VOL26 自転車を押して 発行2000/07/06

今回は,少し遠くのホテルしかとれずにいたのだが、QUADのビッグママこと(初芝通信PCDの某女史のお母さんといった感じ)、ボニークーンの取り計らいでいつものホテルに切り替えてもらった。ボニーには会社のクローゼットにしまってあった自転車を出してもらった。錆付きはないようだし、問題はなさそうだった。日本向けの作業を進めて夕刻になると、同僚のチャイニーズ系アメリカンのリビングストンに頼んでホテルにいきチェックアウトをして、併せて夕食をとりにアジア系食堂の多いコンボイストリートへ向かった。ヌードルが好きだという彼が、連れてきてくれたのは日本のラーメンが食べれる店だった。餃子と野菜ラーメンを頼み、彼は枝豆と海鮮ラーメンを頼んだ。ビールも寿司もあるようだったが、運転手である彼がもともとアルコールがだめな事もあって控えた。

地平線や水平線近くまでの青空が夕映えで色づきやがて夕闇に変わっていった。夕闇迫るサンディエゴを北上しつつ、次のホテルに行くのを忘れて会社に戻りかけたが、少し大回りをしつつもホテルに向かった。荷物を取り合えず持ち込みといっても小さなトランク一つである。いつものホテルは滞在型のホテルではないので冷凍庫の食品をどうするのかが課題だったが、会社の冷凍庫に持ち込む事で解決をみた。再び、リビングストンの運転で会社に戻った。京セラへの売却でビルが電子鍵の二重化が進み、車での入門にはセンサーが二倍になっていた。無論QUADのそれにかざさないとあかないのだった。夜型のリビングストンはまだまだ夜中までやっていくようだが、時間をシェアして効率をあげつつの作業が目的でもあり9時には自転車をセットしてもどろうした。しかし空気が物の見事に抜けていた。これでは乗っていけない。結果として自転車を押してホテルまで戻った。UCSDのキャンパスの周囲を回る形で、ホテルを目指した。以前より信号が一つ増えていた。少しずつ区画整理が進んでいるようだ。懐かしいベーグルショップも、まだ残っていたようで安心した。明日の朝は、ソーセージと卵によるベーグルサンドが食べられそうだ。ホテルに到着して、そのまま自転車をエレベータでドアからドアへ部屋につくなり買いおいてあった空気入れ(米国仕様)を使ってようやく自転車が復元した。明日は大丈夫だろう。

VOL25 フライトはノースウェストで 発行2000/07/05

日本のお客様のサポートのために日付変更線を越えようとしている。矛盾するようだが、事実だ。チャーミングなスチュワーデスさんが見たくてでは決してない。迫力あるユナイテッドのキャリアスチュワーデスからノースウェストに切り替えたのは私の個人的な理由ではなくて会社の選定だと聞かされたからに相違ない。あとで入社した後輩によると個人のマイレージを考慮するので変更しなくてもよいという方針に変わったようだ。いずれにしてもビジネスクラスでの往復となるので、折角利用した幾たびかの社用フライトのマイレッジからまた元に戻す理由もなくNWの赤い飛行機を選択して今日も飛んでいる。機内食も、ノースウェストは良いように感じる。以前、サンマイクロの招待で日本航空のビジネスクラスでツアーにいったが私は日本航空よりもノースが好きだ。
 
既に感覚が日本人離れしていると言われるかもしれないのだが、外資の会社にいて英語を公用語として利用している現在、感覚も変わってしまうのかもしれない。後輩はかたくなに全日空を守っているようだ。10時間ほどのフライトはブンブンフライトを予定しているロサンゼルスまでの飛行となる。昨年からの何度かの利用でブンブン飛行機にも慣れてしまっていた。前回は荷物と身体がバラバラに到着するという事件があったが、今回は、その撤は踏まないだろう。ただし、ロスからの便はユナイテッドなのでロサンゼルス大空港内の大移動をしなければならない。これがイヤでユナイテッドでのフライトを希望する人物もいるようだ。ノースからユナイテッドのチェックインでヒアリングで躓いた。まだまだだ。「何か誰かからか頼まれた荷物を預かってませんか」という最近のお定まりの質問であった。くさりつつも国内便の連絡をまつ。飛行機の時間には余裕があり、まだ前の便の飛行機にまにあったようだ。荷物を預けていたので変更はせずに待っていた。妻に電話をすると夜中のテニスの応援をしていたらしく起きていた。ダベンポートとモニカセレシュが緊迫した試合をしているらしい。
 
ブンブン飛行機に乗り込み真っ青な空に向かって飛んでいく。前方でアテンダントが避難方法説明をしているが眠気がきた。気がつくと、もうサンディエゴ上空だ。確かにブンブン飛行機の苦手意識もどこかにおいてきてしまったようだ。タラップを降りると到着した荷物が出ていたが私のトランクに似たものはあるが違った。荷物が着いていないのか。バゲージクレームにいくとそこには見慣れたトランクがおいてあった。私よりも一足早く到着していたらしい。前回とは逆だが、この場合はセーフである。強い陽射しでかつ、爽快なサンディエゴの空港からタクシーに乗り込んだ。これが初芝流の正しい方法なのだが、米国でのそれはメジャーな方法だとはいえなかった。運転手に行き先を告げようとして肝心のホテルの名前をド忘れした。・・・・innLaJollaなのだが。Rではじまったような・・・。しかたなく運転手に地図を広げてもらった。地図から指し示してResidenceInnLaJollaであることを再確認して運転手に告げた。しかし、運転手は知らないらしく地図をベースに回り始めた。ニ回人に尋ねてようやくたどり着いた。

たどり着いたホテルは2階建ての角ごとに部屋がある小さなコテージが並んでいるタイプの滞在型である。キッチンもしっかり出来ていて自炊もOKである。もらった地図で早速モールを訪ねたが程なく大きなモールがあり歩きでも十分にアイスクリームを買いにこれる距離である。映画館もあって週末はゆっくりできそうだ。明日は、タクシーか誰かに頼んで拾ってもらおう。とりあえず近くに住んでいるチームメイトにメールを送った。連絡があるだろう。モールで買ってきたビールとSUSIで夕食にした。明日の朝は買ってきたベーグルと牛乳だ。自転車がくれば行動半径が広がる。

VOL24 時代を動かす時がきた 発行2000/07/04

忙しいだけで求人をとることを止めるときがくる。そう携帯端末のソフト開発を変える事件を引き起こそうとしている。東川氏のことを知る人物から、開発が中断したテーマについて聞くといいだろう。この開発が、まったく新しい形でスタートする。綱島の会社も台湾の会社も同一次元にしてしまう。まったく画期的なストーリーが展開しようとしている。今、東川氏は、そうした事件の生き証人としてあるいはつぎの時代へのナビゲータとして米国に移動しようとしている。彼は二週間で帰国するが、この間に彼とコンタクトした人間にはあらたな取り組みの一端を語ってくれるだろう。無論、東川氏はそうした新たな話をするに値しないと思う人には、話すはずがないのだが、そんな人にはこの独り言すら送る必要がないのだから・・・。
 
21世紀に向けてきっと端末そのものを変革させるこのストーリーにジョイントすることについて後悔の念を持たずに聞き逃すことは出来ないだろう。これは、つまらないソフト開発に従事してきた人たちの仕事を奪うかもしれないし、あらたな市場を産み出すかもしれない。時代は21世紀のビジネススタイルを生もうとしている。殻にとらわれていてはチャンスは逸するし事業部の支援すら出来ないのだ。こんな面白い仕事を前にだまってなどいられない。是非話を聞いて欲しい。英語がどうしたなどといってられる状況などないのだから。今一度、記す。
 
あなたの感覚とまったく異なる世界を、また東川氏は見せてくれるだろう。世界に先駆けてVMベースの自動車電話を開発し、ソフトモデムを提唱し、8ビットのCを実用化し、製品ソフトをユーザーに書かせ、スクリプト言語で端末同士を結ばせようとした東川氏が動いたのだ。何かが携帯で起こるとだけ書こう。QUAD社に東川氏が移った理由の一つはHDRだった。しかし、彼はソフト屋だ。東川氏がHDRでやりたかった事とは何か。その理由は、広島と大阪と品川と綱島と佐江戸の技術者は知っている。この幻のプロトタイプを動かすとそれは時代からハミダシてしまうのだ。I-MODEやKVMでは決してない。
 
ワイドやナローといっている時代は終わっているのだ。何をするのかが問題なのだ。さあ、話を聴きに東川氏とコンタクトをしてみないか。

VOL23 梅雨空からエスケープ 2000/06/30

ヘッドハント騒動以来続いてきたワールドワイドな生活も一年を経過して、次の段階に突入しようとしている。すなわち次世代の育成も含めた展開である。梅雨明けを思わせるあるいは梅雨の中の特異日なのかと思う初夏の陽射しの中で次世代の候補者とのインタビューを行なった。現在の仕事の枠組みから一歩踏み出せそうな勢いが彼にはあった。きっと秋からの新オフィスでの仕事に参画してもらえそうな感触があった。日本の技術者のメンタリティとして工学部卒業の人たちには商学部での人のそれとは違い会社とは心中してしまったような気持ちがあるのではないかと、常々感じてきた。実際昨年の東川という事例を見てもそれは明らかだった。こうした気持ちは実は一皮向けてしまう事態に遭遇すると転位してしまうDRAMのソフトエラーのようなものではないかと考えている。宇宙線の照射で誤動作するあるいはかつての紫外線で消去されてしまうEPROMのようなものかもしれなかった。
 
彼の獲得には、既にサンディエゴからの責任委譲もあって日本サイドの我々の裁量で選択の判断をしてよいことになっていた。今日彼には最後に次のステップに踏み出してもらうために英語でのレジメを書いてもらうようにお願いをしたが、実はこれが彼への最後の試験問題であった。この言葉に躊躇しなければ合格なのである。彼と渋谷の駅でコーヒーを飲みながらこうした最終試験を実施し彼は合格したのである。彼は,現在の自分自身との対峙という彼自身の最終課題への取り組みを持ち帰った。日本のお客様が立ち上がりつつある次の製品開発の始まりの時期でもあり次週からの米国出張を前に彼と面談が出来てよかったと感じている。次週からの二週間の滞在期間中に彼とサンディエゴとのテレビミーティングを実施して彼の次なる目標への意欲を固めてもらおうと考えている。見知った東川が、テレビの向こうにいればきっと彼もリラックスして話してもらえると思っている。

彼は、東川を良く知った人間であったが、本来東川を良く知る初芝からのメンバーからの申し入れを東川は待っていたのだが、なかなかそうした動きはない。東川のような感覚が異常なのかと悩んでいる。東川としては、IMT2000のストーリーも出来て今こそHDRを始めとする世界を目前に意識ある若手メンバーの賛同を求めたいのだが中々得られないのである。東川自身は、秋からの業容拡大を含めて来春からの編入も含めてより緊密な意見交換をしたいと考えている。米国の転職のそれでは一週間と経たずにオフィスをたたんで次の会社に移るのが普通と考えている事と今やっている仕事のキリをつけてから移籍したいという日本人技術者のメンタリティとには、開きがあるのは仕方がないことであった。幸い、一年間の東川らの努力から全権を委譲してもらい日本での採用についての権限をもらった今、彼らの技術者としてのメンタリティを確保しつつの移籍ということが可能になっていた。2002にはHDRのサービスインを踏まえて移動体通信を標榜する会社の人たちの中から意識ある人の思いを汲み上げたいと考えている。
 
初芝から移籍した仲間たちからの賛同を色々もらいつつ、そうした気持ちへの転位をしてしまう人の出現を待ち望んでいる自分に気がついた。来週からはサンディエゴでの時差からの独り言になり一年経過した東川のTechPaperの発行も出来そうな状況である。不思議な話だが、忙しいので時差のある国で仕事をするのである。これから技術者が増加していく中で常時一人はサンディエゴにいるような体制にしていきたいと考えるのである。梅雨空からエスケープして、またWORDな日々をしようというのである。

VOL22 マシン不調・・・2000/06/29

人心地がついた折に、某ソフト会社のワークショップの案内が流れてきたので申し込みを出していた。返事が来ないので放置しておいたが、当日になって届いた。午後からの開催であったが、その会社の☆IN☆000が固まってしまい立ち上がらないために出れなくなってしまった。立ち上がらなくなると困るので立ち上げたままにしておいたのだが・・。ブートセクタを失ってしまったようだ。理由は書かずに断りをいれた。端末には入れたくないOSではある。実際、CEマシンもトラぶってばかりで昨年購入したJORNADAも入院を繰り返していてまともに使えていない。単機能にしぼったやしの実のシンプルな味も格別かもしれない。システムコマンダーも入れていたのだが併せて飛んでしまった。ゲートウェイ800が昇天してしまったわけである。何度かリトライして再インストールすることにした。
 
会社としてのGROUPWAREなどがなければ、あるいはWEBベースであればLINUXでも良いのだが現状はWINDOWS2000が当面の共通解である。仕方がないことなのだが、半日以上費やして、パスワード復旧の三回失敗でやり直しのループに落ち込んだ。なまじ入っていたのがWINDOWS2000なのでADMINのパスワードが一致しないといけないのだ。また、Adminでの利用を普段していなかったことも手伝っていろいろリトライしたがあきらめた。Cドライプには幸い、OS以外には殆どアプリを入れていなかったことも幸いして諦めがついた。とはいえ、復旧フロッピーが役に立たなかったSystemコマンダーには閉口してしまう。神田にいったおりにでも文句をいおうと思う。LinuxでMBRの差し替えが出来るかと思ったがこれも出来なかった。気がつくとあたりにはDOSや95ののどかな時代のフロッピーやCDROMもなく、NTとLINUXとWIN2000しかなかった。WINDOWS2000ではUNIX互換のツールセットが会社のサイトに置いてあるのでこれを展開した。WINZIPなどの定番ツールも同様である。マシンは24時間運転していて、会社にアクセスしてアーカイブやRCSでの登録なとリモートでtelnetで行なっている。回線速度の観点からも一番早いのがtelnetでviとrcsである。リモートで修正した結果あるいは、チェックアウトしたファイルをリモートファイルとして落とす。確認のmakeはリモート先のマシンが800MHzマシンなのでやはり出先のセルロンではやらない。一年前のマシンが実務の中で風化して使用方法も対応変化してきたのである。
 
会社で日常使うエディターはなにをおいてもVisualSlickである。次点はviだと思う。少なくとも大規模のソースを追いかけて対応していく世界においてはこれが最良のように今は思える。頻繁に提供更新されるバージョンアップの取り込みにおいてもVisutalSlickの差分エディタが活躍する。日本のお客様の殆どが秀丸を使っているのとは対象的だ。ある意味でRCSなどとの連携を細かく対応してくれたEmacsのようでもあり、高速grepとの連携などをよりWindowsでの完成度を高めたようなものである。日本語の使用にも問題はない。日本語リテラルの使い勝手もかってペンギンこと筒井氏が一肌脱いでくれたのが今の世界を支えている。周囲に感謝である。メールマシンであるセルロンが着信メールの到着をメロディーで知らせて催促する。今朝は、ケータイを忘れたり、マシンが立ち上がらなかったりとふんだりけったりである。のんびりとワークショップで午後を過ごせるかと思ったのが過ちだったのか。
 
昼食はパワーランチ気味に、マーケティングの部長とハードのAPPSエンジニアと弁当をぱくついた。ひとしきり、キャリアの悪口などをいいつつもその良くない仕様書に振り回されるお客様からの問い合わせなどの作戦を練りつつ会議を進めた。基本的に外野の分野だったので情報収集兼ソフト観点からのコメント対応をしていた。手元には、マーケティングが作成してQUADニュースの今月号のパンフを広げて確認していた。来月は、弊社も展示会でやく一週間がつぶれる。サンディエゴからのVIP達の対応やお客様とのミーティングが集中するのである。温泉大好きのVIPの対応を誰がするのかで意見が分かれていた。
 
マシンのお化粧が整ってきたのは、昼食がすぎたころである。本来の午前中の仕事を始めることができた。いくつかの懸案でサンディエゴと分担している問題についての質問がサンディエゴから来ていたので意見を添えて返した。むこうは夜にはいった時間である。雨も降りしきるなかで気持ちははかばかしくない。エアコンの効きすぎなのか風邪を気にしていた。矢継ぎ早に明日、朝から訪問するお客様の質問を重点的に攻めて回答をおこない、他のお客様への対応に入る頃にはもう9時をまわっていた。明日の朝が早いので切り上げに入ったところ、件の明日のお客様からの督促が入った。分担している同僚が、まだ他社支援に漬かっていて対応できていないのが問題だった。いくつか出来る回答のみをまず返してようやく家路についた。

VOL21 Yさんからの手紙 発行2000/06/29

毎週木曜日は、プロセス改善の日であった。もう一年が経過した。一昨年、初芝流の禁止技でプロセス改善活動は二つの躍進があった。(はずだ) 現場への浸透への真摯な取り組みは現場をいかに発奮させるかが鍵だった。禁止技は、そうした中で今はYRPローマに移籍しているNAKATA選手によって編み出されていた。彼の繊細な準備活動によって作られた計画書も、彼の次なるオーバーヘッド休暇で瞬時に現場のJさんをリーダーに変えて現場意識を発揚させた。もとより優秀な人材の宝庫であったT課長の部署には、こうした活動を支える素地があり思いのたけを実現していったのである。こうした基に広がりを見せた活動は、事業部に広く根付くはずだった。現場が発奮しても、管理が発奮しないのではその広がりは閉ざされてしまう。禁止技のPart2はプロセス改善の推進役である東川によって発動された。彼はヘッドハントされたからと外部に転身することを名目にして、会社側を説得して体制強化の確約を取り付けてきたのである。体制強化の時期でもありいつまでもオタクな東川に任せていては現場への悪い影響まで出てくる。人望のあるYさんを選出し、実効のあるH技師も担ぎ出すことが出来た。初芝の文化は緊急事態に発動するということになるのだろうか。こうした緊急事態も一年を経過するなかでゆったりと熟成をしてきたようだ。Yさんからのメールにはこんな雰囲気が感じられた。なぜか、コーヒーメーカーの音が懐かしく聞こえてくるような気がしていた。レベル3達成に向けて道具立ても含めて色々な約束事も決めて結束が固まっているようだった。
 
YRPローマの試合観戦にも是非訪れたいと思う今日この頃である。初芝を出ると、初芝がよくも悪くも見えてくる。会社の判断方向として多数の社員生活を預かるという立場からみて大変な時代の中で利益を出して悲鳴をあげるほどの生産を続けている姿は凄い、さすが、と感じ入る。そうした反面、仕事に悩みを持ちつつ苦しんでいる多くの技術者も知っている。そうした技術者に東川が出来るのは、自分の経験を語り、技術者としての自覚に目覚めてもらうことの手助けをすることくらいである。QUAD社から見れば仲間が増えるのは嬉しいし、それも望まれていることである。しかし、Yさんからのメールを読み返しつつゆったりとした中で着実と仕事を進めている姿に改めて敬意を表し、互いに切磋琢磨する仲間でありたいとおもうのである。仕事に悩み環境を変えたいという色々な方に出会い話をするチャンスを得た。またそうした人たちは素敵な気持ちで仕事に取り組んでいることもわかった。それでも仕事の悩みが消せない人たちにとって要素技術という観点からは十二分な環境で応えられる職場として、明日も懺悔の人とミーティングをする。職場をかえて初芝を応援するという仕事も素敵なことだと私は理解している。

VOL20 ケータイでゲームは 発行2000/06/27

チップセット商売も携帯文化の変遷から大きく様変わりしようとしているようだ。もう、通信プロトコルのレベルでうんぬかんぬ言っている時代ではなくなりそうだ。ゲーマー上がりのテスターを雇ってリアルタイム性能をギャランティしなければならない時代に突入するのだろうか。Javaなどの話で出来るPDAという道もあるだろうが、日本が世界に誇るのは携帯文化とゲームにほかならない。ザウルスでLINUXならば日本の答えなのかもしれない。着メロはカラオケと同一レベルの日本発の文化だろう。シンプルなキーボードの構成で出来るゲームボーイの世界とケータイのUIの世界にはまた大きなギャップがある。ゲームをやるにはフレームワークとしてはひ弱である。ケータイでゲームをするよりもゲームで電話がかけられた方が良いのではないだろうか。既にメールマシンなどはゲームの域に入っているようだ。軒を貸すと母屋をとられかねないこのご時世だ何が起こるのかは不明である。ゲームとなると逃げ越しになる会社も多い。花札な893な世界には相容れないのだろう。
 
さてJavaとPDAの世界は、実は、これこそ自営通信などでのSOHOな世界に私には映っているのがどうだろうか。自営こそJavaだろう。公衆でのJavaなゲームで失敗したケータイで細々とSOHOな自営通信システムを構築できはしないか。答えはNOである。ケータイのランニングコストが高すぎるからである。では方策はないのだろうか。年末まで続く、HDR実験が、その答えになると考えている。2.4Mから600kというスループットを駆使したアプリケーションは考えるのみでも楽しくなる。楽しい忙しさを共有できる人を探しているのだが単なるオタクな忙しさに埋没している人が多いようにおもう。アプリケーションを書くのに辛いから楽にする為にコンパイラを開発してみようという発想が生まれる土壌があったことを私は知っている。問題は自分自身の中にあるように思う。上司に理解がないのではなくて、自分自身にプレゼンテーション能力が不足していると考えてみると人生は変わるように思われるのだが・・・・。

VOL19 H君からの手紙 発行2000/06/26

久しぶりに懐かしい仲間からメールがきた。初芝時代に共にしたことのあるH君からの手紙である。まだ、場所が移ってしまってからは初芝時代にも顔をあわせなくなっていた。東川が初芝をさってからは一方的な東川からのメールマガジンを読んでいたようだ。初芝での仕事は、事業部ベースでの開発と現場をも含めて開発しているものとがある。システム開発のコストダウンには、多様な機能を容易に実現するオブジェクト指向の考え方が有用である。しかし端末ではなかなかそうした手法ができないのであった。端末のリソースが限られるからということになっていた。昨今の端末開発でも、まだそうした一面は残っているようだ。最近の差異があるとすれば、逼迫した部品供給条件があげられる。使いたい部品を指名できず、手に入る部品で設計することを要求される時代になっていた。であれば、ソフトウェアの開発量も減るような気がするのだが、やはりソフトウェアの開発チーム毎のコミュニケーションの悪さは業界の共栄会社依存などが要因となるのか、大同小異であるらしい。

さて、H君はオブジェクト指向の技術を物にして、こうした業界のどこへでも出て行ける実力の持ち主であると私は評価している。彼の上司もそう話しているのを知っている。自由闊達に開発に取りくんでいるかと思いきや、メールの内容は悩みが書かれていた。携帯開発のメーカーへの転身を真剣に考えていたが、こうしたメーカーでは英語の重要度が増しているのだった。そう技術だけでは片手落ちなのだ。以前初芝の入社した折に「会社をいつ辞めてもいいように自分自身を磨くことが必要だ」と矛盾に満ちた話を聞かされていたことを思い起こす。実際そうした状況に自分自身はなってしまったわけであるが、会社が要求している英語の能力を実は拒んでいるのは技術者の側ではないのだろうか。会社の言う通りに力を身につけていれば会社にとっても、自分自身にとってもプラスになるのだ。

品川の会社に移ったA君ともメールをよく交している。彼は、初芝時代の辟易した点として自分達には、昇格条件として要求された英語の能力が自分達の上司達においても要求されるべきだという点を転職した当初は話していた。しかし、彼も実際の仕事の中で英語抜きでは進まない,現在の状況を痛切に感じたようで最近では、そうしたことを話さなくなった。中つりの見出しなどによれば課長を全員平社員に戻すような話まで出ている会社もあるらしい。逼迫した中で新たな仕事の仕方を会社も模索しているようすだ。
 
H君の話に戻そう。彼は、携帯メーカーへの転職を英語のレジメと面接というキーワードで断念したようだった。確かに、ワールドワイドに仕様が共通化する中で日本という枠組みで進めてきた技術立国が揺らいでいるようにも見える。物作り、開発、いろいろな側面がメーカーにはあるが技術者としてソフトウェアを進めていく上ではシステムを考える側に回らなければ、歯車の一つに自分が思えてしまうだろう。どんなに最先端の技術に従事しているとしても主体が自分の中になければ、その仕事は楽しいだろうか。技術者としての日本の優位性はどこにあるのだろうか。グローバルスタンダードの時代に三極鉱石を発見したといってもゃはりTransistorとして原理を発表してこその技術なのだ。我々には、そうしたことが求められているし無論、アジアあるいはユーロ・アメリカの技術者と対等に付き合っていくことが今また求められているのだ。一度自分の履歴書を英語で書き起こして自分の主張をまとめてみると自分の能力がより鮮明になると思う。
 
恥ずかしいのであれば、先輩として拙い英語の発表でも聞いてあげたいと思うのだが、皆はにかむばかりだ。

VOL17 インタビューの日々 発行2000/06/24

夏に入るのかと思い込んだ金曜日、また梅雨であることを思い返される天気になった。いつもより早くに会社に向かい大門で途中下車をした。ベーグルを買い求めるためである。ここのベーグルは中々良い。昼食をベーグルにしてみるためである。半年ほどの缶詰暮らしで体重が増えたことを気にしてのことである。幕張のお客様のサポートを確認しつつ、午前中にアポの入ったSONYの候補者との時間を気にしていた。サポートチームはフロアとして独立していて今年に入ってからは昨年からの3db強化もあって賑やかになっている。またソフトウェアの支援体制としてさらに6dbの増加をしていくには賑やかから騒々しさには変えたくないものだと、ある会社を思い出していた。

支援部隊としてのスキルはソフトやハードと限定されるものではない。総合的なシステムとして稼動しているCDMAのハンドセットを仕上げているお客様からの問い合わせには当然自分の得意でない分野も含めて広く考えて誰に聞くべきか、何を聞き出すべきかを考えつつのメールや電話の対応を進めていくことが必要である。入り口が騒がしいと思ったら朝からキャリアとやっていた電話会議が終わったようだった。幕張のキャリアとはなにか違うもたついた点が、このキャリアの良くない点であり二番手の烙印が中々消えないのだろう。社名を変えれば直るのだろうか?米国サイドで対応していた面々の顔や日本サイドでそれを危惧していたメンバーの両方の困惑の顔が思い浮かんでいた。会議は簡潔的確に意見をだしあうものなのてあるがずるずるとした印象で終わったようだ。こうしたキャリアの育成も含めて我々の仕事なのだろうと思う。どこかの会社でどこかの団体相手に行なわれていた悪い事例を思い出していた。

そうこうしているうちに品川の会社の候補者から電話が入った近くまでついた様子だった。最近品川の会社に転職したやつからの紹介である。品川の会社で10年以上仕事をしてきたツワモノらしい。品川の会社では10年の間に50%は転職してさるのが社風らしい。彼らは社に貢献するとかいった文化や精神はなく、まったくの個人の思いのみで仕事に就いているというのが初芝と大きく異なる点のようだった。要素技術を志向しつつもの作りに励んできたという候補者とひとしきり話をした。初芝時代を思い返しつつ、前職での話をすると彼はQuad社にしようか初芝にしようか悩んでいるようだった。表面からみる華やかさの品川の会社とは好対照の初芝ではあるが携帯というジャンルで特化してその頂点からほかの事業全てを引っ張っているというのが彼の初芝の印象らしく高速化時代をにらんで携帯を中心とする要素技術の世界に飛び込もうか悩んでいる様子だった。初芝は、現在社を挙げてWCDMAを推進しており求人活動も積極
的なはずだった。

品川の会社でワイドの開発をしているA氏は周囲の人的環境のひどさに閉口しつつも技術的な自分としての目標を目指して仕事完遂までは会社に留まりたいと話していた。きっと彼もQuadで欲しい人材の一人である。システムの要所を押さえられる数少ない技術屋である。そんな彼の紹介であり,実際この候補者とも意見の位相にずれはなかった。数多く品川の会社の中枢プロジェクトを任されているが人的環境のひどさなどから参っているというのが彼の状況に見受けられた。年度末までの仕事でキリをつけて移ることが出来ればというのが彼の希望だった。我々はすぐにでもきてほしいところであり彼のパーソナリティや能力の印象などからまずは保留して継続していきたいという感触をえた。

支援技術者という仕事が、東川が初芝から移籍してきて要素技術を提供支援していくという東川の初芝での思いと符合をしたんだという話をしたところ意を強くしてくれた。彼を紹介してくれたメンバーも含めて来年に向けて拡充していく姿が思い浮かんでいた。彼も初芝にいたとしたら、かつて東川が執筆していたTechPaperに投稿などもしてくれたであろう。要素技術で支援していくには、それを売っていくことが必要だと初芝時代に提言していたのだが、実際に商売としているQuad社に来てそれを実践している自分に気がついた。技術者のための技術者という支援技術者の仕事の妙味は中々わかってもらえないのだろう・・・

VOL18 学校はいま 発行2000/06/23

梅雨のさなかではあったが、母校を訪れた。赤坂から京葉線の乗り換えはいつものことながら良い運動になる。時刻表の8分ほどのマージンも実際はほとんどないような状況の距離である。学校を出てから四半世紀近いのでアクセス方法も多様になってきた。既に特急は京葉線に移ってしまったし、アクアラインでのバスも便利である。子供が少なくなってきた時代に、高専というものがどうなっていくのか、昨年の転職事件以来訪問していなかったこともあって訪問することにした。半日のデイオフを電子メールで事務所とメンバーにメールは投げていた。出先であっても急用があればcdmaにメールが入るのだ。東京駅からビューわかしおは雨の中を、ディズニーランドを横目に抜けていく。平日の雨という状況でも駐車場は一杯だった。家族旅行の風情のボックス席が空いていたので混ぜてもらいメールを確認しつつコーヒーを飲んでいた。

高専という学校が,現在のシステムアーキテクトを目指している時代で、どう機能していくのか気になるところである。電気が好きで入学してくるといった時代を東川は過ごしてきていたが、いまも同様なのだろうか。日常にケータイやピッチを利用しているような中でどんな意識が学生に生まれているのだろうか。高専は中学に続いて専門教育を大学レベルで実践し実習などを中心とした実戦力を養わせることが設立の主旨であったはずなのだ。確かに旧式の二現象のオシロで学んだことは、役に立ち会社生活でのそれにおいてどんな環境でも計測解析を出来るようになっていた。会社生活の中で研究職としての配属はありえないというのが当時の会社での考えでもあった。受験勉強というレース経験を持たない高専卒のメンバーの評価としてはしかたのないことであったろう。思い返すうちに蘇我に到着して、内房線の快速に乗り換えた。内房線の快速電車の停車駅の数は、やはり沿線の発展を映して増えていた。木更津に到着して茶菓を買い求めてタクシーに乗った。田舎だった木更津の町も大分変わっていた。校内に入っていくと来る度に建物が増えているような気がしていた。

一昨年訪れた折には、初芝通信のリクルータとして、翌年には木更津高専からの要請で先輩として社会人生活についてのパネラーとして意見を述べたりしていた。四半世紀前との差は訪問すると明確で、女子学生が一般化していることである。今年からは女子寮まで出来たそうである。機会均等という観点からもこうしたインフラ整備は良いことだとおもった。女子学生が増え始めたことは知っていたが女子寮まではなかった。かつて、初芝に入った頃に技術者として女性が入学したころに顕在化した。初芝としては、女性社員の定義を親元から通勤できる範囲として捉えていたことだったのである。女性の初芝進出は、およそ20年ほど前に私の後輩として入社したことではじまり、やがて初芝にも他社並に女子寮が出来るようになった。訪問すべき先生は、電気工学科と電子制御工学科に今は分かれている。かつては、電気工学科しかなかった分類が情報・電気・制御とに増設されている。高電圧から電子回路までの広範囲を学ぶことに無理はあったのだと思う。

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