幸せの1ページ

ジョディフォスターの素敵な笑顔のパンフレットが目に入り、土曜のプレミアシートでのペア手配をして、川崎ダイスまで出かけた。最近の土曜の朝にありがちな細君の隠密行動にあとから合流する手はずである。細君とは、軽い朝食を横浜駅構内に出来たドミニクジュランのイートインを利用して済ませてからのアクションである。川崎駅前のダイスは我が家にとってはとっても近い映画館の一つでもある。

映画に出てくるのは、リトルミスサンシャインの主演子役だった子とジョディフォスターであり、始まってみるとあの素敵な笑顔とは裏腹の引きこもったジョディ演じるところの冒険小説の著者だったりする。ギャップを埋めるためのアクションが、メールで引き起こされる設定になっているのは楽しいシナリオだった。気が付いてみればファンタジー映画だった・・・。

業界独り言 VOL346 組み込みソフトでのデバッグは・・・黎明期

組み込みソフトという業界にどっぷりと浸かるようになったのは、昭和54年からである。最初に行ったのはTK80でのマイコン講習会を社内でひらいたことに対しての教材作成準備を行ったことだったように思う。まだまだマイコン開発という環境への道具立ては少なく、講習会でのアプリケーション自体は8251を接続してのASR33との接続テストというものだった。キーをタイプして、エコーバックで文字が出れば、アプリケーションは完成である。

アセンブラもないので、当然ハンドアセンブルで行い、テンキーでHEXA入力という世界である。講習に参加した技術者たちは、皆、無線技術に携わっている方たちばかりであり、これから始まるマイコン搭載でのアナログ無線のシステム化などへの入り口に立ってのこうした講習会であったようだ。私自身は、ミニコン技術を習得するために富士通に出向して戻ったばかりの役に立たない新人といった状況だった。

ミニコンでのデバッグに慣れてきた状況からの戸惑い、ハンドアセンブルも含めて機械語で学んだ学生時代を思い返しつつ、2チャンネル(インターネットではなく)のアナログオシロスコープでバスクロックを方眼紙に書きとめて、8251の動作を8080のバスから確認して行った。学生時代に行ったのは日立のHITAC-10での同様なアセンブラでの実習だったが、今は、組み込んだ小さな組み込み基板での世界で同じ事をしているのは驚きの入り口でもあった。高専でのオシロ実習で学んだ遅延トリガ操作が活躍していた時代でもあった。

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業界独り言 VOL345 九年目を終えるに際して

業界独り言を書き連ねる事態に突入して九年を終えることになった、明日からは10年目に突入する。九年前の今日は、退職の歓送会と片づけで追われていたように当時の転職顛末に記載されている。元の職場の同僚たちには個人的な都合でという以上の認識は持たれなかっただろう。会社という環境で仕事を続けている際に、個人のモチベーションとしてどのように仕事を位置づけているのかどうかについて重要視しない限りにおいては、折角得た仕事を放棄したりすることは今の世の中の情勢では尋常ではないのかも知れない。

たまたま良い諸先輩や上司といった環境と時代背景に恵まれて健やかにエンジニアとして暮らしてきた流れがターニングポイントを迎える時代に突入するなかでエンジニアとしてあるいはメーカーとしてのビジネスモデルが成立しなくなっていった時代なのだったと思い返す。いわゆるバベルの塔の如き状況に、アナログ技術からデジタル技術に遷移する中で必要な技術(IPR)に大きな壁が出来てしまい旧来簡単に出来てきたことにのデジタル化する為の難しさがシーズとニーズの双方にギャップを生み出してしまったことだったと思う。

したがって自分自身が経験して積み重ねてきた様々な組み込みソフトウェアという流れを昇華させてデジタル時代に対応させていくということが仕事の上からは達成できる環境ではなくなったということでもあった。無論会社の期待値として、一般的なテンプレートを適用していわゆる年功序列として職制を変えさせるというのも結果としての期待される会社側のアクションだったのだろう。まあシンガポールエアラインのフライトアテンダントの如き物理テンプレートを通れないかどうかといった試験があれば、それはそれで可視化するということも含めて納得するのだろうが・・・。

成長していくデジタル化の上でのソフトウェア開発が如何にあるべきなのかという問いかけについては、世界にもあまり多くの事例が見られるわけではないようだ。問題の多くは、アナログ時代からのソフトウェアアーキテクチャー自身からの移行に際して元々のアーキテクチャー自身をクリーンアップすることが出来るのか出来ないのかが鍵になっているようだ。そうした中でデジタル化の中の通信技術としてのIPRを押さえてビジネスモデルとしての技術開発・提供・フィードバックというサイクルを達成した会社も事の本質においては、先の会社で見かけたようなクリーンアップ出来るのかどうかという事は共通の課題であると感じるようになった。

十年目を終える際に、私自身が達成したいテーマは、この環境で、結果としてクリーンアップされたものを提供できるのかどうか、あるいはそれに向けた仕事が出来ているのかどうかということになる。

ハンコック

ウィルスミスである、最近はCGなど含めた映画の撮影技法が進化して、さまざまな表現が出来るので神がかり的な内容まで荒唐無稽なストーリーも二時間といった映画表現に収めることが出来るようだ。さて、そのウィルスミスを私が初めて俳優として認識したのは、インデぺンデンスデイ(1996)であり既に12年も経過していたのか・・・という感慨もある。相変わらず颯爽として風貌のウィルスミスは、青年から父親といった世代の役どころが増えているようなのだが変わらない気もしている。

ジョーハンコックという名前が、すでに神がかり的なものだったのかという思いは、何か世代を超えていき続けている人が人類を説得しようとしているのかという観点にたったものかも知れないと感じたりしている。ハリウッド映画なので、スカッとする終わりになっているのは皆、途中で大きく裏切られた上で安心してオチを期待できるものだった。

自費出版から企画出版へ

「移動通信半代記」「私の出張」という2冊の本を私の前の会社の先輩が出されていた。前の会社を辞めて9年にもなるので、タイムリーに情報が入ってこなかったとはいえ、私の付き合いの薄情さが表れているのかもしれない。反省をしている。今日はハムフェアの会場で、昔の仲間と会い、その際知った次第である。私が知っていたのは最近のRFワールドに書かれていたのを認識したぐらいだったので、そのことかと聞きなおしたところ違うらしいということで帰ってからネットで検索して早速2冊の本を手配することができた。

さて、その先輩は書名にも表れているように移動無線の開発に従事して移動機からシステムまでに携わり世界中を旅して工事をしてきた方でもある。さまざまな経験が「僕の出張」には書かれているのだと思うし、また読めることを楽しみにしている。前の会社は国内の電機メーカーにあってはとてもベンチャー志向の強い会社だった歴史があり、そうした時代を過ごされた先輩や小生も含めて有益な情報があふれていると思う。会社としてのライフサイクルが目的を果たしたような状況だという感触を持たれている昨今、先輩達の話にもう一度耳を傾けることが必要だと思ったりもするのは単なるおせっかいかも知れない。

さて、そんな先輩が定年退職を契機に自分史を書き起こそうと自費出版をする流れで2冊を起こし3冊目は企画出版に至ったというのだから先輩の作家としての資質あるいは経験豊かなエンジニアとしての確かな心眼が認められたということでもあろう。小生も転職を契機に思い悩んでいたことをしたためる展開となり転職顛末を書き起こしてPDFで配布したりもしていたので気持ちは通じるところである。転職顛末に続いて書き起こそうとしたソフトウェアエンジニアとしての20年あまりの歴史を整理しようとしたのだが、あいにくとWindowsクラッシュとともに失ってしまった。事故を契機に少し意識が遠ざかってしまったのだが、先輩の本を読むことで、またムラムラと書きたくなる衝動が帰ってくるような予感もする。

デトロイトメタルシティ

さて、松山ケンイチの作品は、毎回新しい何かを見せてくれるので楽しみである。
今回の作品では、また新たな色を出してくれたのではないかと思った。
松雪泰子のはじけ具合も、この映画の味わいだったと思う。最近の邦画は楽しい。

コミックベースの世の中になりつつあるのが日本の実情なのだろうけれど、国としての仕組みは追いついていないのが最近の諸外国でのコミックブームあるいはオタク文化の広がりとともに問題となっていることに気が付いていないのは、オリンピックでのふがいなさと合致するように感じる。国の政治も一度リセットしていくには女性総理にでもすることが肝要な気がするのは気のせいだろうか。戦争を戦い抜く気概があるのは、ソフトボールチームなどから学び取るべきだと思う。

ジャージの二人

鮎川誠と堺雅人の異色な親子という取り合わせである。
監督は、アヒルと鴨のコインロッカーの方ということだった。

軽妙な進行と、背景にあるものとのミスマッチなどが面白く楽しめた。
繰り返し見てみたい映画だ

里帰りのC3-PO

C3POといっても、スターウォーズではなくて1984年に当時の組み込み8ビットマイコンの潮流だったHD6303に合わせてMicroC6809をカスタマイズして並のアセンブラ以上のコード効率を追求した実用型のサブセットCコンパイラのことです。本サイトでも紹介してきましたが、管理の杜撰さで最近サーバーから失ってしまっておりました。

ネット上をググっておりましてから、青春の記念碑的なものを喪失してしまった感傷にひたっておりましたが、拙作のものを保管されて組み込み趣味を実践されている方のサイトに出会い、4年ぶりの遭遇と共に最近の一年あまりの喪失を一気に取り戻させてくれる嬉しい事件でした。インターネットのつながりは良いですね。

Cross C Compiler Processor Orientedという長ったらしい名称をこじつけて C3POと呼んでいた次第です。

今、マニュアルを読みなおすと、細かい間違いなどに気が付きますしコンセプトとしての組み込みのハードウェア状況が変わってきた中で、現状にはそぐわないと思う部分もありますが、当時の組み込み状況では十分な機能だったと思います。64KBの空間しかない端末開発をC言語で実用化したという実績は十分なものだったと思います。当時の最初の製品は16KBのROMと2KBのRAMだったと思いますし、6303Xのみで作った道具もありましたから・・・。16KB ROM(ext)/192B RAM

業界独り言 VOL344 携帯電話開発共済という考え方

携帯電話というビジネスを回していく上では、必要な技術として3GPPあるいは3GPP2にまつわるプロトコルセットとしてのソフトウェア技術・サービスとして各キャリアが行っていることに呼応できるローカライゼーション・携帯端末としての消費電力を見つめた上でのプラットホームアーキテクチャーの構築・開発環境としてのプラットホームのデベロッパーへの寄与公開などが必要となる。いま私が身を置いているQuadという会社では、携帯電話に関する所要技術に関しての開発共済とでもいうようなビジネスモデルを実践している。Quad社のビジネスモデルは、現在の国内での厳しい携帯電話開発という市場に照らしてみてもリーズナブルな内容と映るのだがパテントベースでの横暴とでも映るのか実際の恩恵の享受という評価などは抜きに固辞するという流れが多くみられる。

日本という鎖国市場において歴史上のバンドリバートという政策決断からハードウェア的にも独自の道を選択してしまうことからガラパゴス島と同様に扱われてきた経緯がある。無論日本が世界に展開していきたいという目論見から所謂IMT-2000に向けて取り組んできた流れを断ち切ってしまうことになる契機を与えたのもQuad社かも知れないし、IMT2000への道を示したのもQuad社かも知れない。日本という狭い国土の上で異様に膨れ上がったニーズをすべてセルラーに押し込めることになったのはある意味でDoCoMoの奢りといえるだろうし、せっかくの国策で開発してきた新しいインフラであるマイクロセルのPHSを駆逐する必要もなかったはずである。技術展開して国策として加速していく上には目の上のたんこぶとなっていたのかもしれない。

まあ世界的な流れでいえば1999年3月の集約の手打ちということになり3GPP/3GPP2が共存するという形になり、欧州では必要のない3GPPへの移行などがなおざりになったのは現行システムが容量破たんという事態ということになっているわけではなかったからでもある。DoCoMoが一生懸命に標準化活動をしてきても国際的な温度差も含めて実用的な状況にいたる過程での時期という観点でいえば尚早だったのだろう。容量解決策としてのPHSはお取りつぶしというような意識で考えていただろうし、相互補完するはずのものがコンペティターとして消去せざるを得ない状況になったのも悲しい話である。日本中の電信柱やアパートの壁にISDNのネットワークを張り巡らした様は陳腐な文化の隘路だったのか・・・。

開発を共同で出資して、行い完成物を無償ではなく有償公開することで保守運営をしていけないのかというような実験的なアプローチについて考えてみる。個々の会社が開発投資することに対して不採算とみられる昨今の携帯電話の開発が集約されて日本としての組み込み開発のペースとして共有されるのならば如何だろうかというものである。こうした開発成果物が有償公開することで還流運営が叶うのならば、意義深いものかも知れないが、現実には、そんな結果にはならないのだろうか。開発成果を理解しうるだけの人材を保有するだけでも実際には大きな問題であって現状の日本のメーカーではそうした体力知力が伴わないらしく、新興の団体でそうしたことを実現するのもより難しいということで結ばれてしまいそうだ。

業界独り言 VOL343 サンダル原人、再び現る

久しく聞かなかったいや見かけなかったサンダル原人が、あろうことかサンディエゴで発見された。早速インタビューすると、長年個性と信じてきた高尿酸値の結晶がついに完成してすごい痛みを伴い、靴が履けなくなったそうなのである。現地で、知り合いを篭絡して、昼飯を馳走するとして呼び出しサンダルをショッピングモールで買い求めるという大胆不敵なスタイルは、かつて港北地区で見かけたサンダル原人と同種のDNAを共有するものらしい。

かつての種は、毎日何度も、私財を投じて社内の喫茶室を使い、自己投資として、出入り納入業者に対して、前向きな形での今後の志向する技術動向についての指針を示すことで、納入業者が自ら色々なサポートを講じたくなるという高度な技能に長けた原人であった。貨幣価値の異なる用語を用いて業界実体と会社実体をFX取引のごとく幻惑させてきたスタイルは、実際に誰も損をすることなくうまく情報や技術が共有されるメソッドだったのだが、そうした技法は会社運営から評価されることは無く、早期退職を課せられた上で現業職を嘱託として実施するという状況になったという。卓越した人徳の持ち主でもあるサンダル原人は、そうした状況でも仙人の如き達観した落ち着きを持ち日々心を落ち着かせながらもくもくと業務を進めているという。

そんなサンダル原人のうわさも、風の便りになってしまった昨今、西海岸のサンディエゴに登場した新種のサンダル原人も同様なDNAを共有する趣がある。経済技術開発活動の潤滑油としてのスタイルを良しとして、進んで難しいテーマに進んでいくさまは、どこかの中世の寓話を思い起こさせるものでもある。かつて、仲良し開発共同グループを通信業界に生み出したサンダル原人をはじめとする先達の動きを再実践させ、その実現に身を投じているさまは、滑稽と映るかも知れないが、サンダル原人のDNAにとっては狂信するいや共感する活動なのである。資本主義の下での自由競争についての疑問が起こりつつある昨今、こうした共同組合のような活動で実際の製品開発や技術共有がなされるのは、オープンソースでの開発とは一線を画するものだといえよう。

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