとしてしまい、地道に物づくりとしての実現を進めていくことについての話題にはなっていないよ うだ。でも、戦略的に意欲的な割り切りをもって利用するというトップ方針などがあればオセロのコーナーをとるような事態も考えられる。

どんな技術も侮ることなかれ、事情が変われば、判断も反転してくるものなのである。

業界独り言 VOL367 薫風の中のハイキング

御嶽山を越えて日の出山へ行こうということになりました。

ケーブルカーを利用してというコースでしたが、皆さんの足前確認も含めて、歩いて登ることにしました。

こりてしまうような事はないと思いますが・・・果たしてどうでしょうか。

ケーブルカーもありますが、参道にもなっているこの道は資材を運ぶ車が通れるほど整備されています。

御嶽山の山頂には宿坊もあり、バスで降りた多くの人はケーブルカーに向かいましたが静かな森の中をハイキングできるのはとてもよい季節であり天候にも恵まれました。普段のキーボード漬けの生活の人たちにはちょっと足腰にくるのかも知れません。

日の出山ハイキング QuickTimeでどうぞ・・でも大きい

業界独り言 VOL366 黄金週間を抜けて

五 連休だという、国民の休日は、みどりの日となっていたのは昨年からだというので余り状況認識をしない日々が続いていたということだろう。また、昭和の日と して、旧みどりの日の呼称も変わっていたのだという。メーデーが景気のよいころの象徴だったのだなと思い返す今日この頃でもある。日本という経済が老成化 してきたというか円熟してきたというか労働組合が目指しているものは意味をなさなくなっているのだろう。無論、社員全員が組合員と非組合幹部で構成される 会社では、メーデーという休日が一日増えているので、その意味では労働組合の意義はあるのかも知れない。

会社に入り、メーデーとしてGWの一日を南太田近くの会場で過ごすことが強いられていた時代や、疑問も抱かなくなりお祭りのように参加していた時 代、そして今では南太田の近くに住居は移しても組合という概念のない年俸制の外資生活である。とはいえ国としてメーデーを労働者の日ととらえて休日にして いるインドのような仲間もいる。日本には勤労感謝の日があるので、その点についてはどっこいどっこいだろうが・・・。好天の続く日本の風土においてのひと ときが働き方も含めて問い直す時代になってきたのだろうか。

長い休暇を使って自己啓発に勤しんでいるという人たちがニュースになっている。まあそういう使い方もよいだろう、しかし資格を取ったところで何か役 にたつというのだろうか。好景気で自社ビルを新築して移転したとたんに、親会社というか源流会社の世界恐慌に呑まれて一気に早期退職勧告が派生していると いう会社の話も聞いたりした。ビルを建てると不景気になるというジンクスは未だに破られていないというらしいのだが、ジンクスを破ろうと毎回チャレンジし ているのをよしとすべきだろうか。同期入社のメンバーでも単身赴任生活に終止符を打ちますという連絡がきたというのも、そうした背景があるのが昨今の状況 らしい。

ワークシェアという定義を積極的に活用しているという意味では、会社が応用して適用しているのが、こうした事例なのだろう。一括で定年を下げたりす るのは、平等だろうし、納得してほしいということでもあるだろう。就活としてのリアクションも得られないくらいの不況はオイルショック以来だというのは、 どこかで聞いたことがあるのはデジャブだろうか。自らの身に降りかかってくることでようやく社会認識を持つというのはいつの時代でも一緒なのだろう、とも かく職をもって食べていかねばならない。そのために勉強してきたのは事実なので文句は言えないのである。

内定取り消しが出たくらいで大騒ぎをしているのはおかしな話で、配属が決まったとたんに希望しない職種で自らが結局辞することになることを望んでい たりしていたのだろうか。厳しい現実を認識して新たな機会を探すべきなのだと思うのだが、甘えているように映るのは時代の違いだろうか。去年と同じ入試問 題が提供されたとしたら形だけの試験をしていると認識したりするべきだろうし、今ではそうした行為自体が無駄だとして、もとから割愛される時代になっても いるのだろう。学校訪問で親子で、訪れてきて進学相談するのは、当たり前だとしても就職活動の段階で前述のような事態になったとしても学校の責任追及をす るようなことにはならないことを祈ろう。

今日は、若い仲間の結婚披露宴が催された、式は既に三月に行われていたのだが、米国での家族を交えての挙式と国内の仲間に対しての披露宴はこの良い 季節に持ち越されたのである。久しぶりの結婚式への参加は、上司としての祝辞をトップバッターで読ませていただく光栄までいただくことになった。今回の縁 組自体は、双方の知己同士の結婚式披露宴だったということもあり、縁が続くということを期待してか、花嫁側の参加者は7割を越していた。残りの少ないテー ブルがこちら側だったのだが、そんな中で参加した同僚の女性陣などは肩透かしもよいところだろうし、相手方も同様だったかも知れない。

まったく違う業界の助産師の方たちの七つ以上のテーブルと、携帯電話の技術開発メーカー、OEM、キャリアという彼の友人の席は三つのテーブルで黄 金週間の最後を彩ることになった。考えてみれば、自分の子供位の新郎新婦たちなので、子供がいない自分にしてみれば、姪たちの結婚式がそろそろだと思い知 らされる時期でもあり支援する側としての責任を果たすことを心がけるように強く思うしだいだった。昨年に銀婚式を迎えて思い返す自分たちの四半世紀を考え ると、エールを送りたいのは先輩としての気持ちでもある。人生の新たな展開に乾杯である。