業界独り言 VOL361 何を新年に思うか

か つてないような世界同時不況の中の歳末・年明けとなった。今年は、きっと公務員を始まりとするワークシェアにでもなるか、卒業しても就職先のない学生が、 ずるずると進学するといったような状況にでもなるのだろう。右も左もマスターやドクターだらけになっても結局のところ仕事がないのであれば、この国にいる 必要がなくなりそうだ。自分たちの生活レベルの切り下げを受け入れられるような状況にするためにもセーフティネットを張り巡らす必要があるのだろう。携帯 業界のソフトウェア開発会社も破たん撤退が音を立てている。あと半年もすると、派遣社員でない人たちのレイオフというよりも会社倒産が続いてしまうのは致 し方ない。

土建業界のような図式で人足を販売してきたような状況の会社は当然のこととして、業界のデファクトとしてスイートパッケージだとタカを括っている人 たちもロボットの登場で追いやられてしまう。アイデア一本で、ぷよぷよで財をなしたような時代に戻りそうな予感もある。クラウドの時代の中で、4Gに向け て加速する一方であり、従来の図式で開発してきた組み込みの世界に終焉が訪れるのか新たなアーキテクチャで刷新される時代に入りつつある。この予感を感じ 取れない人や会社は世代交代に呑まれていくのは世の常としていたしかたない。

自らの手を汚さずに、仮想空間の世界を使って実世界のシミュレーションをしてスパゲッティをスマートに食べたいという人がいるようだ。仮想マシンの うたい文句に踊らされて、最先端のチップセットで複合で動作している込み入ったシステム環境が仮想マシンで再現できると信じているのであるのなら、私が暮 らしてきた30年間の世界の中の仮想空間の章をその人物を称えることで引退することにしよう。先日、母校で若い学生に問うたテーマに仮数で二桁程度しか取 れない計算尺で世の中を操ってきた時代の産業立国日本というものがあったが、位どりも出来ないでこうしたソフトウェア開発に坐しているのだとすると日本の 将来は真っ暗である。

シミュレーションで出来ることは、ある。それは確かに存在する。しかし、実マシンでの挙動のふるまいの範囲に踏み込まずに最適化もなさないままに道具とし てのプロセッサモデルを複数持ちだして、共同運行してマルチプロセッサをダイナミッククロックで動作させたいということをこともなげにおっしゃるのには反 論する気すら失せたのである。まあ、そうしてデバッグ検知したい内容はといえば、自分たちの開発したソフトウェアのメモリーリークにもとずくシステム不穏 動作をいち早く検知したいのだという。このギャップはいったい誰が責任をとって教えてくれるのだろうか。

今の世の中の主流としては、ユーザーモードに移行してアプリケーション同士が干渉し合わずにバグがあれば、アプリがしんでしまうというiPhone やノキアな世界か、仮想マシンでもともとアプリを開発動作させるというイケメンロボットの世界かということになっている。ワンチップでプリサイスに積み上 げた箱根細工の世界で世の中を驚かせてきたバイナリ環境もあるのだが、見た目に走って中身を顧みないままでは、結果として花開かずに却って無駄足を踏んで しまい、いつまでもソフトウェアが安定しないという最近の世の中の状況では許されないものになっていはしないだろうか。

そんな開発スタイルを変えずに唯我独尊で、シミュレーション環境として精緻な検知機構を設けて解決したいというのは虫がよすぎるというよりも、先の 計算尺でいうところの指数計算が出来ない性能予測が出来ないということを端的に表していると思う。なかなか見つからないバグを予兆で捕まえたいというので あるが、はたして見過ごしてきたバグが発生するまでに様々なケースの試験を実機で行うような開発スタイルでは、いくらツールがあってもその20db以上の 時間を費やしてようやく検知に至るというくらいのギャップをご理解いただくべきなのだが。

実機とシミュレータのうまい連携というものがあるのかも知れない。そのことは、私の30年あまりのソフトウェア開発の総決算としてアイデアを追いか けるべきテーマであるのだが。はたして、このお客様が、知り合いの出来あいの道具を、そのEDAベンダーを垂らしこんでみたところで自らが設計するでもな い大規模なシステムLSIに対して適用するための足がかりにすらならない。まあ、少しでも前向きにとらえて自らの中に昇華して解決策にしていくにしても、 まずは正しい開発方法論にかじ取りをすることを始めないとワークシェアするにしても、もとよりそんな無駄な仕事に開発をすること自体が間違っているという ことになるだろう。

LTEや4Gを目前にしてあと2年ほどで、必要な基盤ソフトウェア環境の刷新が必要ならば取り組む良い時期である。今までのような馬鹿話や力ずくで 解決できる時代はなくなってしまった。つくづくソフトウェアエンジニアにとっては良い時代が到来したといえる。右から左に仕様書でものづくりをしているよ うな時代ではなくなった。さて、そんな時代に陥っていることを若い学生は知るべきだろうし、教える先生方も認識を改めてもらう必要があるのは当然である。

業界独り言 VOL360 輝く若い瞳の前で

前 々から話をしていた、若い学生の前で、これまでのエンジニアライフを語ってみたいというチャンスが訪れた。母校で教鞭をとっておられる先輩との話が実った 経過でもある。予算消化の観点から来年一月までに適用できなければならないというお役所的な事情もあったようなのだが、こちらも年越しのクリスマス休暇と お客様のサポートのピークなどから出来れば、出張明けの代休日程とを掛け合わせることで、ようやく一日を作り出せることになった。土曜帰国で日曜着という ケースについては、会社として代休取得が認められるのである。

さて、学校からの要請内容は、企業で働く人から有益な話をしてもらうということがコンセプトでの一クラスらしく実質的に30分ほどなのだという。エ ンジニアを目指して?高校ではなく高等専門学校に入学してきた?一年生に・・・・、どんな話があうのだろうか。この不況の現状でエンジニアとしての将来に ついて不安視してしまったりしているのではないか、あるいは高専卒としての就職自体に不安を感じているのかなどなど、悩みは尽きないのである。自分自身を ケースにおいてみた場合には実際の就職時期は超氷河期だったし、そんな中で様々な経験をしつつも好奇心ひとつで何とか楽しく暮らしてきたという自負があっ た。

はたして、いまどきの学生の意識が同様なものであるのかも不明なのだが、海外出張の直前に日程が固まり、帰りのフライトで内容でも組み立てようかと 安易に考えていた。ネタ自体は、この会社での10年ほどのグローバルでの活動や、まえの会社での23年ほどの様々な組み込みエンジニアとしての活動などい くらでもあるし、実際問題として業界独り言自身もそうした性格のコンテンツともいえて、バックナンバーも大分たまっている。インパクトを与えた形で話をす るというのなら、30分では足りるはずもないのだが。やさしい会話をする気もサラサラないのでまずは資料はすべて英語で書くことにした。

おそらく先生からは、やめてくれとか、居眠りを助長するようなことになるとか色々言われるのかもしれない。だが、もうそんな時代ではないのである。 英語で話すといっているのではないのだ、日本語で説明しようと考えているのだが、なにせ彼らが巣立っていく時代に日本語のみでエンジニアの仕事が賄える時 代では、とうていないことを明白なのである。少なくともそんなインパクトはもってもらいたいのである。今、たまたま在籍しているQuad社での仕事につい て語ってみたところで、その段階で先生との間のギャップも広がるだけなのだと思う。

さて、出張先でまずは、会社紹介ではないのだが、一応せっかくの出張なので会社のグッズコーナーで学生の人数分のお土産を手当した。40名はいない だろうと勝手に踏んで、ボールペンとシャープのセットを40セット、あとは先生へのお土産を買い求めた。いちおう人数確認をしようとメールを投げたのだ が、時は金曜、日本は土曜で先生からの返事を得ることが出来なかった。とりあえず、成田空港からお土産は先生宛てに宅急便送付して水曜の際に使うのでとい うことをメールで伝えた。帰国後に確認できたのは43名在籍で、1名休学中ということだった。

二つ不足してしまう。先生へのお土産を優先グッズとして何かの景品にすればよいというのがとりあえずの回答だった。あとはなにか、会社の中で Give a wayでも探すことにした。月曜、火曜の仕事をこなす中で、会長からはペン付きライトをゲットして、さらに使っていなかった会社ブランドのリュックとノー トケースを見つけてなんとか準備は完了した。説明するのは水曜の第二時限のクラスということで横浜からは東京湾アクアラインの高速バスで向かい、先生に向 こうのバスターミナルで拾ってもらうことにした。生意気な後輩とはいえ、一応は、学外からの講師という扱いのようだ。

さて、会社の対外説明用のパワーポイントと、自前のパワーポイントの二つを用意した。二〇一一年の先に巣立っていく学生達とは、現在の4G開発の先 に出てくる有用なエンジニアであるはずなので、その時代までに時代が変わってしまうことも十分に認識してもらうことが必要だし、その時々の技術を学んでい くことの刺激を楽しんでもらいたいからに他ならない。パワーポイント以外に持ち込んだものは、実は電卓であり、いまではiPodのアプリとして使うあるい は日常は使わなくなってしまったものという意味でiPod Touchも携えた。先生に伺い計算尺もお借りした。

私が一年生の頃に使ったのは計算尺であり、五年の時に使ったのはHPの電卓であり、いまは、iPodの世界あるいは、Excelの世界ということで もある。自分の紹介をしつつ組み込みエンジニアとしての仕事を楽しみが伝わるように話をしたつもりだったのだが、まあ若い学生の中で目を輝かせて聞いてく れたのは10名ほどだったようである。先生によれば、英語の説明がだめだとか、最初に会社の3G By何某の写真を見せなかったからだとか自分たちの現状との接点が見いだせなかったからという意見も拝聴した。たしかにそうかも知れない、そうした点につ いては改善をしてまた機会があれば取り組んでみたいし感謝している。

私自身は、この短いプレゼンテーションというか講義でとっても疲弊してしまったのである。なぜか理由はわからないが、若いエンジニアの卵とのタイマ ンを果たし結果なのかも知れないし、たまたま出張帰りでの時差疲れからなのかも知れない。学生達は、すくなくともこの私からのメッセージに対しての質問を いくつかはしてくれたし、レポート提出を必要とする形式のクラスだったらしく、ぜひ先生からアウトラインでも反応を伺いたいものだと思っている。次回の可 能性は、もう少し高学年のクラスに対して、講堂を使ってやりたいということらしく、またもう少し準備をしておきたいと思っている。

業界独り言 VOL359 肩に力で、空回り

米国で、いつもの一週間コースの出張があった。日曜フライト・土曜帰国で、日曜帰着のパターンである。時差と食事のギャップでバランスを崩しがちで、体調維持に関しては、気を配ることがとりわけ必要だ。アメリカンな連中と同様の食事をしてしまったら、過剰な果物採取となり、この点についてはとりわけ注意されたので、今回の出張では朝食のフルーツは一切摂らなかった。とはいえ、ヨーグルトに入っている果物くらいが辛うじて取り込まれたものとなる。

空転している感のある、日本国内向け端末開発の実情の中で、なんとか元気を出して頑張ってほしいという期待もあり、トラの子ともいえるキャリア・メーカーとの米国での会議なのだ。とりわけ開発ボリュームとの予算調整が念頭にあるのが最近の日本の開発事情で、ソリューションプロバイダーとしての Quad社として単純に改善解決策を提示しても取りつく島もないということになる。徐々に改善していくことしか出来ない状況では、衰退していく流れを止めることは出来ないのではないかという漠然とした不安がある。

世の中は、オープン化の声が強くなり、すでにロボット化計画の中での商品も登場してきたし、林檎農家からは、通信販売のキャンペーンが強く打ち出されていて電話に限らずPDAの範疇でもゲーム端末としての位置づけを強くして暇つぶしマシンとしての地位向上を宣伝している。クールなゲームが簡単に購入できるという仕組みは、ある意味でニンテンドーも達成していないモデルであり、危険な香りすらある。あくまでもCPRMやカートリッジでの仕組みに拘っている日本では相容れないということなのだろうか。

Quad社内でもロボット開発の匠たちが、多くの開発メーカーのサポート支援に乗り出している。いままでの携帯電話の開発メーカー支援とは大分趣を異にしているようだ。ARM7で始めた携帯電話の先進ソリューション提供・サポートビジネスも、ARM9でバイナリーの花が満開となり、ARM11との協調でオープン化に漕ぎつけた。いま、まさに鉄腕アトムがサソリと戦おうとしている状況になり違うフィールドが見えてきている。最前線でサポートをしているメンバーにとっては、新たな顧客の期待値や広がりを感じ取り始めている。

気軽に、Have a KitKatと言いながら、あらかじめ頂いていた課題を、それぞれの担当エンジニアチームに振り分けつつ確認準備するというのが最近のスタイルだ。私をキットカット小父さんとして認識しているのかも知れないが。とりわけ日本のオリジナルフレーバーの威力はすごいものである。ただ甘いだけのアメリカンなスイーツとは一線をひくのである。ときおり持ち込まれるひと箱のキットカットは、私と彼らの間の会話のきっかけであり接点でもある。今回の出張では、お汁粉キットカットと、ホワイトチョコキットカットでトランクがあふれかえっていた。

肩に力を入れずに進めようというコンセプトは重要で良いアイデアが出るのも事実であり、顧客を交えた濃いミーティングとフォローアップの中で再認識した課題は、Xmas休暇のあとに繋がるテーマとなり、年越しでの再開ということになった。年越しの間に進めなければならないテーマは別に片付けるものが山積している。クロックアップして対応できないお客様が悲鳴を上げつつも開発に邁進していただかなければならないのは、いたしかたなく。せめても時差のブロード対応でケアを抜けなく進めていく必要がある。

国内の携帯開発の仕組みに軋みが生じて、少しずつ変革しようとしているのが最近の動向であり、プラットホームとして選定してきた流れの見直しや、あるいはキャリア自身が課してきた仕様の見直しという流れになったのは必然ともいえる。面白いのは、キャリア内部での端末施策自身が衝突したり矛盾を生じてきていて、変革への呼び水にもなりかかっていることだろう。携帯の売り上げ自体は、良く分からない国策という名のもとに再構築を余儀なくされたのもよい契機だったといえるだろう。各メーカーが勝手に自前主義で構築するような時代は終焉を迎えた。

こうした仕組みにどっぷりと漬かってきたソフトウェア開発業界自体は、ある意味で将来認識が不足していたということも言えるだろうし、自らが主体となった開発というスタイルでなかったことが、自立を求められる時代には重い足かせとなってしまったようだ。メーカーが自らの自前主義の御旗のもとに作り上げてきた自社開発リソースとしての専業ソフトハウスの行方は、暗礁に乗り上げてしまっている。足切りとして取り扱われる限りには、実力が試される状況の中で本当の意味で良いサイクルが回り始めればよいのだと思う。

日本という国が世界中に売り込める付加価値について、日本のメーカーや技術者が再認識することが大切だと思う。どの国内メーカーも生き残りに必死な状況なのだが、国中の携帯の総生産を積み上げても世界の一翼に連ねる状況ではなく極端に高級化してしまった端末機能が世界の趨勢からは外れてしまってきている。むしろ尖がった機能の一つ一つをより楽しく見せるという意味においては、アプリケーション主体のプラットホームが成功を収めつつある。複数の機能を同時に動かしたいといったことに指向した流れで向かったものと相反する動きがそこにはありそうだ。

日本という国が持つ、インフラや文化でこそ、こうした新しいクールな環境やサービスを謳歌する一大テーマパークのように、することで観光立国も、サービス立国もオタク文化立国も含めて輸出すべきさまざまなコンテンツを抱えているのだが、楽しさを最大限に活用するという流れにならずに、無理をしてコテコテに合わせようという流れでは、かつての猿真似と呼ばれるような印象のものしか出来ないということに陥ってしまうだけだ。割り切りとバランスで尖がったクールな端末やサービスを提供していく、今までのサービスとの互換性などに縛られてしまう限りは世界遺産に登録することしか出来ないといえる。

日本の組み込み産業が空転することなく、新しい方向性に基づいた事業の流れに乗り、いろいろな取り組みが相互作用を果たして、結果として富国論につながるようなストーリーを政治が誘導していく必要があるのだと思う。日本がCDMAで敗れたのは、それ以前の国策の差なのだと思う。クラウドの流れを組み込みのサイドとしてどのように活用していくのか、光ファイバーで国中を結んでいる国情を活用したサービスと4Gへのつながりが考えられなければ、このまま日本の立ち位置は無くなってしまうだけなのだと思う。

業界独り言 VOL358 老師とのオフ会の二次会は延期

母校への寄付金払い込み手続きが完了するにいたった。承認をいただき、振込みを実施してい、さらに受領書を発行してもらい、これで確定申告には万全であり、世の中の不透明な不景気風の中で意味不明のメッセージを発信している政治に対して直接的に出来るだけ税金を払いたくないという気運にも合わせて、長年暖めてきたことが始めてみると意外に簡単に実現できた。無論、中学以来の身勝手な付き合いに付き合ってくださっている先輩のおかげであることはいうまでもない。

綺麗なテレビに刷新して、毎日とても綺麗なくっきりとしたスクリーンに地上デジタルの放送が、ハッキリしないニュースをつらつらと流している。すっきりした、溌剌としたニュースでも見たいものだが、綺麗なスクリーンから提供される悲しいあるいは、哀しいニュースの数々には、ますますガッカリしてしまうのである。思い違い殺人といった、ニュースの流れの源流が、ゆとり教育から派生してきたものではないと信じたいのだが、何か自分で手伝えることは無いものだろうかと考えてしまうのは歳の性だろうか。

昨日は、好きなシンガーのライブとオフ会を掛け合わせて、マイコン老師のD氏、同期のM氏と南青山のライブハウスで待ち合わせた。M氏の出向先は、実は自分の勤務先と目と鼻の先で交差点を挟んでの斜向かいの兄弟ビルでもある。以前から、そのことに気が付いていたので、彼に夕飯の誘いなども掛けたことがあったのだが、実のところ彼自身は、そのことが分かっていなかったようだった。以前に、東京の事務所に遊びにきてもらったことがあったのだが、今年からの出向生活では気がつかなかったようだった。 続きを読む

アメリカンな朝飯

ロサンゼルスでの一夜明けて、今回は余裕でホテルのシャトルでノースウェストの待つターミナル2へ向かいました。そうです、昨日のフライトでコネクションに失敗したのです。急遽空港ホテルでの延泊となったわけです。
朝飯は、当然空港ラウンジでコーヒーとクリームチーズ・ベーグルで済ませるわけです。ホテルのデラックスな朝食をとったところで、あとは飛行機ですぐに夕食が待っていますし・・・。まあ、アメリカンなビュッフェスタイルの朝食がデラックスなのかどうかは異論がありそうですが。ホテルによっては例えば台北のハイヤットでは、中華・洋食混在でのビュッフェでしたので、こちらは確かにデラックスだなぁと思いましたが・・・。
十日ほど過ごしたレジデンスインでの作りおきスタイルのそこそこのブレックファストが懐かしく思い出されもします。スクランブルエッグにサルサソースをかけて、青ねぎをトッピングするのですが、これは飽きないものでした。宿泊している日本人が多いことからなのか、早い時間にいくとご飯や味噌汁とうふ、フリカケなどがあり和食?をとることも可能です。茹で卵ではなくて生卵に美味しいのりが欲しい所ではありますが無い物ねだりですね。
さて、ソーセージとワッフルあるいはベーグルとヨーグルトとジュース・コーヒーでアメリカンな朝はスタートするものでした。

VOL07 GW目前 発行2000/4/28

新人が現場に登場する時期である、当社も日本人スタッフとしてハードソフトともに若干名の方を迎えた。桜のあとの春の気持ちの良い季節を新人の季節にしているわが国では、代償として小学生の長い夏休みを学年中に迎えるということが課題かもしれない。効率的に考えると夏休みを学年から外した米国スタイルは、あながち否定できない。実は、この事が国民性に大きな影響を与えていはしまいか。新人時代から四半世紀近くを過ごしてきた。温故知新でバーチャルな世界をかえりみよう。

トレーサー
1976年に仕事をはじめてから、はや24年を経過した。昨年の転職からも半年を過ぎて、ようやく新会社での自我を確立しつつあるところである。さて、25年前に学生最後の年にやったのは卒業研究である。高専では当時最終学年での一年間が卒業研究に当てられていた。まだマイコンなどない時代であり学校に小型コンピュータを導入しようという時代であった。仮想記憶で動作するので大規模な計算も可能である鳴り物入りで説明を受けたマシンではあったが、実際にはページングの嵐となり実用的な計算には程遠いものであった。予算から割り出されたマシンにすぎなかった。この当時入りたての富士通のマシンの上でOSの構造を調べようとトレーサーを開発したりしたのが懐かしい。命令をワンステップずつ実行させていこうというものだった。仮想的にマシンのプロセスをデバッグしたいというようなものであったかも知れない。割り込みの概念を学び機械語を学んだに過ぎないともおもう。この機械語で開発したソフトをFortranで作成したローダーでローディングしてコンソールパネルに向かって仕事をしていた。おかげでFACOM230の機械語を覚えた。翌年初芝電器に入社してからは、一年の新人教育で図学や製図・工作といった高専のクラスのようなテーマや販売実習といったものを経験した。会社の仕組みの中での難しさといったものもいくつか経験した。一年間の研修の後に配属になったが早速富士通への出向を命じられて1977年入社の富士通の導入教育のラインに割り込んだ。はじめて見るCOBOLなどの世界をみつつミニコンの技術習得が目的であった。当時のミニコンピュータは現在のエンベデッドな世界ににていた。開発マシンとターゲットが異なったりすることや開発ツールが不備だったりすることもあった。富士通時代のお客様は自動車工業関係が多くあるお客様の生産ライン制御システムの仕事では先方の寮に3ヶ月ほどを過ごす結果となった。

シミュレータ
生産ライン制御システムの担当ではミニコンサイドの一切合切であり、新人(?)一人である。判らないことは先輩に聞くというスタンスだが先輩もミニコンに詳しいわけではない。当然の帰結としてマニュアルとドキュメントと首っ引きになる。富士通の会社としてミニコンを支援しているのは当時初芝と共同出資して興したPANAFACOM(現PFU)である。開発ツールを必要とするのは常だが固定ディスククラス(?)を搭載した大規模のミニコンでないと開発が出来ないということがあった。新橋に当時あったFACOMビルには地下にマシンルームがあり、その一角にミニコンのマシンも置いてあり時間を予約して利用したりしていた。マシンを使用するために、深夜の作業申請を行なうのだ。こうした環境を経る中でミニコンという特殊な環境にむけた開発環境が不十分であり、同僚達が和気藹々とカードパンチに向かってソースデックに積んでは、ときたまばらけてしまったりする風景とは相容れなくなっていた。ミニコンのエンジニアは”暗い”感じがした。昼間から使える皆と同様な環境のなかで出来ないものかと思案していた。

問題意識の芽生えであろうか。ミニコンの開発ツールとして大型で動作するSIMULATORソフトが開発されていた。ミニコンのソフト開発用に作成されていたようだった。システムソフトの開発としてはモジュールをくみ上げるシステム生成あるいはリンクと呼ばれる作業が必要であり、この作業がシミュレータで動くのかどうかが鍵だった。サポート部隊に連絡をするとそんなことは考えても見たことがないし動くのかどうかが不明だという。ありがちな回答である。前向きな回答を出したところで支援も出来ないからである。ともかく「やってみなければはじまらない」ので必要なソフトウェア一式の提供をお願いして磁気テープの入手とユーザーで稼動しているマシンは夜間まで運用しているので深夜停止後から朝までが勝負である。

システム編集
普段はリアルタイムOSで立ち上がっている中型コンピュータをシャットダウンしてバッチ系のOSに切り替える。シミュレータは、このバッチ系のOSで動作するように設計されていた。実際にシミュレータで仕事をする為には、仮想マシンがデバイスをアクセスできるようにする
ことが必要だった。マニュアルでの見て歩きによれば仮想空間に物理デバイスをマッピングできるようだった。システム編集というツールを動かすには磁気テープデバイスが動作すればよいのだった。またシミュレータの上で動作するシステム編集というツール自体は独立で動作するOSの不要なソフトウェアとして設計されている。ユーザー納入先でOSを編集する為には致し方ないブートストラップ的な位置付けでもある。稼動させたターゲットOSがバッチの機能をもっていれば、その上で動作するシステム編集ツールもあるのだが、そのときのお客様の用件はミニコンはセンサーあるいは配信用のFEPであってチャネルとよばれる高速インタフェースで接続されており特殊な端末群を制御するDI/DOといったインタフェースがもうけられている程度だった。シミュレータが動作するはずの仮想デバイス経由での磁気テープの操作を仮想のミニコンコンソールから行いテープが「カクッ・・」と動作するのを確認した。「これで・・いけそう」と思ったのであるが実際問題システム編集ツールを稼動させると時々思い出したように「カクッ」と動作しているような体たらくで仮想マシンのスループットと実務のギャップを世界に先駆けて思い知った。磁気テープというものは、「ククッククックーッ」といった音で動作していくのが通常の動きである。こうした周辺装置とのやりとりは100倍以上の処理時間との差があることから、OSというものの価値があったのだが仮想世界では物理デバイスに指示を与えて次の命令を実行していくうちにもう入出力処理が終わってしまっているというのが実情であった。通常の処理時間に比べても10分程度で終わる作業が、その日の夜間マシン時間を殆ど食い尽くして終わるころには、朝が白々あけてきていた。77年のことである。市場にはTK80が登場していた。

遅くても効率的?
一晩かかったシステム編集作業であるが、マシンを求めて群馬県のお客様のところから大田区や新橋のマシンセンターまでの移動時間を考えるとあながち非効率ともいえなか
った。出来上がったソフトウェアは高速チャネルインタフェースで瞬時にターゲットのFEPであるミニコンに転送されて立ち上がる。ミニコンにはディスクもなくRAMのみで動作していた。デバッグコンソールを使って確認を進めていく。こんな生活をしていると一週間は三日でおわる。月曜日に出社して火曜日の夕方帰宅、水曜日から木曜日、金曜日から土曜日という次第である。何週間かへた結果,残業時間が180時間を超えていることに気が付いた。初芝から派遣・出向としてきている関係で初芝の組合統治からは外れていた。こうした勤務形態自体も学ぶべき対象ということであろうか。もとより深夜勤務などが強いられていた富士通にあってはこうした残業時間の考え方が昼過ぎから出社して徹夜をするB勤務などがあった。初芝にはA勤務しかなかったのでA勤務8:00-16:45を超えた時間はすべて残業時間としてカウントされ翌日は休日をとったことになっていた。こうした結果残業時間が180時間というような事態になっていたのである。昼間でもつかえる開発環境がほしいという痛切な願いと仮想的な環境でも今後はつかえていくようになるだろうという思いとが交錯して過ごしていった。ほどなくお客様の別工場に少し大規模のミニコンが導入されたことでこのマシンを借りてシステム編集が出来るようになったのでシミュレータとの付き合いは一ヶ月ほどでおしまいとなった。

続く。

VOL6 2000年4月 発行2000/04/13

すっかり、3月の独り言が抜けてしまった。忙殺の日々であった。残念ながら、体が資本で元気は満面なのだが毎日タクシー会社での送り迎えを続けている。初芝通信のAVMの動作をモニターしているような日々だった。すでに立て替えたタクシー代金は、50万円に届こうとしている。ようやく、そうした生活にも終止符が打たれようとしている、時は春でさわやかな季節である。

新人を迎える季節ではあるが、弊社においてはベンチャーでもありなかなか例年社員を迎えるという季節感はない。たまたま今年は人員増強を図るべく活動を進めているのだが思いのほか米国系の会社への転籍希望の声は出てこないようだ。英語の問題以前に、まだ皆終身雇用が続くという幻想を抱きつつもレイオフのほうが現実感があるのだろうか。倒産とレイオフは明らかに異なりレイオフはある意味において会社の積極的な展開といえる。

社内失業が最近取りざたされる中で日本の製造業においても積極的な人生観をもった後輩が出てくるのではないかと期待もしている。そんな中で、渦中の会社の支援を通じて製造業をはだで感じることができた。空洞化が進むこうした製造業といわれているが実際そうしたことでは物が出来てこないのであってやはり抑えるべき人達はいるのである。

支援している会社に手取り足取りしつつ支援をしていく過程には、商売という側面から致し方ないと思いつつも教えを受けておられる方々のプライドもやはりあり、そうした事を理解しつつのコミュニケーションが求められてきていた。人生の勉強は日々続いてゆくものである。

久しぶりに日本の社員食堂での暮らしをするなかで、水準以上のものが、そこにはあり大阪と横浜で経験してきた会社でのそれと比較しても楽しめる生活であった。立場を逆転したとはいえ対等に話を進められるバックボーンがあり自分自身が会社の代表としての接し方をしていくことを日々責任を感じつつも充実した生活となった。

米国本社との協力を得つつの生活ではあり、技術トップのVPを迎えて一週間みっちり自分自身のOJTも兼ねつつ日本のお客様の設計手法と米国のそれとの差を学びつつ互いに議論していた。気が付くと英語で独り言をしゃべっている自分がいた。横にいるVPとの意識共有をしていく上では英語でしゃべり考えていることが必要なのだったが思いのほかそれは実際問題慣れで解決するのではないかと最近は思っている。

こんな中で支援先のRFエンジニアの方に引き抜きの話が来ていることを伺った。休日を圧して共同作業しているときではあったが私の境遇をしっておられることもあって、悩みを打ち明けられたようだ。確かにRFエンジニアに限らずソフトウェアエンジニアも含めて業界が流動的になっているような面も見聞きする機会が増えている。

物をつくりたいという思いの人にはメーカーという選択肢がベストであろうし、長年そうした中で仕事を進めてきた過程で指導や共通的な先進技術を志向していくことを良しとする人にとってはわが社は悪くない選択肢であると思うのだが、みな人生の一大事ということもあってなかなか実を結ばない。

すこしでも相互のためになるという解の一つは不遇な人事処置を取られた現場の技術屋さんの転職である。cdma業界からの引き抜きはそうしたバックボーンに根ざしている。自分の境遇に不満をもちつつも積極志向をすてない人がわれわれの求めている人材である。わが社に引き抜いた場合には他社も含めて業界の前進につながるという理解をしてくれるというのが最近ようやく迎えたT社からの後輩の事例である。とはいえ「最後まで英語の日常化という観点が大きくのしかかっていた」とは後輩の弁でもある。いっそ大学を向こうですごした学生を最初から狙ったほうがよいのではないかという話もあるが帰国子女といった線もまだ捨てきれないでいる。

境遇や会話能力よりも考え方がしっかりしている人であれば何でも出来るのになぁと技術者から転身して数学の先生になってしまった女性を思い出してみたりする。自分の人生の演出を会社からのシナリオに縛られてしまう人が多いのではないかなと思うのだが、自分自身の8ヶ月前を思い出してみてもなかなか自分の殻をぬけるのは至難の事なのだろうと納得してみたりもしている。

母校を訪問して新世代の学生をベースに話を進めてみるのも一興かとおもうが、そうした事を前の会社でもしていたなと思い出している。「先輩がいたので、この会社に来ま した」と話してくれた後輩に退職の話を切り出すのが苦しかったのを思い出した。しかし、学校訪問の時の自分と今の自分には何の差もなく、このまま自分のシナリオと会社の台本とに大きな開きがあるままに自分自身を偽れないという思いがあったのだ。

忙殺される日々を縫ってほかの人から紹介を受けた候補者の面接をしたりもしてみるがなかなか皆さん。難しいようだ。いっそ自分の見知った人でもって腐っている人がいないかと思うのだが会社も離れてしまうとなかなか話し掛けるのもつらい。いつでも門戸は、開いているのだがと事あるごとに伝えることしかなさそうだ。

たまの休日に祐天寺のカレー屋さんをたずねた。優秀な後輩を思い出しつつはじめて 降り立った祐天寺である。模型が配達してきたカツカレーはまた格別だった。またぞろ気持ちが騒ぎ出してTechnoWaveよろしくウォーキングをはじめた。世田谷線が見たいという細君の希望にそいバスで三軒茶屋まで抜けて住宅地を走った。こうしたところに引っ越すのもよいかなと都心への移転も考えるようになった。

借金返済のカセがなくなると人生自分自身にさらに新たな課題を自由にかけられるようになる。二子玉から等々力渓谷までのつもりが多摩川園まで堤を歩いてしまった。桜が満開だった。いつも街道沿いに見てきた桜を車窓から見るようになった。東横線の高架線計画の完了は今年中なのだろうか。夜桜でなくグランド越しの昼の桜を見たいものだ。

VOL5 2000年2月 2000/02/28

業界独り言を書き始めて、毎月一回のペースを守ろうとしていたのだが・・・。ニッパチのたとえもなく忙しく毎日が深夜タクシーの日々である。

初芝を離れてから初めて初芝通信の家庭用PHS端末を購入した。コードレス電話である。コードレス電話であり、外部では公衆として使えるという本来の売りがようやく我が家にも遅ればせながらやってきた。既に利用していたシャープのPHS端末も苦労のかいあって登録できた。しかし、ナンバーディスプレイ対応のこの親機を使うためにはTAを買いかえる必要がある。本来のISDNの機能をインバンドで実現しているナンバーディスプレイの機能のためにまたTAを買いかえる羽目になったのは納得しがたいものがあるのだが・・・。

こうした矛盾をついていても仕方が無く必要な機能のためには目をつぶって導入して行くしかないのだ。もうISDN接続の親機を作るメーカーはいないのだろうか。通信機メーカーのリソースは全てCDMA関連や次世代の5Gに向けられているようだし2005年には有線電話はなくなると豪語しているメーカーもあるようだし、ISDNに固執しているとどこかの研究所のように誤った方向をとめどなく追求しているようなことにもなりかねない。

レトロ趣味として取られてしまいかねないのだが、PHSの実力はユーザーからみるとたいしたものでパケットONEでもなんでも価格もスピードもたいしたものである。i-MODE版のEDGEが一番よいのだが無いのだ。電車での通勤が多いので(朝は・・・)車内での会話は携帯のメールの費用に終始しているような気がしている。それくらいメールが携帯ですることが当たり前になっているらしい。WCDMAが始まる前にi-MODEでトラフィックを低速分散させる狙いは功をそうしているがそうした流れとWCDMAで期待する価格との開きに付いてはよくものを考えて行く必要があるだろう。

会社に頼んで必要に迫られてDDI-Pの64KPHSカードを導入したが中々よいのだ。個人所有していたシャープのそれがようやく奥さんのモバイル用途に専任できそうである。通信と時差を超えて暮らしているのだが積極的に時差を活用して相互の力を発揮すべく立ちまわりたいと思いつつ深夜を越えて時差の国と電話をしてしまう実情の自分に腹を立てている今日この頃である。

自分の存在理由を確認すべく一年間をその模索の日々として捉えてきたが半年が経ち、いくつかの存在意義を明確に認識し活動のベースポイント切替を行うのが来月の仕事である。半年で英語があまり苦にならなくなってきたのは良いことであるが、日本のお客様の実情を米国のメンバーの開発方向性にまで反映して行くことの難しさは会話の単語能力の差を思い知ることで毎日がやはり勉強の日々である。中々アーサーランサムを読み進めようという目標が達成できない。

業界独り言 VOL04 2000年突入

イリジウムのおかげです。メーカーからみると悪魔の囁きのようだったイリジウム電話である。ニーズは確かにあるのだがメーカーの皮算用から見れば無いのに等しいのかもしれない。無いのに等しいようなユーザーに身内がいた。実兄は、昆虫標本商を営んでいるのだ。東南アジア地区でのPHSの基地局が蟻に襲撃占拠されるなどの事件ではお世話になったが、その後、例によって音沙汰がなかった。

正月の実家訪問で数年振りに、その実兄と会った。最近標本商以外に新たな商売をはじめたそうである。生きている昆虫、とくに甲虫類の斡旋ができるように法律が改正されたそうでこの商売を始めているようだ。南米の奥地から、モンゴル高地や東南アジアの島々に派遣している採集人とよばれる人々との連絡にはイリジウム電話が有効であるようだ。

DIMEに出てきそうなどこかの冒険先生みたいな輩が身内にいたとは灯台もとくらしという奴である。さて、くだんのイリジウムがモンゴルにあると何が起こるのか、・・・・・。実は、用も無いのに電話をかけてくるのである。「新種の蝶がつかまった」というような嬉しい電話ならともかく、「今日は収穫が無かった」という電話が入ってくるようになった。

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業界独り言 VOL3 99 年の瀬

近頃タクシーに乗ることが増えた。師走に限らないのだが、初芝通信そばの某メーカーに通うことが増えたためである。初芝時代に開発した無線機が搭載されているタクシーに出会うと懐かしい仲間に出会った気がする。幾つかの交通手段があるのだがいずれの駅からもそこそこ同じ程度のタクシー料金となる。先日は、初芝の裏を抜けて鴨居駅まで歩いた。ボーナスが出た街には賑わいがあるようにも思える。

外資系にいると日常が日米の文化の狭間に悩むことがおおい。サンクスギビングに続いてクリスマス休暇である。よりによってこうした時期と日本の御客様の開発支援が重なってしまう。お客様の問い合わせが堆積していく。電子メールによる照会システムの入力がキューのままになってしまう。ジョブ割付が自動化されていないためでもある。感極まって、西海岸まで訪れるお客様も出現するが、クリスマス休暇の直前に訪問しても技術者はすでに休暇に入っている。人によってはそのまま年越しの休暇に入る人もいる・・・。

のんびりしていると思う反面、年の瀬の挨拶が日本で始まる頃にクリスマス休暇明けのメンバー達は、30日まで出社して仕事を続ける。日本オフィスは時差もあって二日早く休みに入る。年明けは、日本は5日くらいが良いところだが向こうは2日からは始まる。平均すればどちらも同じだろう。仕事を頼みたいときに向こうが休んでいると腹が立つのは情けないことだ。マイペースの気持ちをもう少し来年は取り入れたいものだ。2000年問題の年の瀬であり、システム対応のお客様もいらっしゃり麻雀卓を囲んでのんびりと会社で過ごす役員の方もいるらしい。

はじめて、コミケに出かけた。文学オタクのコーナーもあるようだった。アーサーランサムの同好会があるときき出かけたのだが見つけることができた。英国で書かれたこの冒険小説は、私の文章に影響を多大に与えている。来年は、英語の語彙をもっと増やしたいと思い、この昔読んだ冒険小説を原書で読むことにした。文書をよみつつ心躍らす領域にまで達したいと思う年の瀬である。