VOL16 事務処理に追われる 発行2000/06/22

久しぶりに落ち着いて席にすわり幾つかの案件の谷間になったので事務処理を始めた。3ヶ月分の交通費の精算処理である。深夜タクシー代金の額が嵩んだ。35万円ほどの立替額になっていた。6月分からはそうした費用の額がへり、ようやく昨年のノンビリと余裕の生活パターンに近づいてきている。我々は忙しいお客様を助けて楽にするのが仕事であり、余裕をもって仕事が進められて当然なのである。我々が忙しくて顧客の対応が出来ないようではいけないのである。とはいえ、異常な状態が続いていたことから、ほっと息をつきこうした事務処理をしていると、まだまだベンチャーだと実感する。

しかし、Excelの帳票に入力して印刷してサインをするというのはまだ良いと思う。初芝時代を思い返すと紙に細かく書き込んでいたことを思えばベンチャのほうが気楽だともいえる。事務処理の傾向としていわゆるインタビューをする費用が増えてきた。本来、もっと早くに始めるべきであったのだが、無理を言って聞かないお客様に遭遇してしまったのがある意味で不幸である意味で幸せだった。忙しさの極限でQuad社がなにを出来るのかという点とお客様との接点においてどんなことから切り崩していくべきかという洞察力を養うという点である。現場現物でCDMAを学びそしてお客様を支援していくことがより深く出来る事になった。

Quad社を取り囲む状況は数多くの顧客と繰り出していく技術展開とから暇になることはないのでといっても忙殺されて三和タクシーを呼びつけて名前をいうと家に到着してから起こしてくれるというような状態ではない。忙しいから球場に野球観戦に来ている最中でも日本のユーザーとの電話会議にでてコメントを話すといったたぐいである。時差がこうした点を祖結合にしていて疲れは少ないようだ。無論お客様との関係をタイトに考えてしまうタイプの人は重荷を背負ってしまうのだろうがそうした感性ではやっていけないだろう。双方の中間程度の感性が必要なのだ。きっちり休むのが我々のスタイルである。

とはいえ、私の肝臓をいたぶってくれるような嬉しい悲鳴の連絡は中々来ないものである。求人も仕事も教育も全てこなすのがベンチャーらしいところである。「英語が・・・・」という人は多いが英語が怖くてUNIXは使えなかったのではないだろうか。一歩踏み出せば世界は広がると思うのだ。求人広告を出すと聞いて内容の確認を求められた。「資格 日本語およびある程度の英語の読解力と会話力があり、前向きで向上心のある技術者の方。米国および国内顧客への出張が可能な方。コンピュータまたは電子工学関連の大学または高等専門学校卒業以上の方。CDMAまたは他のワイヤレス端末機のソフトウェア開発経験のある方歓迎。給料 年俸制5万ピカソから12万ピカソ以上・・・」などとかかれていた。このフレーズでは新卒者も該当するなぁと読み返していたが、まぁいいかと思っている。ピカソの単位は忘れてしまった。

VOL15 続)基本ソフト開発の方程式 発行2000/06/21

このところ業界独り言日記の如くになってしまっている。基本OSのお話でYさんからご意見を頂戴した。基本ソフトとして購入したOSについての話だった。ICEレスでデバッグできる。メモリ管理が出来ていてプロテクション検出が出来てUNIXのように安心してデバッグが出来るというOSなのだったが・・・。基本OSを提供している側と日本のユーザーでの湯水のようにリソースを使うようなAPPLを短期間に高精度かつサイズを抑えて提供していくという図式に照らすと開発規模や提供しているツール性能などが合わないのだという。おなじOSが新たなCPUシリーズ問題を起こしてカーネルのバグだという。確かにツールやOSメーカーでの開発規模検証はユーザーのそれとは比べるまでもないのかも知れない。のんびり構えて、慌てず確実に直させていくためのフォローアップが必要なのだとおもう。

日本の差異と米国の環境での差異で明確なのは、WINDOWS98などを使わない点である。開発ツールを稼動させるためのOSとしてWINDOWS95/98といったものは使えない。開発ツール開発側ではOSの都合など考えた設計をしていないためである。結果リソース不足に悩んだり固まってしまったと悲鳴をあげるこえを耳にする。といってWINDOWS98をWINDDOWS2000に入れ替えるでもなくシュリンクラップで配布販売されるOSの品質を信じて疑わない。ゲームソフトでのそれは、楽しんでもらうために種種の工夫を織り込んでOSのバグや制限に対応したかたちで使えるようにしていくのが彼らの仕事である。組み込みツールの人たちの意識はそこにはない。彼らが検証利用している環境との差異についてよく話を聞いていくことが必要なのではないかと思う。私の知りうる仲間で開発マシンに98/95を入れているひとは昔からいない。開発ツールをこうした環境に構築してしまった日本のあるメーカーの悲劇をしっているが、このツールで育った世代の人たちはツールの動作にビクツキながら使うということを入社直後に学ばされてしまった。良いこととは思えなかった。

今アプリケーションサイズの膨大さは組み込みの例をとってもリンクの時間に10分近くを要する状況になっている。800MHzのPentiumIIIでWIN2000での話だ。信頼に足るOSの上でよい性能のコードやデバッグフィーチャを駆使してデバッグしていくという姿は、一般的なものだ。人によってはICEもつかわずに一気に実機でオシロを覗きつつの試験をしている。単体も行なわずに、あるいは机上チェックも行なわずに入れることはありえないといっているようにも思える。彼らのスタンスは謙虚である。動かないのは自分が悪い・・・・。何を間違えたのか良く考え直してみよう。匠の領域である。

とそんな話の通じないお客を目指して横浜線を北上している。彼らはツール大好きな人たちである。ツールにない計測の概念などについては考えも及ばないようだ。こまったものだ。

VOL14 Aさんのこと 2000/06/20

業界独り言をはじめて、テクノウェーブ時代とはことなり気軽にタイプしている自分に気がついている。紙にするということはやはり良いことなのだが、手軽さという観点においてはメールが気楽このうえない。サポートという仕事の面白味は、実は、いままでテクノウェーブが目指していた姿そのものなのかもしれないと感じるようになった。いくつかの経験に基づいたノウハウの集大成をOSの機能やコンパイラの性能や試験方法などのなかで綴ってきたことを体系化してライセンスとして提供し支援していくという姿は、基本ソフトという大袈裟な表現は抜きにしても方向性として納得するものがここにあるのだ。

相手は日本中の先端技術者がお客様であり、それぞれのノウハウ・技術との接点が製品として出てくるからお客様訪問で得るものは大きい。我々サイドのバックエンドを要素技術で支えてくれる技術者達が違うタイムゾーンで暮らしている。言葉や人種という問題は表面的なことで互いに技術というものをベースに真摯に話し合い解決に向かっていくのは素敵なことである。そんな中に飛び込んでしまった自分には驚いたりもするが一皮向けたような気がしてならない。

「東川さんのメールを見ていると本当に充実しているようですね・・・」とエールを送ってくれたのはAさんだった。既に転職して新たな世界に飛び込んだAさんだったが悩みは多いようだった。しかし、彼も大人で今いる場所で出来ることをチャンスとして伸び伸びとやっているようだ。彼いわく現在の状態は起承転結という段階での転でありまだ結があるのだという。結が近いのならばジョイントもしたいものだと思うし、まだまだ伸びていく個人コミュニケーションの中で前向きに取り組んでいきたいものだと思う。

列車好きの東川氏にとって日本中のお客様と話すための移動手段は、格好のものであり週末には鳥取までも赴こうとしている。初芝時代の同期入社だった人との久方ぶりの宴もありそうだ。縁はいなもの。Quad社転職で旧知のメンバーとの再開など、まさにこの業界の狭さを知る次第である。幕張の会社に行くことも増えてきた。京葉線の旅はなかなか快適だが、東京駅の乗り換えは辟易する。最近,丸の内線からの逆ルートの乗り換え方法を知り、また東京駅地下の複雑さと広さとを知り愕然とした。出張用にキックボードが欲しくなる今日この頃である。

VOL13 求人最前線で考える 2000/06/19

半年らいの異常な事態を収拾するなかで、国内支援体制の拡充が大きな鍵であることを認識し上司具申のうえ体制拡充の許可をえた。現状からの6dBの体制強化である。ベースが何人なのか20logなのか10logなのかはモザイクのかなただ。問題は、やはり言語の問題なのか、あるいは自分自身への自信のなさの現われか、あるいは生活保障ということからかなかなか名乗り出てくるメンバーにはお会いできない。敷居が高いのだろうか。見知った人から見識の再確認で済めば私も自信をもって本社に申請をしようというのが目論見であり、培った実績から米国での日本メンバーにこうした人事採用までの裁量をいただきありがたく思うと共にまだまだベンチャーであり毎年優秀な人材を採用教育してくれていた大企業という枠の力についてうらやましく思いもするのである。

ある程度の日本語の会話力があり、英語の読解力と会話力のある日本に留学してきている学生を対象にして新人確保という線も却って日本人の技術者を採用するよりも私たちとしては容易いかもしれないと思いついた。日本人でも、宇宙語を話すようなコミュニケーション能力のないオタクな技術者を採用してもここQuad社では務まらないだろう。お客様である技術者のための技術者が我々の仕事なのである。バックエンドのサンディエゴのチームと相対することは日常であり、かの東川氏ですらおぼつかない英語で暮らしつつ未体験のCDMAの世界に突入していったのである。現物を見ないで、仕事の指示や確認だけをしている生活も安住という観点からは捨てがたいのかも知れないが、果たして技術者としての自分自身というものを持ちつづけていくことについてはどうなのだろうか。東川氏のように時代から浮いてしまうことを恐れずに嵌りこむのも考え物かも知れない・・・が。

携帯の通信費用を下げることで景気は上向くのでないだろうか。今は通信費用の嵩む部分を被服費用や他の娯楽費用から浮かしているために景気を悪く見せているのではないだろうか。そんな話を嫁さんと交していた。たしかにタクシーの若い女性運転手などと話してみるとそうした実情が窺い知れる。でも通信は外せないようなのだ。となると被服費用などが安く済むことのメリットなどがユニクロ現象などに現れてくるのかもしれない。

ある会社でCDMAの開発をしていたという技術屋さんの紹介を受けた。もともとは初芝電送にいたそうで何年か前にまとまってスピンアウトして会社を興してシステムハウスをしていたらしい。会社ごとサブコンとしてある韓国の通信機器会社の日本研究所という組織を形成していたらしい。初芝でもよく見られた地方研究所のようなものだ。ただし会社全体の人材が借り物だというのも最近ではあることなのだろうか。Quad社のお客様でもあったこの会社
がシャットダウンすると聞き及び技術者の奪取に走ったのは言うまでもないことである。この会社では昨年田町系列の会社からCDMA技術者の引き抜きがあったらしく我々としては、半年毎に行なわれる新製品リリースに伴うトレーニング会場でのレセプションを通じて、そうした人材交流(?)を知りえたりしていた。都合を伺いインタビューとしてヘッドハント活動をしレジメを書いてもらい、サンディエゴとのテレビ面接も行い、ようやくオファーという段になる。東川氏の時とはことなり迅速な人事処理が進んだ。

Quad社では、顧客先からの技術者の引き抜きは本人の意向が先行しないかぎりは攻めていかないのが鉄則であり、大企業にありがちな本人の意向と昇格での管理志向とのせめぎあいで不満を持っている人がいれば狙いどころとなる。今年に入って東下からきた同僚も同様なパターンである。二人の目標は、9時にきて6時に帰ることであり、そうした目標が夢ではないことは昨年の生活から東川氏は知りえている様子だった。そうここで注意しなければならないのは、顧客先以外からの引き抜きには言及していない点である。米国の会社であり、研究開発陣の充実などはトップレベルであり何よりも確かに自分達で牽引しているという自負のある環境は技術屋として腕や頭に覚えのある人にはやりがいのある場所なのだと思い返す。

昨年懸案だったWCDMA問題も決着して未来が約束し開かれた現在は、東川氏が野比Laboの一節で述べていたような危惧も消えている。ただし、一年足らずの東川氏の経験からは長年会社で不平不満のみをいつも漏らしているような技術者では、きっと馴染めないのではないかと思うのである。自分に前向きで仕事の中でそれを実践していくような人材で、仕事に恵まれないというような人材がもっとも奪取に走るべき人材であることを確信している。そうした人材をTechPaperという実践を通じて知りえた東川氏にこうした人材推薦の白羽の矢がささり今は奔走しているようだ。

年収は残業など勘案してもきっとがっかりさせないものがある違いないし、業界の技術者の方々を支援するということで日本中をまさに回りつつ最先端の技術会話を楽しめるという仕事の楽しさはきっと東川氏の個人シグネチャからも伺いしれるだろう。ベンチャだから組織の弱い所もあるだろうが、フラットな組織はそうしたことの是正をどんどん具申して直していけるということを人材採用や教育などの問いかけからも真摯な議論を上司と交し会社としてそうしたことへの取り組みをしていくことをしている。そんな勢いのある会社なのだ。もうプロトコル屋だけが欲しいのではなくてそうしたことを常識として捉えて端末というシステムを理解したうえで個人生活の中心としてネットワークを広げていくなかでの広範な技術者を求めているのである。

??夢うつつで書いていたようだ。いや単なる独り言だ。年収など気にしないひともいるだろうしこうした生活にあこがれている人もいるかも知れない。チャンスは少ないが、奪取に呼応するダッシュを示してくれれば、私もダッシュして奪取に向かうはずである。あまり冷やかしで呼ばれても肝臓に負担がかかるので勘弁して欲しいのだが・・・・。今週は鳥取で美味しい出張を済ませて来週には本社で情報収集にあたらなければなるまい。・・・こんなに遅くなってしまった。

VOL12.5 基本ソフト開発の方程式 発行2000/6/14

素直な梅雨空は、ひとしきり雨が続いている。エルニーニョなど、どこ吹く風で本当に日本らしい天候を楽しませてくれる。春から初夏にかけては、5月病の社員などのケアなのかいろいろなイベントを駆使してモチベーションの向上を図るのはどこの会社も同様のようだ。日常の疲弊した仕事の中で技術発表などのモチベーションを続けることが人事考課の賜物であるにしても気分転換の範疇でこなすのも良策であろう。人脈を広げるのに活用するのもまた良いことだろう。

大会社には豊富で優秀な人材が多い、しかし実際に活躍されている例は少ないようだ、人材不足が先に立ち、そうした優秀な人材を教育しあるいは実践させ仕事の中で教育サイクルをまわしていくことがなくなり、安直なあるいは効果的な解決策としてソフトハウスの導入に走ってしまっているように映る。こうした大会社でも不景気の荒波は打ち寄せ、ソフトハウスの導入という至極普通の取り組みすら出来なくなった会社が、うみの苦しみを越えて不死鳥の如くよみがえってきた。この会社では、このことが会社の仕組みを刷新させたように見える。また、相変わらず底知れぬ人材のダイヤモンド原石の上に砂利道をしいて相も変らぬ道路工事を続けているような会社もある。予算がつくので仕事をする。仕事をしないと予算がつかない。人材を確保しないと戦争がこわい。だから予算を計上する。こんな悪循環がいつまでも回るわけではなかった。実際淘汰されるものだ。

原石の磨き方を知らないままに砂利道の中に迷い込んでいる会社も多いのだろう。贅沢なものだ。すばらしい原石もなんどもほっくり返すような工事をしていたのでは硬いダイヤもいつしかヒビがはいり小さくなり砂になってしまう。毎年新人が入るから気にしないのだという人もいるだろう。外から見ているとそんな光景に見えてしまう会社がそこここにある。組合の問題もあるのだろうが、技術者の生活とは残業時間で計れるものではないのではないか。諦めにもにた、そんな雰囲気を組合は察知しているのだろうか。組合の委員長自らがそうした仕事にどっぷりと漬かっているのでは当然の結果かもしれないが。

どの会社もソフトウェア技術者の拡充をいわれている。新社屋を建てて鳴り物入りで推進されている会社もあるし地道に技術者を募っている会社もある。組織を作るのが好きな会社では毎年事業部の名前や会社の名前を変えたりして麻痺している会社もある。麻痺した感覚では、組織の位置づけも毎年の名称変更と同じように捉えている会社もあるのだろう。実体と組織の名前は乖離していることが多いようだ。ソフトウェア技術者の育成確保のために専門組織の別会社を作るのも常套策である。効果的に解決するにはソフトハウスとのジョイントが一番ですという会社もある。確かにそうであるかもしれない。ソフトハウスという観点で工数販売を目標にしていないのであれば、よいのだろうが基本ソフト技術というものよりも仕事をこなすという観点を増幅してしまいがちなケースに遭遇することが多い。

ソフトウェア開発という仕事を冷静に見つめて、プロセス改善などの手立てを始めている会社などは救いがあるといえるのだろう。そうした活動の本質を理解している技術者の育成が大きな課題であり、むしろ入社した社員での宗教教育にも似た段階でスタンプを押すことが必要なのであろう。ここで成功すれば効果は10年から20年はキープできるものだ。失敗した場合には5年とたたずに去っていく技術屋となりえる。10年たって出ていく技術屋という場合には、スタンプを押した側に問題があるのではないだろうか。それでも何もしない会社も多く先進的な会社には、まだ救いが残されている。

ソフトウェアの技術屋ですと言われると言語処理の知識・リアルタイム制御・マンマシン・プロトコル制御さまざまな範囲の仕事の技術屋全般を指し示すことになる。小さく分解したものを作成するのがプログラマーであり、こうした分解したもの(モジュール)の更なる全体構造が示せる段階が、システムエンジニアであろう。役割分担を明確にして楽しく仕事をしている会社もあるようだ。しかし何よりもお客様に向けた製品化ストーリーや技術のロードマップを正しく示しそれに向かって進んでいくことが見せられなければ、仕組み自体が絵空事になってしまう。在りたい会社の仕組みと在りたい自分をマッピングできればそこに向かって自分も一緒に進んでいくことが出来るのだろう。「最新鋭の技術に手をつけられるが、その選択は自分達ではなく、ともかく忙しくて追い立てられるように仕事を進めているんだ」というのでは楽しい仕事ではないといえるのではないか。

自分達で切り開いていくという仕事は,マイコン黎明期でもなければ、なくなってしまったのだろうか。技術の革新のなかでそんなことはありえない。ただしそうした会社としてもつべき余裕までもつぶして仕事の取捨選択もできぬままに百貨店経営を進めていくことに未来を映し出すことが出来ないのではないかと危惧するのである。25年前のマイコン黎明期に、ソフトウェア課という組織を作成した先進の恐るべき会社があった。まだICEもないご姿勢でアセンブラで開発するなかで家電系の会社としてのこの先進さには目をみはるものがあった。こうした会社での仕事は楽しいに違いない。

取り組みが早すぎるという声がこの会社には、その後たびたび訪れたようだが、渦中で進めている間の技術者は幸せであっただろう。追いつけ追い越せと電々ファミリーへの猛追を行い追いついたときに在りたい自分在りたい会社というものを考えるべきだったのだろう。いま1000名を越えるソフト開発技術者を募り通信の世紀を越えようとしている。こうしたバベルの塔にもにた状況に陥りつつも実際にももしかしたら、バベルの塔が構築されるかもしれない様にはさらに畏敬の念をいだかざるをえない。ヘドロを凍らせつつ埋め立てた関西空港のようなさまには、WCDMAという見えざる敵に果敢にブートストラップ大佐の如く立ち向かっているのかも知れない。

先進の会社として四半世紀前にソフトウェア課を興した課長と、1000名を越える通信ソフト開発体制を作ろうとしている社長の二人を知っているものとしては、本来であれば隆盛についての祝辞を述べたいとおもうのだが、残念な気がしてならない。

本来であれば、ソフトウェア事業部として構築していくことで進められるようにも思うのだがLinuxのようなあるいはDOS/Vのような仕事の進め方はありえないのだろうか。量産とシステム対応という両極のものが、LINUXでSOHOな暮らしをしている人たちは実現できているように思えてきている。こうしたプラットホームといことを基本ソフトとして進められるのではないかと考えはじめたのだがいかがなものであろうか。何かそうした未来を提示するなかで、現在の状況からのマイグレーションの道を進めていくことが必要なのだろう。

単に奇麗事を並べて、技術発表の場などを通じて情報交流していくことや、人脈だけで仕事は動けないのである。LINUXなどと同様に組み込みソフトウェアも出荷すればよいのである。良いソフト部品はLSI同様に使われるものであると考える。売り物でなければ営業マンもおけない、誰かカリスマ技術者でもいれば別かもしれないが・・・・。最近一つの別の解が発見されたが、共通のプラットホームを導入して自分達の力のみで解決対応するという策に出た会社がそのサイクルをまわし始めたということだ。基本ソフトということを進めていきたい技術者にとっての行き場所は、こうしたプラットホームを提供する側に回ることなのかもしれない。

会社のためというよりも、逆転して社会のために基本ソフトの匠達は集う場所を変えるべきではないだろうか。グローバル化を推進する。特許を推進する。奔流を追求する。いずれも日常のことなのである。掲げている目標には違いが見当たらないのだ。そうしてみると何が違うのかは、いまだに良くわからないのだが、やっているということを各人が認識しているという点は違うのかもしれない。他人事という感覚は、ここにはない。

VOL12 2000年入梅 2000/06/08

初夏を思わせる日差しの中、入梅が宣言されそうである。昨年のヘッドハント騒動からはや一年が経過した。渦中で相談を差し上げた方の訃報が届いた。読み返してみても当時のことは鮮明に思い返すことができる。辛口のコメントをいただく方ではあったが、それだけ親身に話を聞いていただくことができたとおもった。ご恩を返すことは、「継続は力なり」ということであるに違いなく、元気に快活に過ごしていこうと再度誓うしだいでもある。

最近のLINUXの世界は大きく広がりを見せている。クローズな世界での暮らしに懲りた人々や、オフコンなどの美味しい仕事にあぶれた人たちが手に業を身につけて切磋琢磨しているようにも見える姿は頼もしくもあり健康的にみえる。要求されるサービスの速度や機能は既に達成されていてそれを構築するための方法論にのみ終始することが可能になっている。こうした状況でSOHOな暮らしをはじめてネット起業する人たちも多いようだ。こうした要求に応えていくのがSEであるならば100万人のSEを唱えてきた業界から、ムックな資料のみでサーバーを立ち上げてサービスをしていく姿が続いてくるホームサーバーな世界なのであろうか。ムック本を読み漁る高校生SEが会社のサーバーを更新したりしている時代なのだ。新聞や就職情報誌などで華やかに脚光を浴びているSEという姿は既に変容しているのではないだろうか。

セキュリティをオープンソースな中に構築していく、地道にセキュリティホールをつぶしていくことが、やがてムック本として集大成された情報をさらっと読みふけって実現してしまう若い力でコストダウン実践されてしまう・・・。そんなコンビニエンスな時代なのかもしれない。

エンベデッドな世界は、やはりオープンソースな世界なのだろうか。各社毎にソースアーカイブを構築して自社のアーキテクチャを構築しておられるようにも見受けられる。最近流行りのブラウザ組み込みやかっての赤外線からブルーテュースまでも含めて自由な部品を構築しつつ無線携帯端末としての基本性能をギャランティしているというのが、その姿なのであろう。無論ITRONの時代でもあり、各社でこうしたOSも含めたモジュール管理が出来ていると考えたりしている。まだコストから逼迫するリソース不足を味つけする巨匠達が仕上げのバランスをみつつしているのだろうか。最近はcdmaとPDCを一体化するどっちつかずではなく国際ローミングという端末までも簡単に出てくる時代になっている。大御所はさすがである。値段をさておけば、こうした端末を短期的に開発が完了してしまうのは並々ならぬ物がある。コンビニエンスな環境とするには、きっと求心力のあるプロジェクトや組織があって達成しているに違いない。

あるメーカーは80名ほどのソフトウェア技術者の体制で8機種をこなしていると聞く。たしかにPHSもPDCもCDMAもあらゆる機種開発がなされている。我が社も200名弱の技術者の体制でcdmaの基盤技術開発を進めている。またあるメーカーは社員のみで開発しているともきく。このメーカーではcdmaしか開発していないのだが、貴重な人材は出産退職するとしても活躍できるような配慮がされているそうだ。

開発量をこなしていくために必要な人材のボリュームはソフトウェアのベースとなるものが構築されている、あるいは提供されているという形態の場合には、結構理想的に機能しているのではないかと考えたりもする今日この頃である。

コミュニケーション能力を高めて相互の力を発揮できるようにイントラインフラや人事考査などでの語学力などに重きをおくことで、国際分業して解決できつつあるのではないだろうか。

訃報が届く中で、うまく機能している顧客のかたの支援をしている。相談に符合するような内容が閃き回答と対策ファイルを作成して送付した。確認をとるべく電話をしたところ、「お帰りがけの所を申し訳ありません。」と応対され「いえ、確認をしてから帰宅するつもりなので結果を教えていただきたいので連絡をいただければ・・・」と返した。聞けば同僚も同様の経験をしているらしく11時過ぎに電話をとったとき「こんな夜中に申し訳ありません」と言われたそうだ。こうした状況が夜の7時30の電話からも周囲の風景が思い浮かび健全な開発の姿を垣間見たような気がしている。訃報の重苦しい気持ちをやわらげてくれた気がする。

VOL11 梅雨目前 発行2000/06/04

爽やかな季節に別れを告げて、初夏のような日と曇った雨の日が始まった。まもなく梅雨入りも宣言されるだろう。

仕事は昨年末から続いていてじめっとした感のある仕事にキリがついて、爽やかな状況に転じている。初芝通信の便りも時折届き、今年に入ってからは初芝魂への回顧が始まった印象ですとの朗報を寄せてくれた。ずるずるとした印象の仕事の進め方からきっぱりとした仕事の進め方に転ずるには大きなインパクトもあるだろう。

メリハリの利いた仕事の進め方は、社会貢献という公器の考え方にたてば必要不可欠であるに違いない。初芝時代に外部から指摘された社内通信インフラの整備の遅れはハードウェア的には達成したはずであるが、まだまだ心の事業部制をしいている限りには総合力を生かせるのはお召し列車の仕事のみになってしまうのではないだろうか。

初芝を飛び出して気がついた大きな点は、自分達の拠り所となる技術力の見定めをせずに日々を過ごしている人が多いように思うし、そうした拠り所となる技術の重要性についての認識が甘いのではないだろうかという点である。心の事業部制の壁は、自分自身の技術力を卑下したりすることで起きているのではないのだろうか。

インフラや会社の仕組みは用意できているのだから心のコンテンツをオープンにしていく事で解決を見るのではないかと内心期待している。業界を牽引していく初芝通信の技術者が気概を持たずに仕事を進めていて良いはずがないのである。そうした会社こそが、私の標榜する次世代通信技術の受け皿になってほしい会社なのである。

デュアルマイコンが携帯でも当たり前になろうとしている。こうしたデュアルな環境でのOS制御技術や言語処理の技術などを抜きにしては語れない。一万人近い社員を擁して多額な開発投資を共栄会社という形で使うにせよ、自らが求める技術像があればもっと有意義に使えるはずだと考えてしまうのだ。

自分達の技術で暮らしている現在の会社では、共栄会社という考えは当てはまらない。少なくともソフトウェアにしてもRFやベースバンドの技術は自分達で賄うのである。ベースとなる技術に立脚して整理していくことで徒労のない開発が出来ているのだとおもう。誰かが良く使う台詞だが、「三段の将棋は初段が三人いても勝てない」のである。皆が同じ方向で初段をとっても意味がない。それぞれの分野でスペシャリストを目指すべきなのである。

さあ、私もメリハリの利いたサポートをはじめよう。お客様からの支援要請に対して自分の専門分野を持たずに支援などできるものではない。

VOL10 がんばれ基本ソフト技術の匠たち 発行2000/05/23

驚愕の4MBの空間を使い切る

最近の携帯端末のソフトウェアサイズは,うなぎのぼりである。8MBのFLASHを積みながらもハードウェアの制約で4MBしかコード空間にはアサインできず残りの領域はデータファイル領域としている。EFSが組み込まれているのも最近の特徴かもしれない。UIでのアニメーションやカラー化の影響などでRAMも2MBは必要と言われる時代になっている。8MBのFLASHと2MBのSRAMが必須になりつつあるのだ。また、こうした状況では機能の取捨選択をするにも事欠き結果として積み込み一方となっているのも元凶かもしれない。コンパイラが賢ければ、もっと効率のよいことが出来るかもしれないがドライバとアプリケーションを同一方法論で搭載する時代は終わりに近づいているように思われる。KVMなどの搭載が叫ばれるこのごろであるがムーア博士のFORTH言語などの適用が、より実践的なアプリケーションサイズ削減に貢献するように思われる。コンパイラの出力コードをアセンブラからFORTHに切り替えて生成することを追及してみるのも現実的な技術として面白いかもしれない。すでにMicrosoftCではライブラリとして中間コードを生成して解釈系を作り出す機構が昔から搭載されていたようだし組み込みの世界もこうしたサイズオーバーの時代を迎えて直す必要があるのだろう。端末技術の追求の中でコンパイラにまで手を広げる必要があるかないかは意見が分かれるところだが開発環境やソースコードで提供していけるメーカーであれば考えてみる価値があるように思われる。

私が気になるのはコンパイラが生成する余剰空間の取り扱いである。たとえばポインターとして作り出すコードは32ビットを生み出すわけだがコード空間は16MBを超えることがないと仮定した場合にはポインターサイズは24ビットでよいことになる。しかしアーキテクチャの制限から32ビットのポインタを作り出してしまう。バイト型で十分な変数があるにも関わらずアーキテクチャの制限から不要なRAMをスタックやSRAMやFLASHに浪費している。こうした空き領域がどれほどなのかを検討してみるのも意味があるとおもうのだがいかがだろうか。無駄と思われるコードも性能を追求する部分においては正しいが機能を満たすことが求められているアプリケーションにおいては別の解決策があるように思われる。解釈系を介在させることによる効率化は計り知れないものがある。私は機能競争に拍車をかけるつもりはないがケータイに求められている機能が拡大している今日においては従来の方法論のまま進めているだけでは意味がないように思われて仕方ない。

開発の手を緩めることなくこうした技術革新にもてを染めていくことが総合メーカーの技術力として必要なことではないのだろうか。音声を圧縮するデジタル化技術は通話という技術のデジタル化に必須であった。今、通話・通信は出来てあたりまえで音質も良くてあたりまえになろうとしている。ことさらに方式の是非を比較するのは単なる宣伝効果を狙った延命策にすぎないのだ。今手を染めるべき次世代の通信技術や端末開発技術について革新的な方法論を考えているのかどうかが、今後発生してくる各種新技術の吟味の目を養うことにつながってくると思われる。携帯端末のサイズ競争や重量競争の時代を過ぎたことは、カシオの端末が売れていることなどからみても明白である。小さすぎて使いにくさが出てきたりすることが発生するとなんの競争なのかがわからなくなる。

リーナスが参画しているベンチャーではインテルアーキテクチャを活用する斬新なソフトウェア構造をもつ新型チップを開発した。消費電力あたりの性能などにも思いがまわり。またかつてバイナリーコンパイルという技術が登場し消えうせたかにみえたものも取り込み実は醸成していたことなどからも、まだまだこうした端末での戦場は,場所や品を変えて進んでいくように思われる。提供されるプラットホームを待っているだけではメーカーはいけないのではないだろうか。

やはりメーカーには基本OSや開発言語などへの基本技術の研究に携わる人材を活用していくことが、必要なのだと思う。不遇な人材がいるとしたら社会への罪悪である。公共の器を活用していくという翁の説話などからも、会社を叱咤する立場への転籍なども必要なことであろう。かつて第五世代開発などでICOTを興したりした日本ではあるが組み込み技術の大国でもあった匠たちの技を今失おうとしているのではないのだろうか。

VOL09 2000年5月発行2000/05/15

梅雨までのひとときを楽しんでいたのだが、もう雨がちな陽気に変わってきそうである。半年の研鑽期間を経て、とりまく環境も大きく変わろうとしている。巷ではブラフと言われていた弊社の基地局参入騒動だが、実際問題としてブラフなんかではなくて、まさに国際化の流れの渦中にいることを郵政省自身が気づいたのではないだろうか。国内三社のぬるま湯的な状況においてIMT2000の割付を進めてきていたところに、「無償でチャネルの権利を入手できる」というおいしい話を米国と共同で焚き付けたのだから大変だ。日本の通信業界は官民馴れ合いとなっていて、天下りを受け入れつつ仕事の人脈を広げていくまさに日本式のロビー活動なのかもしれない。ベルを分割して競争させ、周波数権利もオークションにかけている米国の状況が参入してくるとは考えてもみなかったのだろう。結果はDDIの技術トップの間違った判断を是正することで解決をみてしまい、面白みにかける展開となった。DDIを買いとるという選択枝もあったようだが、免許申請をすることの方が容易なのだった。

今回の波紋は、今後の日本の無線行政に大きな一矢をはなったと思われる。NTT法が改正され外部への展開が進むだろうという事とともに、双方向の大きな流れをまた産んでしまうと考えられる。こうした法の庇護の下で暮らしていた、ある種の業界にとっては大きな転機を迎えたともいえるだろう。

ベンチャーのよい特性がまだ残っているこの会社の前向きな取り組み姿勢は、私の意識にも共感する。無線機器の開発に限らず多くの製品・サービスは、ソフトウェアの介在なくては競争力を産まない。物づくりとしてのソフトウェアの力と先進な要素技術としてのソフトウェアの二面を追求していかなければならない。仕様書を定義してくれれば生産としてのソフトを構築出来るという感性の仕事と、サービス・製品の技術方向性を見定めつつソフトウェアの基礎研究を進めていくということが求められる。私自身もメーカーに在籍して四半世紀近く技術屋として暮らしてきた結果としてそういう事を認識してきた。日本では、そうしたサイクルを回すよい土壌としてNTTと各メーカーとの関係があったのだと思う。

メーカーとNTTとの関係を支えてきたのは、互いに補完しあう相互技術があったからに相違なかった。トラックの荷台に装置を積んで自動車電話の開発を進めてきたベンチャー精神を私は尊敬する。またそうした流れにのっとり子連れ狼ならぬ乳母車に積んだPHSの開発などもそうしたものに違いはない。そうしたベンチャー精神に支えられてビジネスモデルを提起して一事業を興してきた業務用無線の歴史なども興味深い。いまそうしたビジネスモデルの考案をしていくことも研究テーマの大きな範囲であろう。ビジネスモデルが特許になる時代なのだから。豊かな端末の提供で、PHSなどの価格100円や無料の広告などをみると「通信の水道哲学の領域にまで達したか」という見方もあるだろうが、サービス費用や能力などの面から昨今のi-MODEのサーバーダウンや投資効果という観点での技術力などにおいても、もっとシステム的な観点で取り組むことで道が開けると思うのだがトラック3に入札することで精一杯になってしまうのではまずいのだろう。

超高速なマイコンの開発というテーマが最近では、単位面積あたりあるいは投資コストあたりの最高速なマイコンの開発というテーマに変わりつつあるようだ。インテルの命令をバイナリーコンパイルしつつ自分の考える合理的な命令に置き換えて効率よく低消費電力で実現するこうした技術を、さらに利用して群体で動作するシステム提案が出来れば、ビジネスモデルの改善につながり顧客満足につながっていくのである。

端末の開発のみで手一杯という状況ではお先真っ暗というのが現在ではないだろうか。幸いにしてこうしたインフラサイドの問題提起は社会からの要請もあって順風になってきた。おもしろい素材もあふれてきた。しかし残念ながらそうした面白さを伝える仕組みがなくなっているように感じる今日この頃である。仕事や技術の本質に好奇心を持つことが大きな鍵なのだが難しいのだろうか。いろいろな創業の時代に出会っていろいろな好奇心を大切に育てる事ができて今に至っている。これからあらたな創業を自分自身からの提案も踏まえて周囲の方々の力添えももらって進められそうである。こうした楽しさを少しでも伝えて、メーカーの方々にご理解いただきエンドユーザーへのサービス提供をはかっていくのが
当面の私の存在意義である。

そうしたメーカーの方々への支援作業において、あらたな創業の芽がありそうで諸先輩のお知恵を拝借し自分自身で咀嚼しているのだがよく噛まないと腹ごなしが悪い物である。一つのアイデアがメーカーと同一レベルの開発部隊を擁して日本サイドで先行開発の雛形を示していくということである。このことにより、各メーカーで競合する開発の部分の合理化が図れるというものだ。しかし、米国と日本の相互で仕事を依頼できるようなソフトハウスでデジタル無線の技術力があって英語に問題がなくて、独立系というようなところはなかなか見つかる物ではない。今は、W-CDMAで日本では技術屋がショートしているのが実状である。Y2Kが終わってあぶれてしまったような技術屋を掴まされるのがオチでもある。ソフトハウスの紹介にいって逆に「すぐに、優秀な人材を100名そろえられますか」と京都で問いただされた事を思い出して苦笑した。30名でも良いのだが無理な状況であろうか。ソフトハウス詣でをするのは、メーカーがFLASHROMなどを求めてさまようのとにている。

VOL08 GW後半発行 2000/5/6

GWの憲法記念日など薫風のなかで歴史に思いをはせるのはよいことではないだろうか。皆さんは有意義な休日を過ごされただろうか。

最初の商用自動車電話にはサブルーチンがなかった。

富士通の出向研修を終えて、実務に戻った。事業部では、長年の開発で培ってきた自動車電話の出荷が始まり熱気に包まれていた。自動車電話では、マイコンを搭載して出来たと思われる人が多いのだが当初の自動車電話においては専用ステートマシンを搭載している場合も多かった。4bitマイコンなどでこしたステートマシンを構築した事例やRCA4000シリーズを駆使してCMOSのボードによるステートマシンを構築していたものもある。こうした商用サービス以前に開発されてきた試作マシンには、ロジックボードとマイコンボードとが別に出来ていたりした。

商用モデルにおいては、こうした自分達で開発したステートマシンの機能設計を利用すべくマクロ命令と呼ぶ仮想コードを解釈実行する構造を採用していた。アセンブラソースコードのイメージを抱いていた私にとって衝撃的な内容だった。フローチャート上にサブルーチンのアドレスのみが羅列されているようなコードと所々にラベルのような実際のコードが書かれていた。割り込み処理のような部分はあるのだが、メインルーチンというようなものが存在せずにフローが記載されているようなソースコードだった。

設計を担当されていた技術者の方々の英断により,当時高価で低速だったメモリインタフェースを取らずにドライバとインタプリタの通信速度を改善する目的で汎用レジスタの一部を相互通信用の高速スクラッチパッドレジスタに位置付けていた。すなわち割り込み処理で退避せずそのまま用いるということである。この英断によりドライバへの指示は、このレジスタへのビットセットにより行なわれ、また指示解除はリセットビットで行なわれていた。

Z80の裏レジスタの概念のように独立したレジスタ群を要求する声が多い中で逆転の発想でマイコンの仕様を見つめていたようだった。こうした犠牲になったレジスタは、スタックポインタであった。ドライバとマクロ命令という概念で設計を進められていた技術者にとってスタックポインタの効用を活かす道はないと判断して高速通信レジスタの位置付けで設計がなされていた。従って、この商用モデルにはサブルーチンというものが存在しなかった。しかしマクロ命令としての実装は実行すべきアドレスをそのまま機械語として配置した単純化した解釈系でありいわゆるFORTHのようなものであった。

しかしスタックポインタを犠牲にしていることなどからレジスタやRAMをインタフェースとしてマクロ命令の相互での情報のインタフェースは為されていた。サブルーチンのないこの商用化モデルの一号機は、華々しくデビューしていった。こうしたマクロ命令の機能を網羅する測定器としてフローモニターがあった。マクロ命令のインストラクションポインタとして配置された特定メモリの更新をトレースするロジックアナライザのような道具である。インタフェースは16個のLEDと放電プリンタである。

銀色の光沢のある、独特な用紙に電気を通して皮膜を破壊すると下地の層が見えて黒く印字される機構であった。昨今の方々はまったく知らない世界かも知れない。これによりリアルタイムトレースが実現されていた。仮想マシンの振る舞いをトレースするだけでは不十分であり、マクロ命令の通過情報のみをトレースするマーカーという機能も実装されていた。マーカーは特定アドレスへの書き込みのみをトレースする機能であり実際には、マクロ命令のトレースとの相違はアドレスの違いのみであった。こうした仕組みのよりパフォーマンスを時刻つきでリアルタイムトレースして検証できるようにしていた。富士通での研修成果は、こうした概念の理解を推進するのには役立ったが諸先輩の匠の技に到達するのは容易な所業ではなかった。
輸出向け自動車電話の端末開発チームはもぬけの殻
商用モデルの対応のなかで、解釈系処理の技術を身に付けつつあるなかで、輸出向け自動車電話端末の開発の応援に借り出された。自社でフルセットターンキーで納入する交換機・基地局含めての大規模な開発であった。100名を擁するソフトウェア技術者の集団が当時の初芝ソフトのビッグプロジェクトでもあった。端末開発は、8ビットマイコンで行なわれていて仕様からなにからすべて自社で開発したこともあり端末開発チームサイドの外人部隊二名は数多い仕様変更に耐えうるべくテーブル構造で端末動作を記述していた。これも国内向け商用モデルと同様の考え方ではあったが、彼らは割り込みとメイン処理とでレジスタを共有するほど多くのレジスタを持ち合わせてはいなかった。二個のアキュムレータとインデックスとスタックしかなかったのである。仕様変更の話などを聞きつつ彼らの応援をしていたが、いつしか彼らが蒸発してしまった。こなくなったのである。自分ですべて面倒を見ることになり8000行ほどのソースコードを引き受けた。問題の多くは端末の振る舞いをどのように実装するのかということとプロトコル自体があいまいであることなどだった。

このことによりソフトウェアの機能変更はしょっちゅうであった。端末の限られた空間8kBではその機能の実装自体が無理だったのかも知れない。テーブル構造の見直しやインタプリタの再帰利用などでテーブル自体のサブルーチン化などを達成しつつ日々機能追加とコード圧縮の日々となった。気がつくとソースは10000行に達していた。コードサイズは同じである。機能を網羅する部分と性能を満足する部分とがソフトウェアにはある。これらを同一の方法論で行なうと効率が悪化する。効率の追求をこうした限界状態で経験できたのはこの上ないチャンスであった。割り込み処理で倍速を達成すべく(途中で伝送速度を600bpsから1200bps)に向上させる必要が生じた。機能は毎日のように追加が要求された。コードサイズの増加は許されなかった。解釈系が機能網羅を果たし割り込み処理によるドライバは性能を満足させるという構図である。しかし、ハードウェアの不備があり性能はどうしても果たせないことがある日判明した。RAMが4bit幅でしか誤り訂正などの機能を実現できないためである。割り込み処理のスライディング配置など工夫は凝らしたものの要求水準としての着信応答あるいは発信接続には至らなかった。全二重通信が処理できないのであった。こうした極限下での動作は、インタプリタがあとから追いついて機能を満たしていくというのが目で見て取れる状況であった。最後どうしても機能が入らなくなった。アセンブラソースをいくら眺めてもアイデアが出てこなくなった。仕方なく機械語のダンプリストを眺めて一日過ごした。午後になり気になる点に気がついた。コードに偏りがあることが判明した。全般にテーブルが4kB近くありこのテーブルが16ビットのアドレスで出来ていたのだが、EとかFとかが多いのだった。6802を採用していたこともあり8kBのROM空間しか持たないことがこうした制御テーブルでのそれとしてはE000-FFFFまでのアドレスを示すことから仕方がなかったのだった。私が着目したのは、アドレスの上位3ビットが無駄に思えたのである。テーブル構造の見直しというよりも仮想マシンとしてコードの定義をすることにした。上位3ビットで命令をデコードするようにした。111ならばモジュールで011ならばテーブル内での分岐、101ならば条件分岐といった具合である。仮想マシンコードとしてのアイデア持込でようやく機能集約が可能になり出荷先での三度目のROM交換も達成できた。三度にもおよぶ回収費用は大変であったと思うがその後の出荷以降で採算が取れたようだ。私は、勉強を兼ねて最終ソフト完成後現地に三週間ほど初めての海外出張として赴いた。後年悲劇の地と呼ばれることになるDOHAである。

マイコンをシミュレータでデバッグする。
仮想命令を定義することは海外向けで技術的なメドだてを終えて以降のパーソナル無線の開発などに応用を果たしていった。時代は、アセンブラからC言語でという掛け声が連呼されたが、笛吹けど踊らずでVAXを一億円で導入するという当時の大英断にも関わらず利用者は、変わり者の烙印を押された私と当時の新入社員の女子大卒のうら若き乙女達だけであった。viでcのソースを開いていると勝手に画面に書き込みをしてくる実習テーマを与えた一部の指導員に文句も言いたくはなるが、将来の担い手である有望な若手技術者にそんなそぶりを見せてはいけなかった。初めてのc言語適用機種は4ビットマイコンを二個搭載したMCA無線機であった。

RFドライバCPUとUICPUの二つである。相互にシリアルでメッセージ交換をしてのシステム設計だったが、RFドライバマイコンは性能も含めて動作するもののUIサイドのマイコンにはフローが入りきれなかった。4ビットのマイコンという足かせは重く工夫の余地はなかった。液晶搭載のuiマイコンの一部のみを用いて8ビットマイコンとの組み合わせで製品は出荷された。この表示マイコンにのみc言語は適用されていた。c言語ではコードが三倍に膨れあがるなどと言われてはいたものの、それよりもアドレス空間の制限が4ビットの4kBという空間が重かった。

この悔しさをばねにして8ビットマイコン用にcコンパイラを開発してコードサイズのチューニングを果たしてアセンブラ並あるいはそれ以上の効率でコードを生成することに成功した。最初の版が、一ヶ月で出来たことに比べるとそれ以降5年近くは改善活動をしてきたのではあったが。このc言語を用いて新たな展開が出来た。お客様にソフトウェアを書いてもらうということが可能になったのである。新入社員にromライタとコンパイラだけを渡してツール開発に成功したのが、そうした感触を確かなものにしていた。まだunixでしか動作しないコンパイラではあったが、デバッグツールとしてマイコンシミュレータというものを海外から導入した。fortranのソースコードで書かれていたそのシミュレータは6301/6303をシミュレーションしてデバッグに供するものであった。機械語のインタプリタがシミュレータである。大阪の社員研修所でc言語中級というコースを開設してもらい、そこに講師として望んだ。自作のコンパイラで開発したターゲットコードをシミュレータを使ってvaxの上で動作させてデバッグする仮想的な開発環境である。いつか夢見ていたものが少し形になったような気がした。

パッシブインタプリタというアイデア
c言語環境にはまるきっかけになったのは、バーコード端末の開発環境として自作してしまったことが理由なのであるが、確かに周辺も含めて自作のコンパイラで全て開発していた。そうして開発環境をお客様に配布するまでになっていた。各地で説明会の講師などもしていた。Basicが、まだ流行っている時代に組み込みCコンパイラを作成提供したので、さすがに時代から浮いてしまった。BASICで財を成した人もいるし、評価されつつもBASIC98のようになった事例もある。文字列処理とインタプリタがマッチしたのであろう。倍精度整数型と文字処理のみに特化したインタプリタを開発することになった。小文字が嫌いな人たちには、行番号つきのソースは理路整然と映るのだろう。今までの仮想マシンの経験などから機械語と中間コードの入り混じった、パッシブインタープリタという提案をして開発をした。文字列演算の中間コードのみ例外処理として動作させて命令コード例外の領域に割り付けたのがアイデアである。整数演算のコードは文字通り、機械語そのものである。中間コードにあたると例外処理として割り込みが起こり中間コード処理を行なう。インタプリタが積極的に解釈しないという特性から、こうした命名をしていた。暴走しつづけているという考え方もあり動作の保証としては難しいという話もあった。インタプリタ本体よりもコンパイラの開発が大変だった。人に頼むという仕事は大変である。わかり易いコードを基に共有できる優秀な仲間にであえばよいのだが・・・・・。デモソフトなどを作成して地方巡業を繰り返したが、結局皆Cコンパイラを使うことになった。カタログリストには多くのアイテムが必要であることが判った。少しでも多くの項目があったほうが良いのだろう。

高精度シミュレータの開発
8ビットマイコンでは自作ですっかりはまったのだが、いつまでもそんなことをしてはいられないということで16ビットマイコンではメーカー製のコンパイラを使うことになった。時代は携帯電話で端末開放の時代を迎えていた。C言語で動作するOSの仕様が配布されて各メーカーが、そのOSと本体を開発するという形態である。8ビットでは日立のマイコンを使用していたが、16ビットでは三菱に変えた。アーキテクチャが8ビットの日立のものに似ていたことや、消費電力が低いことなどが主な理由であった。MOVA-Pの物語で有名な状況で劣悪な開発環境としてICEやCコンパイラの出来の悪さなどがあげられていた。開発環境の改善と「ハードについて詳しくなりたい」という部下の希望とを合わせて高精度のマイコンシミュレータを開発して性能検証が出来る正確なツールにしようという構想で開発を行なった。デバッグの使い勝手の追求も含めて一年余りでこれを仕上げていった。ICEで動作検証を行い外部バスからみたプリフェッチの動作も含めて機能を実現していった。システムテストも視野に入れて、連携する外部周辺機器とのシミュレーションなどの機能も含めて開発を進めた全社規模のPHSの開発にあわせて、
開発を進めていった。途中から三菱のコンパイラの出来の悪さも見えてきていたのでこちらにも手を染めかけたが格段に途中から良くなってきたのとコンパイラの開発チームが考えすぎて頭が痛くなったらしいことなどからこちらは中断した。出来上がった環境について外部でセミナーや日経エレからの投稿要請などがあり応じているうちに同期のマイコン開発をしている電子工業の技術者から呼び出しを食らった。仮想的なマイコン開発環境の必要性と将来方向について、意見を述べて電子工業自体も自社マイコンの環境の取り組みとして以降取り組みをはじめていった。低消費点力高速動作というマイコンを開発していたのだった。

Java以前からJava評価まで
開発環境の開発などに手を染めているうちに研究所への顔パスを手に入れた。PHSなどの開発を通じて関連部門との連携が深まっていった。エージェント技術を開発していたチームと出会い彼らがPHSで評価していた技術を携帯電話にスクリプト言語を実装してコラボレーションのアプリケーションが動作するようにという思いが駆け巡り当時開発をはじめようとしていた米国向け第二世代業務用携帯に適用するという思いに到達していた。無線でエージェントとして動作させることを狙っていた。このためにはVMが必要だった。こうした幅広い技術の開発をしているのが大企業のすごいところであり、また埋もれていたりもする。PHSのスループットとWSでのソースコードスクリプティングという評価形態から、中間コード+携帯+16kbpsという世界には大きな隔たりがあり、Tcl/Tkのような画面処理GUIを可能にしようという話にも、時代を超えたものがあり夢多い仕事では在ったが、コストと神戸の地震とが、いろいろな面で開発を凍結してしまった。普通は中止なるものを凍結というのは意外だったが、その後解凍することも冷凍していることも忘れ去られてしまったようだ。技術者の思いは一つであり何かきっかけを待って思い描いている技術を実現するときを待っていたようだ。開発中断後も情報交換を続けWAPの前進となったHDMLやJavaの誕生を知り、またこれを見守ってきた。デモを綱島地区によんでしてもらったときに米国向け開発で描いていたもののいくつかの答えを見ることができて感慨無量だった。当時の研究所のメンバーも今はやはりスクリプト言語の追求をしてデジタルテレビに対応していくようだった。スクリプト言語の技術を進めてきた中でJavaの技術を端末に適用しようという取り組みをJavaのソースを入手して行なうことになった。評価は二点、UI系での仕様記述と実用化の可能性またJavaVMの実装の可能性だった。技術本部と共同でこの検討を進めてまた大阪の研究所の手も仰いだ。旧知の仲間との遭遇などもありJava応用という熱い話を進めていった。VMが200kb程度になることとUIでのデモなどがJavaで出来るところまでは来ていた。

VAX仮想エミュレータの実用性
現場を離れて開発管理などをすることになり開発環境の保全という状況に遭遇してシステム件名物の開発環境としてのVAXの処遇が問題になっていた。5代目VAXが臨終の時を迎えようとしていた。山ほどある過去のツールはバイナリーのまま十年以上使われつづけてきていた。これを切り替えるには検証工数が膨大にかかる割には、保守のとき以外には表立ってこないのである。端末開発をしている事業部にはこうした責任はない。システム物でのみ発生する話なのである。VAXのシミュレータを開発して開発環境自体を動かそうとする提案をしたが実際に手をあげる人はいなかった。保守打ち切りを宣告されていたので産学協同という線も模索した結果、鳥取の元初芝にいた高専の先生を発見した。メールで説明をしてからの応対にひらめきを感じて米子まで夜行電車でおしかけた。半年かけて可能性の検証をすすめてきたが、課題は、UNIX4.2BSDのソースコードにあった。封印されてきた時代のUNIXで動作してきたツールが最近のFreeBSDなどと同様のAPIなのかどうかというのがかぎだった。しかしULTRIXにOSの切り替えをしてきたこともあって誰もソースの保全をしていなかった。UNIXのこうした時代も含めたフルソースアーカイブを配布している人がいるという情報を初芝の通信コミュニティから入手し、バークレーの先生にメールで顛末の説明をしたが、UNIXのライセンスシートが必要であるといわれてこんどはそれを探した。初芝ではまだ写植機にUNIXを搭載しているらしくライセンス管理をしている部署にそれはあった。FAXで送付してもらい、それを米国に中継した。米国からは許可をもらい早速発送してもらうとともに同様な事例をやったオーストラリアの先生を紹介しもらった。翌朝にはオーストラリアの先生からもメールをもらい彼のサーバにアクセスするパスワードを50回分もらった。初芝電器からは、なせ必要なのか説明にくるようにという呼び出しがあったが別件で大阪にいくおりまで話を伸ばした。こうしてから、半年かけて開発を進めてきた。昨年秋にこれが完成した。最近のPCマシンでFreeBSDの上で動作してFileアクセスなどの動作はFreeBSDが担当するという手の込みようである。今まで以上に高速で動作することになった。

x86仮想エミュレータの恩恵
初芝を離れていま、実はやはり仮想マシンにはまっている。今はvmwareというX86のシミュレータを動作させている。これがPENTIUMの400MHzクラスでは快適に動作するようだ。私は800MhzのpentiumIIIを使用している。なぜ使うのかというやはり古いツールが動かないからである。windos2000の上で一部にWINDOWS95の窓を設けてここでグループウェアのソフトを動かしている。linux版もあるそうなので、LINUXに変えようとも考えている。実機がない環境での開発という視点と古いツールを利用するという視点の二つが仮想的な環境を必要とする理由である。25年近く経過してなお続くこうした事情は、携帯の今後の開発でも同様に必要であるのだろうと思う。初めてシミュレータでツールを動作させた感激は、今も同様なケースで感じる。お客様の開発するソフトウェアの検証に自社での環境も必要でありそうした仮想的な環境についても、考えている。まだまだこれからも楽しめると思う。歴史は繰り返し、その都度新しい技術を学ばせてくれる。