VOL07 GW目前 発行2000/4/28

新人が現場に登場する時期である、当社も日本人スタッフとしてハードソフトともに若干名の方を迎えた。桜のあとの春の気持ちの良い季節を新人の季節にしているわが国では、代償として小学生の長い夏休みを学年中に迎えるということが課題かもしれない。効率的に考えると夏休みを学年から外した米国スタイルは、あながち否定できない。実は、この事が国民性に大きな影響を与えていはしまいか。新人時代から四半世紀近くを過ごしてきた。温故知新でバーチャルな世界をかえりみよう。

トレーサー
1976年に仕事をはじめてから、はや24年を経過した。昨年の転職からも半年を過ぎて、ようやく新会社での自我を確立しつつあるところである。さて、25年前に学生最後の年にやったのは卒業研究である。高専では当時最終学年での一年間が卒業研究に当てられていた。まだマイコンなどない時代であり学校に小型コンピュータを導入しようという時代であった。仮想記憶で動作するので大規模な計算も可能である鳴り物入りで説明を受けたマシンではあったが、実際にはページングの嵐となり実用的な計算には程遠いものであった。予算から割り出されたマシンにすぎなかった。この当時入りたての富士通のマシンの上でOSの構造を調べようとトレーサーを開発したりしたのが懐かしい。命令をワンステップずつ実行させていこうというものだった。仮想的にマシンのプロセスをデバッグしたいというようなものであったかも知れない。割り込みの概念を学び機械語を学んだに過ぎないともおもう。この機械語で開発したソフトをFortranで作成したローダーでローディングしてコンソールパネルに向かって仕事をしていた。おかげでFACOM230の機械語を覚えた。翌年初芝電器に入社してからは、一年の新人教育で図学や製図・工作といった高専のクラスのようなテーマや販売実習といったものを経験した。会社の仕組みの中での難しさといったものもいくつか経験した。一年間の研修の後に配属になったが早速富士通への出向を命じられて1977年入社の富士通の導入教育のラインに割り込んだ。はじめて見るCOBOLなどの世界をみつつミニコンの技術習得が目的であった。当時のミニコンピュータは現在のエンベデッドな世界ににていた。開発マシンとターゲットが異なったりすることや開発ツールが不備だったりすることもあった。富士通時代のお客様は自動車工業関係が多くあるお客様の生産ライン制御システムの仕事では先方の寮に3ヶ月ほどを過ごす結果となった。

シミュレータ
生産ライン制御システムの担当ではミニコンサイドの一切合切であり、新人(?)一人である。判らないことは先輩に聞くというスタンスだが先輩もミニコンに詳しいわけではない。当然の帰結としてマニュアルとドキュメントと首っ引きになる。富士通の会社としてミニコンを支援しているのは当時初芝と共同出資して興したPANAFACOM(現PFU)である。開発ツールを必要とするのは常だが固定ディスククラス(?)を搭載した大規模のミニコンでないと開発が出来ないということがあった。新橋に当時あったFACOMビルには地下にマシンルームがあり、その一角にミニコンのマシンも置いてあり時間を予約して利用したりしていた。マシンを使用するために、深夜の作業申請を行なうのだ。こうした環境を経る中でミニコンという特殊な環境にむけた開発環境が不十分であり、同僚達が和気藹々とカードパンチに向かってソースデックに積んでは、ときたまばらけてしまったりする風景とは相容れなくなっていた。ミニコンのエンジニアは”暗い”感じがした。昼間から使える皆と同様な環境のなかで出来ないものかと思案していた。

問題意識の芽生えであろうか。ミニコンの開発ツールとして大型で動作するSIMULATORソフトが開発されていた。ミニコンのソフト開発用に作成されていたようだった。システムソフトの開発としてはモジュールをくみ上げるシステム生成あるいはリンクと呼ばれる作業が必要であり、この作業がシミュレータで動くのかどうかが鍵だった。サポート部隊に連絡をするとそんなことは考えても見たことがないし動くのかどうかが不明だという。ありがちな回答である。前向きな回答を出したところで支援も出来ないからである。ともかく「やってみなければはじまらない」ので必要なソフトウェア一式の提供をお願いして磁気テープの入手とユーザーで稼動しているマシンは夜間まで運用しているので深夜停止後から朝までが勝負である。

システム編集
普段はリアルタイムOSで立ち上がっている中型コンピュータをシャットダウンしてバッチ系のOSに切り替える。シミュレータは、このバッチ系のOSで動作するように設計されていた。実際にシミュレータで仕事をする為には、仮想マシンがデバイスをアクセスできるようにする
ことが必要だった。マニュアルでの見て歩きによれば仮想空間に物理デバイスをマッピングできるようだった。システム編集というツールを動かすには磁気テープデバイスが動作すればよいのだった。またシミュレータの上で動作するシステム編集というツール自体は独立で動作するOSの不要なソフトウェアとして設計されている。ユーザー納入先でOSを編集する為には致し方ないブートストラップ的な位置付けでもある。稼動させたターゲットOSがバッチの機能をもっていれば、その上で動作するシステム編集ツールもあるのだが、そのときのお客様の用件はミニコンはセンサーあるいは配信用のFEPであってチャネルとよばれる高速インタフェースで接続されており特殊な端末群を制御するDI/DOといったインタフェースがもうけられている程度だった。シミュレータが動作するはずの仮想デバイス経由での磁気テープの操作を仮想のミニコンコンソールから行いテープが「カクッ・・」と動作するのを確認した。「これで・・いけそう」と思ったのであるが実際問題システム編集ツールを稼動させると時々思い出したように「カクッ」と動作しているような体たらくで仮想マシンのスループットと実務のギャップを世界に先駆けて思い知った。磁気テープというものは、「ククッククックーッ」といった音で動作していくのが通常の動きである。こうした周辺装置とのやりとりは100倍以上の処理時間との差があることから、OSというものの価値があったのだが仮想世界では物理デバイスに指示を与えて次の命令を実行していくうちにもう入出力処理が終わってしまっているというのが実情であった。通常の処理時間に比べても10分程度で終わる作業が、その日の夜間マシン時間を殆ど食い尽くして終わるころには、朝が白々あけてきていた。77年のことである。市場にはTK80が登場していた。

遅くても効率的?
一晩かかったシステム編集作業であるが、マシンを求めて群馬県のお客様のところから大田区や新橋のマシンセンターまでの移動時間を考えるとあながち非効率ともいえなか
った。出来上がったソフトウェアは高速チャネルインタフェースで瞬時にターゲットのFEPであるミニコンに転送されて立ち上がる。ミニコンにはディスクもなくRAMのみで動作していた。デバッグコンソールを使って確認を進めていく。こんな生活をしていると一週間は三日でおわる。月曜日に出社して火曜日の夕方帰宅、水曜日から木曜日、金曜日から土曜日という次第である。何週間かへた結果,残業時間が180時間を超えていることに気が付いた。初芝から派遣・出向としてきている関係で初芝の組合統治からは外れていた。こうした勤務形態自体も学ぶべき対象ということであろうか。もとより深夜勤務などが強いられていた富士通にあってはこうした残業時間の考え方が昼過ぎから出社して徹夜をするB勤務などがあった。初芝にはA勤務しかなかったのでA勤務8:00-16:45を超えた時間はすべて残業時間としてカウントされ翌日は休日をとったことになっていた。こうした結果残業時間が180時間というような事態になっていたのである。昼間でもつかえる開発環境がほしいという痛切な願いと仮想的な環境でも今後はつかえていくようになるだろうという思いとが交錯して過ごしていった。ほどなくお客様の別工場に少し大規模のミニコンが導入されたことでこのマシンを借りてシステム編集が出来るようになったのでシミュレータとの付き合いは一ヶ月ほどでおしまいとなった。

続く。

VOL6 2000年4月 発行2000/04/13

すっかり、3月の独り言が抜けてしまった。忙殺の日々であった。残念ながら、体が資本で元気は満面なのだが毎日タクシー会社での送り迎えを続けている。初芝通信のAVMの動作をモニターしているような日々だった。すでに立て替えたタクシー代金は、50万円に届こうとしている。ようやく、そうした生活にも終止符が打たれようとしている、時は春でさわやかな季節である。

新人を迎える季節ではあるが、弊社においてはベンチャーでもありなかなか例年社員を迎えるという季節感はない。たまたま今年は人員増強を図るべく活動を進めているのだが思いのほか米国系の会社への転籍希望の声は出てこないようだ。英語の問題以前に、まだ皆終身雇用が続くという幻想を抱きつつもレイオフのほうが現実感があるのだろうか。倒産とレイオフは明らかに異なりレイオフはある意味において会社の積極的な展開といえる。

社内失業が最近取りざたされる中で日本の製造業においても積極的な人生観をもった後輩が出てくるのではないかと期待もしている。そんな中で、渦中の会社の支援を通じて製造業をはだで感じることができた。空洞化が進むこうした製造業といわれているが実際そうしたことでは物が出来てこないのであってやはり抑えるべき人達はいるのである。

支援している会社に手取り足取りしつつ支援をしていく過程には、商売という側面から致し方ないと思いつつも教えを受けておられる方々のプライドもやはりあり、そうした事を理解しつつのコミュニケーションが求められてきていた。人生の勉強は日々続いてゆくものである。

久しぶりに日本の社員食堂での暮らしをするなかで、水準以上のものが、そこにはあり大阪と横浜で経験してきた会社でのそれと比較しても楽しめる生活であった。立場を逆転したとはいえ対等に話を進められるバックボーンがあり自分自身が会社の代表としての接し方をしていくことを日々責任を感じつつも充実した生活となった。

米国本社との協力を得つつの生活ではあり、技術トップのVPを迎えて一週間みっちり自分自身のOJTも兼ねつつ日本のお客様の設計手法と米国のそれとの差を学びつつ互いに議論していた。気が付くと英語で独り言をしゃべっている自分がいた。横にいるVPとの意識共有をしていく上では英語でしゃべり考えていることが必要なのだったが思いのほかそれは実際問題慣れで解決するのではないかと最近は思っている。

こんな中で支援先のRFエンジニアの方に引き抜きの話が来ていることを伺った。休日を圧して共同作業しているときではあったが私の境遇をしっておられることもあって、悩みを打ち明けられたようだ。確かにRFエンジニアに限らずソフトウェアエンジニアも含めて業界が流動的になっているような面も見聞きする機会が増えている。

物をつくりたいという思いの人にはメーカーという選択肢がベストであろうし、長年そうした中で仕事を進めてきた過程で指導や共通的な先進技術を志向していくことを良しとする人にとってはわが社は悪くない選択肢であると思うのだが、みな人生の一大事ということもあってなかなか実を結ばない。

すこしでも相互のためになるという解の一つは不遇な人事処置を取られた現場の技術屋さんの転職である。cdma業界からの引き抜きはそうしたバックボーンに根ざしている。自分の境遇に不満をもちつつも積極志向をすてない人がわれわれの求めている人材である。わが社に引き抜いた場合には他社も含めて業界の前進につながるという理解をしてくれるというのが最近ようやく迎えたT社からの後輩の事例である。とはいえ「最後まで英語の日常化という観点が大きくのしかかっていた」とは後輩の弁でもある。いっそ大学を向こうですごした学生を最初から狙ったほうがよいのではないかという話もあるが帰国子女といった線もまだ捨てきれないでいる。

境遇や会話能力よりも考え方がしっかりしている人であれば何でも出来るのになぁと技術者から転身して数学の先生になってしまった女性を思い出してみたりする。自分の人生の演出を会社からのシナリオに縛られてしまう人が多いのではないかなと思うのだが、自分自身の8ヶ月前を思い出してみてもなかなか自分の殻をぬけるのは至難の事なのだろうと納得してみたりもしている。

母校を訪問して新世代の学生をベースに話を進めてみるのも一興かとおもうが、そうした事を前の会社でもしていたなと思い出している。「先輩がいたので、この会社に来ま した」と話してくれた後輩に退職の話を切り出すのが苦しかったのを思い出した。しかし、学校訪問の時の自分と今の自分には何の差もなく、このまま自分のシナリオと会社の台本とに大きな開きがあるままに自分自身を偽れないという思いがあったのだ。

忙殺される日々を縫ってほかの人から紹介を受けた候補者の面接をしたりもしてみるがなかなか皆さん。難しいようだ。いっそ自分の見知った人でもって腐っている人がいないかと思うのだが会社も離れてしまうとなかなか話し掛けるのもつらい。いつでも門戸は、開いているのだがと事あるごとに伝えることしかなさそうだ。

たまの休日に祐天寺のカレー屋さんをたずねた。優秀な後輩を思い出しつつはじめて 降り立った祐天寺である。模型が配達してきたカツカレーはまた格別だった。またぞろ気持ちが騒ぎ出してTechnoWaveよろしくウォーキングをはじめた。世田谷線が見たいという細君の希望にそいバスで三軒茶屋まで抜けて住宅地を走った。こうしたところに引っ越すのもよいかなと都心への移転も考えるようになった。

借金返済のカセがなくなると人生自分自身にさらに新たな課題を自由にかけられるようになる。二子玉から等々力渓谷までのつもりが多摩川園まで堤を歩いてしまった。桜が満開だった。いつも街道沿いに見てきた桜を車窓から見るようになった。東横線の高架線計画の完了は今年中なのだろうか。夜桜でなくグランド越しの昼の桜を見たいものだ。

VOL5 2000年2月 2000/02/28

業界独り言を書き始めて、毎月一回のペースを守ろうとしていたのだが・・・。ニッパチのたとえもなく忙しく毎日が深夜タクシーの日々である。

初芝を離れてから初めて初芝通信の家庭用PHS端末を購入した。コードレス電話である。コードレス電話であり、外部では公衆として使えるという本来の売りがようやく我が家にも遅ればせながらやってきた。既に利用していたシャープのPHS端末も苦労のかいあって登録できた。しかし、ナンバーディスプレイ対応のこの親機を使うためにはTAを買いかえる必要がある。本来のISDNの機能をインバンドで実現しているナンバーディスプレイの機能のためにまたTAを買いかえる羽目になったのは納得しがたいものがあるのだが・・・。

こうした矛盾をついていても仕方が無く必要な機能のためには目をつぶって導入して行くしかないのだ。もうISDN接続の親機を作るメーカーはいないのだろうか。通信機メーカーのリソースは全てCDMA関連や次世代の5Gに向けられているようだし2005年には有線電話はなくなると豪語しているメーカーもあるようだし、ISDNに固執しているとどこかの研究所のように誤った方向をとめどなく追求しているようなことにもなりかねない。

レトロ趣味として取られてしまいかねないのだが、PHSの実力はユーザーからみるとたいしたものでパケットONEでもなんでも価格もスピードもたいしたものである。i-MODE版のEDGEが一番よいのだが無いのだ。電車での通勤が多いので(朝は・・・)車内での会話は携帯のメールの費用に終始しているような気がしている。それくらいメールが携帯ですることが当たり前になっているらしい。WCDMAが始まる前にi-MODEでトラフィックを低速分散させる狙いは功をそうしているがそうした流れとWCDMAで期待する価格との開きに付いてはよくものを考えて行く必要があるだろう。

会社に頼んで必要に迫られてDDI-Pの64KPHSカードを導入したが中々よいのだ。個人所有していたシャープのそれがようやく奥さんのモバイル用途に専任できそうである。通信と時差を超えて暮らしているのだが積極的に時差を活用して相互の力を発揮すべく立ちまわりたいと思いつつ深夜を越えて時差の国と電話をしてしまう実情の自分に腹を立てている今日この頃である。

自分の存在理由を確認すべく一年間をその模索の日々として捉えてきたが半年が経ち、いくつかの存在意義を明確に認識し活動のベースポイント切替を行うのが来月の仕事である。半年で英語があまり苦にならなくなってきたのは良いことであるが、日本のお客様の実情を米国のメンバーの開発方向性にまで反映して行くことの難しさは会話の単語能力の差を思い知ることで毎日がやはり勉強の日々である。中々アーサーランサムを読み進めようという目標が達成できない。

業界独り言 VOL04 2000年突入

イリジウムのおかげです。メーカーからみると悪魔の囁きのようだったイリジウム電話である。ニーズは確かにあるのだがメーカーの皮算用から見れば無いのに等しいのかもしれない。無いのに等しいようなユーザーに身内がいた。実兄は、昆虫標本商を営んでいるのだ。東南アジア地区でのPHSの基地局が蟻に襲撃占拠されるなどの事件ではお世話になったが、その後、例によって音沙汰がなかった。

正月の実家訪問で数年振りに、その実兄と会った。最近標本商以外に新たな商売をはじめたそうである。生きている昆虫、とくに甲虫類の斡旋ができるように法律が改正されたそうでこの商売を始めているようだ。南米の奥地から、モンゴル高地や東南アジアの島々に派遣している採集人とよばれる人々との連絡にはイリジウム電話が有効であるようだ。

DIMEに出てきそうなどこかの冒険先生みたいな輩が身内にいたとは灯台もとくらしという奴である。さて、くだんのイリジウムがモンゴルにあると何が起こるのか、・・・・・。実は、用も無いのに電話をかけてくるのである。「新種の蝶がつかまった」というような嬉しい電話ならともかく、「今日は収穫が無かった」という電話が入ってくるようになった。

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業界独り言 VOL3 99 年の瀬

近頃タクシーに乗ることが増えた。師走に限らないのだが、初芝通信そばの某メーカーに通うことが増えたためである。初芝時代に開発した無線機が搭載されているタクシーに出会うと懐かしい仲間に出会った気がする。幾つかの交通手段があるのだがいずれの駅からもそこそこ同じ程度のタクシー料金となる。先日は、初芝の裏を抜けて鴨居駅まで歩いた。ボーナスが出た街には賑わいがあるようにも思える。

外資系にいると日常が日米の文化の狭間に悩むことがおおい。サンクスギビングに続いてクリスマス休暇である。よりによってこうした時期と日本の御客様の開発支援が重なってしまう。お客様の問い合わせが堆積していく。電子メールによる照会システムの入力がキューのままになってしまう。ジョブ割付が自動化されていないためでもある。感極まって、西海岸まで訪れるお客様も出現するが、クリスマス休暇の直前に訪問しても技術者はすでに休暇に入っている。人によってはそのまま年越しの休暇に入る人もいる・・・。

のんびりしていると思う反面、年の瀬の挨拶が日本で始まる頃にクリスマス休暇明けのメンバー達は、30日まで出社して仕事を続ける。日本オフィスは時差もあって二日早く休みに入る。年明けは、日本は5日くらいが良いところだが向こうは2日からは始まる。平均すればどちらも同じだろう。仕事を頼みたいときに向こうが休んでいると腹が立つのは情けないことだ。マイペースの気持ちをもう少し来年は取り入れたいものだ。2000年問題の年の瀬であり、システム対応のお客様もいらっしゃり麻雀卓を囲んでのんびりと会社で過ごす役員の方もいるらしい。

はじめて、コミケに出かけた。文学オタクのコーナーもあるようだった。アーサーランサムの同好会があるときき出かけたのだが見つけることができた。英国で書かれたこの冒険小説は、私の文章に影響を多大に与えている。来年は、英語の語彙をもっと増やしたいと思い、この昔読んだ冒険小説を原書で読むことにした。文書をよみつつ心躍らす領域にまで達したいと思う年の瀬である。

業界独り言 VOL2 99/12I 99/12/15発行

朝の暖房が有難くなってきた・・・冬・・・である。

コミュニケーションが会社の成否を左右する・・・そんな時代である。転職してきた、この会社にはオリジナルのEmailシステムがある。だからといってうまくシステムが回っているとは思えないが。会社の組織がフラットであるが故に、うまく活かせる場面が多いことは確かである。日常的に動作しつづけるEmailシステムが重要でありEmailが停止したら会社にきても仕事が出来ない・・・それは事実である。こうしたシステムではセキュリティとリモートアクセスの両輪が必要である。無論リモートアクセスには、フリーダイヤルも必要なことである。

初芝時代には考えても歩調も含めて出来なかった環境ではあるが、会社の規模から考えるとIT行政のための事業部の体制などの比率はかなり高いといえる。ここまでの比率をキープすることを是とすれば、会社の仕組みは変貌できるのだろう。昨今、人余りが取り沙汰されていてある電機メーカーでは10000人の余剰人員が出ている反面、人不足が解消できないというジレンマであるという。働く場所に関連して職場を選択しているからだ。希望の職種が希望の場所で手に入らなければ解決できないのだという。こうした人達の活用が図れるのもITを事業として、電算事務の延長でしか捉えていないことから考えていない故の結果なのだろうか。

そうした会社を横目に見ながら古巣である大阪地区の近傍の顧客支援に飛んだ。どこの会社でもお客様のお怒りはいつも決まって「すぐに飛んで来い」である。といってサンドバッグになる為だけに行っても何の解決にもならない。彼らは愚痴をいうのではなくて解決を求めているからだ。こうした実務を通じて自分自身の対面耐久力を養ったりするのはOJTの一環であろうが、未経験の人材を遭遇させるには厳しい環境である。こうした支援人材を増やしたいと思う反面、達観した優秀な人材に遭遇しないかぎりは望めないと諦観したりもする。

日本各地で開発している顧客サポートをしていくのは、楽しいとも言える。セミナーで顔つなぎした人と実際に出荷間際でトラブル修正に追われている場面で遭遇すると、またその人の懐の広さに出会えたりもするし、逆の場合もある。セミナーで事細かな執拗な質問を投げていたYさんとの出会いはそうした中で前者である。彼は、顧客先に関係会社から派遣されている位置付けでリーダーなのかトラブル集約担当なのか構成管理担当なのか所在曖昧なままに仕事に埋没していた。

昔の仕事でいえばレベル1である。冬モデルの出荷の風景にしてはあまりに完成度が低い風景である。「飛んでこい」というお怒りの電話の状況とそれまでの問い合わせのEmailなどの数があまりにも不一致な状況である。件のY氏の話を聞くと、「来てくれたんですか・・・」あとは堰を切ったように質問が飛び出してきた。何故こうなっていたのか・・・・。

問い合わせをEmailでするシステムを構築していたのだが、契約先である顧客のメールドメインを基に問い合わせを受付するようになっていたのである。ところがソフトウェアをまとめる役目のリーダーはプロパーではなく少し違うメールアドレスのドメインであった。こうしたことから、Y氏は長らくこのソフトの技術契約をした会社のサポートシステムは何の返事もくれないと思いこんでいたようだった。無論リーダーであるサブコンのY氏より上は突然課長職だったりするので彼らがだす質問には回答がきていたりするのも知っていた。システムの説明が不充分だったりしたのも悪循環を引き起こしていた。

同様な支援で開発していると聞く他社の技術力について思いを馳せたりしつつの仕事だったようだ。派遣先の上司にお願いして質問を出すというのは、「自分の不得手な点の質問をお願いする」ということでもありよりマイナス効果となっていたようだった。自力で解決しつつの模索をしつつ進めてきたが最後に破綻したというのが実情である。

日常的な対応をしていなかった顧客先で出荷が控えているからと無理に対応を求められても、より溝が広がったりする。他社の同様な製品の性能との差が鮮明になると判らないなり同様の結果を求めるというのが管理職の常だ。しかし自分達の実力以上のことを求めてもより深みにはまりうまくいかないのも常である。

問い合わせになれていないメンバーからは抽象的な質問や具体データに基づかない感覚的な質問を投げかけ、さらに言葉の壁がそこに大きな影を投げかける。ちなみに大阪弁の問題ではない。エモーショナルな感覚の人達の息せき切った曖昧な質問を時差のある言葉の違う設計した人達が回答をしても中々繋がらない。

コミュニケーションを良くする端末の開発には、ベースに良いコミュニケーション環境が必要である。こうした環境で生み出される端末のUIに良いものが出来てくる気がしない。ステップバイステップで解決していくしかない。エモーショナルな彼らに合わせて現場に出向き、深夜に回答をして信頼を得たりという地道な取り組みが必要である。

せめてもの幸いは、彼らの要望が2週間前でなかったことだ。サンクスギビングの期間とぶち当たると人種不信に陥るのは必至だ。お盆の季節に問い合わせを依頼するのと一緒なのだが文化圏が異なると問題になってしまうわけだ。中々相手の立場に立った考えが出来ないのは同一の文化圏でも大変なので、余計に大変なのである。

しかし、うまく利用している顧客からみると相互に無茶な残業をしたりでクリアするでなく必要な情報やノウハウを時間を超えてうまく利用しているのである。とかきつつもレスポンスの為に時折電話に手をやるのだが、ついに相手のYさんは帰宅してしまったようだ。こちらではこれから起きてくるアメリカのメンバーに情報を伝えて引き継いで明日の朝に期待するとしよう。

サンディエゴ通信 VOL1 日光までサンディエゴメンバーと行きました。

サンディエゴから戻ってきて少し日本の活動を始めました。日本のお客様を回りつつまた、お客様をお呼びしてのトレーニングという集合形式でのイベントをサンディエゴのメンバーを交えて進めました。来日したメンバーの資料準備や環境セットアップなどを行い三日間のセッションでの質疑・進行・補足通訳などを行いました。サンディエゴの仲間であるインド人のスーディプトさんとカウムディさんとをガイドして、週末は日光に旅行をしてきました。 恵比寿の駅で彼らをピックアップして、浅草から特急でと考えましたがあいにく当日では特急券は売り切れでした。快速にのることにしてあまった時間で浅草駅構内でモーニングサービスをとりました。玉子とサラダとトーストとドリンクという組み合わせは日本ではポピュラーなものですが、彼らにとってははじめての体験だったようです。トーストや玉子にチリソースを付けたりするのは、やはり辛いものがベースに必要なようでした。 インドの方でしたの快速電車で車窓から日本の収穫を終えた田園風景を望みつつの旅は満足そうでした。東武快速は6両編成で日光まで行くのはそのうち二両で、下今市で切り離されます。残りは、鬼怒川をさらに北上します。下今市からは、二駅しかないので、立っていてもすぐつきました。 帰りの特急のチケットは購入できましたが、さすがにAMEXは使えなかったようです。しっかりと領収証をもらっていました。バスの停留所は溢れていたので、天気もよいし彼らにとっては町の風景そのものも旅ですから歩いて日光山を目指しました。 商店街にそってのハイキングは中々彼らの興味をそそるものだったようです。途中の銀行のキャッシュディスペンサにトライしましたがCirrus対応のものはありませんでした。まだまだ日本はカードの国ではないようです。 一汗かくとようやく神橋に到着です。あいにく神橋自体は工事中でした。大谷川を見下ろしつつ写真にふけっていました。まだ土曜日の昼前だったので小学生の下校風景に遭遇しました。まだ日本では土曜日に学校があるのです。 日光山に入ると入り口には、おおきな杉が林立していますが、カリフォルニアでは100メートルにも及ぶ木があるそうで次回サンディエゴにいったおりには郊外へのハイキングにトライしたくなりました。東照宮にある日本庭園では鯉をみたり隣接する宝物館を見学しました。神様が描かれている掛け軸などではそれぞれの神仏像について教えてもらいました・・・。仏像の源流は天竺ですから確かにその通りでした。 東照宮の主要なところには、1200円の拝観料が必要になるようでしたので、雰囲気を味わいつつ散歩にとどめました。ごく普通の御茶屋さんで昼飯にしました。うどんとそばの選択から鳥うどんとなめこうどん、そして私はざる蕎麦を選択しました。ざる蕎麦には興味深げでしたが、あたたかいほうが好みのようで汁まで残さずに食していました。 デザートにはアイスクリームという要望でしたが、日本にしかない特殊なアイスクリームである「雪見だいふく」へのトライを進めたところ大変気に入ったようでした。rice cakeにくるまれたice creamからbean jamのノーマルなバージョンは考え及ばないようでした。 バス停まできて中禅寺湖行きの時刻を確かめたところしばらくない様子でした。歩いて次のバス停まで行こうとしたところ遅れていたバスが到着しました。満員のバスでしたが日光山に入ろうとする人がかなり降りて我々は皆座れました。いろは坂を渋滞で進みましたが風景が良いので二人ともブーイングは出ずゆっくりと旅を楽しみました。 中禅寺湖までくると帰りの渋滞の時間を考えるとあまり時間がなく、茶ノ木平までのロープウェイにトライして空中からの紅葉見物にしました。3時を少しまわったところでしたが残った日差しがすこしあり紅葉を堪能できました。茶ノ木平からは中禅寺湖を一望してロープウェイで往復してもどりました。華厳の滝は、先日の雨の影響もあり、迫力在る量でした。帰りのバスは始発でしたのでゆっくり座れて夕映えのいろは坂を見ながら帰途につけました。残念ながら予約した特急の時刻には間に合いませんでした。bean jamの入っている酒饅頭を買い求めて、ほおばりながら日光駅でさらに特急券の払い戻しに成功してせんべいを買い求めて快速電車で賑やかに話をしながら帰ってきました。日常的な会話を楽しみつつ自分の単語能力の不足を電子辞書で補いつつ勉強になりました。 夕食は、しゃぶしゃぶが食べたいという彼らの希望にそって私の携帯のインターネットアクセスできるWAPブラウザで検索した結果渋谷のスエヒロに向かいました。地図付きで無事到着してアルコール抜きで3人で二皿平らげてしまいました。最後にいれたきしめんも、ランチのうどんの仲間だということで、綺麗に平らげてしまいました。ここではさすがにAMEXのご利益があったのでご馳走になってしまいました。楽しい食事で締めくくり、山の手線で帰り恵比寿の駅で別れました。 彼らは無事、日曜日のフライトで帰国しました。これから何度か相互に訪れる仲間との、生活のピンポンを楽しめそうです。