業界独り言 VOL117 新世紀にあった開発の考え方

期待に満ちた21世紀に入ったのに、この閉塞感はなんなのだろうか。何を間違えて世紀を越えてしまったのだろうか。世の中に物は溢れているのに、開発すれど楽にならず厳しさだけが増していく。生産したものの価値が低いのに対価を高く要求してしまうことによるインフレーションだったのだろうか。最近では、給与を抑える形にした新しい形のデフレーションが進んでいるようだ。

ユーザーの価値観も多様化してきている。必要なこととそうでないことに対しての感覚は鋭くなっている。もらえる給与のなかでやりくりしていくのだからいたしかたないだろう。端末の競走が、キャリア同士の顧客不在の状況が続いている。わざわざ携帯でゲームをしたいという顧客に実際にこの機能を組み込むことで発生する費用はいくらで結果として通信費用を押し上げていますよとかハッキリと説明できるキャリアはどこにもない。

これは、どこかのキャリアが破綻するまで続くの死の行軍ともいえる。キャリアが死ぬまでには、多数の殉職者が出てしまうのは過去の戦争の歴史などを紐解いてみても明らかである。ましてやキャリアが破綻すれば、利用している顧客にそのまま跳ね返ってくるのは対岸の電力事情をみても明らかだ。キャリアが端末を販売するという構図そのものが間違っているのではないだろうか。

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サンディエゴ通信 VOL7 米国で気になること

発行2001/8/3

夏休みも始まり、朝夕の電車は少し空いて来たこの頃である。展示会とお客様を招いてのトレーニングなどが重なり多忙な中に急遽の如く本社への出張指令が下った。前回の轍を踏まぬよう、ノースウェストに戻しての航空券手配をお願いしたのはいうまでもない。 日本航空でのビジネスクラスで、いやなのは日本人が多くてビジネスクラスでお行儀の悪い方が目に付くからである。それだけリラックスしているのかもしれないのだがリラックスしたいの私も同じでお行儀の悪いひととは居たくないのである。 日曜日の午後の出発であり、のんびりと横浜まで出掛けると成田エキスプレスは満席で立ち席乗車しかないとのこと。成田エキスプレス以外には快速でグリーンという選択のほうが美味しかったかも知れないが、気がせいて立ち席乗車で乗り込んだ。 最近の特急では禁煙が当たり前だが、連結部は喫煙可なのであり大学生と思しき男子が座り込んで吸っているのは致し方ないことだった。東京からは立ち席乗車で米国人が乗り込んできてラゲージコーナに陣取って座ってしまった。彼らは煙草を吸わないのだが自動ドアが開いてしまって連結部の若者のたばこの煙は容赦なく座席にも充たされていった。 飲み物を片手に歓談している彼らに外交交渉に臨むものは出てこなかった。この中の女性から第二ターミナルは次なのかどうかを聞いてきた。次の駅ですよと答えると一人の男性が親指を立てた。彼だけが違う航空会社で帰るらしいのだった。同じく東京からは東洋系の若い女学生と思しきチャーミングレディが乗り込んできて、連結仲間に参加していたが、彼女は何かそわそわしていたようで、私が外交交渉に応じたのが目に止まったのか乗車券の買い方を私に聞いてきた。そのうちに車掌がくると思うから待っていたらと説明すると安堵した様子だった。夏休みに入った中国に帰る留学生とのことだった。 煙草を吸っていた若者は、彼女の素性か明らかになったので当然煙草を止めてアタックに入ってきた。窓際にたった二人は、大学の話や地元の話を互いに始めていた。日本の学生にしては、積極的だと思っていると彼も帰国子女の経過が小学校のころにはあったらしい。 先に第二ターミナルで降りるといっていた米国人の彼は、自動販売機は無いのかと私に聞いてきた。昼の時間帯なので成田エキスプレスの編成が短くて連結部に自動販売機はないようだけど・・・と説明すると前の方に眼をやると車両の中まで結構な立ち席乗車の人が増えていて視界もままならなかったようだ。 しょげるのが判ったのだが私にはもうすぐ着くよとしか返す言葉見つからなかった。しかし立ち席乗車の人の波をラッセルしてきたのは車掌と共に車内販売の売り子さんだった。中国帰国の彼女も米国へ帰国の彼氏も二人とも満足げになったのはいうまでもない。改札の案内の後には乾杯が始まっていた。 千葉県が反対しようとどう思うと成田空港が決して便利でないことは明らかなのだが、時間を潰すという目的であれば成田空港のほうが羽田よりは良いそうだ。これは、中国の彼女をなんぱしている大学生の彼氏の受け売りだが。空港の上空で順番待ちしている様は中々理解されていないのかもしれない。複数の空港あるいは滑走路が増えるということで解決してほしいものだ。 成田空港の第一ターミナルも半分のウィングは閉まっていてなんとなく最近の不況の中で見ると余計に日本が貧相にも映ってしまうのは私だけか。滑走路の増設が決まり両ウィングがオープンするのはいつなのだろうか。 ノースウェストは便数が少ないのでカウンターが開いている時間が限られる性もあるのかいつもチェックインカウンターは混んでいる。予め席は先頭の席が取れていたので心配はなかった。ビジネスで席の心配があるのではこまるが。出国審査では書き込み手続きが無くなったので単に行列のみが長蛇になっていた。夏休みなのでいたし方ないところだが、ポイントはここである。出国審査窓口の空いてない側に一番近い列に並んで、窓口が空くのをすかさず察知することである。私は早々に先頭に陣取ることに成功した。しかし、パスポートの読み取り装置が私のパスポートを読み取るのに手間取りまだ手続きが慣れていないことが見て取れた。帰国するときにお手前拝見といきたいものである。 機内サービスもノースウェストに戻りほっと安心してゆっくりと休みつつ過ごすことができた。和食はなかなかお勧めなのだが、ボリュームという点では、不満かも知れない。そうした方にはあとの夜食スナックタイムにおにぎりなどが配給されるので心配はない。そのあとに二度目のデザートタイムも別途ある。さすがに朝の到着メニューではバナナだけもらって済ました。残すのはいやなのである。これは日本人の気質としてあるのではないだろうか。
サンフランシスコ経由で三時間あまりを空港で待機するのだが、この間に例の日本食コーナーで饂飩とカリフォルニアロールをつまんでいた。残念ながら、箸が品切れでフォークで饂飩を食するという珍妙な経験をした。やはり食べにくいものである。 サンディエゴ行きのジェットは発着口の変更のアナウンスがあり、暫く待っていたメンバーは口をへの字にして移動を開始はじめていた。柔道部の集団かとおもうような坊主刈りの一連がいたのだがU16と記載されておりサッカーには見えず何事かと思っているとアメフトだった。さもありなんという一団が、親善試合という名前でサンディエゴまで行くようなのであった。 エコノミーの席とはいえ三時間も前にチェックインしていたので席は先頭の窓側だった。最初のアナウンスで呼ばれてさっさと乗り込んだ。アメフトの一団やら初めての海外個人旅行でどきまぎしている風情の学生やらでごった返していた。サンフランシスコから空路はジェットでは揺れも少ないのだが、最近ではロサンゼルスからのプロペラ機に慣れてしまったのもありバスに乗っているような感覚になっていた。地上に見える風景には、これから進学する甥が行く大学町もあるらしいのだが、まだ地理的な位置はハッキリとは知らなかった。 実は前回の出張の際に、甥の進学祝いで彼が必要とするパソコンの半額を負担しようという申し出を姉にはしていて、半額は彼が今まさにバイトをして稼いでいるはずだった。振込先の銀行口座を教えてもらうように電子メールで姉には何度も催促をしていたのだが梨のつぶてだった。成田空港で買い求めた土産の餅菓子の箱二つは実は最後の秘策であった。 サンディエゴに到着すると後から到着する仲間が借りるレンタカーに乗せてもらうために彼の到着するコミューターターミナルに移動する必要があった。しかし、実際には到着したものの荷物が見つからないのである。荷物が出始めて辺りに人がいなくなるまでバゲージクレームの中で待ち受けたが見つからず困ったなと窓口に行きかけると既に到着していたと思しき荷物が脇に寄せられており、その中に私の荷物は待っていた。三時間待たされた主人とは別に先の飛行機に乗せられてしまっていたのだった。 時間的にロスをしてしまったのだが、コミューターターミナルへ行くレッドバスに乗り込み遅れた説明をしようと思いつつ降り立つと、荷物が到着しないんだと文句をいっている仲間と落ち合えた。彼の場合は、人が多すぎて荷物が積み込めないということでありこうした事態は普通のことなのだという事らしい。空いていれば次は混むから早めに積み込んでしまえという判断もあるようだ。幸い、次の飛行機が到着して降り立つ人影の中に事務所の別の人間もいた。日曜日の移動するのが常とはいえ、同一時刻に三人もが空港で出くわすのは珍しいことであった。待望していた仲間の荷物は最初に出てきたので一安心し、更に期待した三人目の彼の荷物は、同時に到着していた・・・。 レンタカーを借りるために連絡バスに乗り込むと、運転手は特別メンバーの人は居るのかとアナウンスしてきた。三人連れのなかの男がラストネームを告げ呼応すると、運転手はモトローラの業務用無線機に接続されたコンピュータ端末にタイプインして、応答表示されたスクリーンと照合してファーストネームを読み上げて男と照合が完了した。これも一つのプロトコルである。 特別メンバーの車は予め全て用意してあるらしく、バスはまずその地点で止まり三人はすぐさま車に乗り込んで移動していった。合理的な事が大好きな米国の考えそうな差のつけ方である。特別メンバーがまだ取れていない仲間は、カウンターにならび手続きを進めて実際の車を見て確認をしたりしての通常の手続きをだらだらと踏んでいく。こうした長い手続きに慣れているのも米国人の感性として評価すべき点だろう。それだけに特別メンバーなどの合理的な方法を考え提示するのかも知れないが・・・。 借りたコンパクトのキャパリエは冷房・ラジオ以外には何もオプションが見つからない仕様だった。ドアも個別にいちいちロック解除しなければならない。一人でのるのならそれでも気にならないのだが、二人で乗るときには不便であるようだ。当然窓の開閉は手回しである。 サンディエゴの強烈な青空の下で、涼しい風を浴びつつの車窓には、もっと開放的なオープンカーで走り回っているご老人の夫婦の車が何台か追い抜いていき人生を謳歌しているさまが綺麗な絵になっていた。燃費を気にするでもなくバックトゥザフューチャーの60年代に戻ったかのような車が快走しているのである。キャバリエに乗り込んでいる我々は、エンジンの音がゴロゴロいって気にかかるといった日本人っぽい感覚の話に終始したりしている。 今回のホテルは、この仲間が選んだヒルトン系列のエンバシーである。ホテルの概観はずんぐりした印象なのだが中は中空で中庭になっていて天井は明り取りが付いた不思議な空間のホテルであった。中庭をぐるっと囲んだ形の客室棟は12階まであり中庭はカフェとなっていて五階まで届こうかという大きな木も茂っており池には緋鯉が泳いでいる。そんな中庭を一望する展望エレベータが壁に露出する形で四本が運行しているのだ。 マリオットホテルはどちらかというビジネスが多い印象なのと比べて、エンバシーホテルは旅行客が多く子供も多いのが夏休みのせいもあるかも知れないがそんな第一印象だった。朝食は込みで付いているのはありがたいことだった。毎日、ベーグルショップに朝食を食べに寄っていたのがいつものことだった。 大きなモールにも面していて不便さはない。部屋は二つあって寝室とリビングである。リビングにはソファが四人分と低いガラスのテーブル、食事に使える丸テーブルに四人分の椅子、そしてテレビと冷蔵庫と電子レンジと珈琲メーカーがある。寝室には親子三人で寝れるほどの大きなベッドとテレビと洗面があり、あとはバスルームがあるのはいうまでもない。部屋の入り口は中庭に面した回廊側にあり、こちらには窓が設けられていて開放的な感じがある。 私の部屋は、エレベータから程近い便利なところだったが、ひっきりなしに動作しているエレベータの低い周波数の振動が気になったりもしていた。何か、不思議な感じのする中庭を見下ろす天井付きの広い空間は、子供達が飛び回ったり遊んだりするのには適しているようだった。子供ははだしで歩き回っている。洗濯機も低層階には配備されていて四台は無料だった。上層階の一台は、逆になぜか75セント必要だった。乾燥機も当然ついているのだったが仲間はいつもシンクで洗い風呂場で乾燥するので十分だともいっていた。この地域の乾燥具合からいえば確かにいえるのでもあった。 到着した日には、サクラメントの姉には電話していた。彼女の長男すなわち、私の甥が大学進学を決めてアルバイトにいそしんでいるというのが、私の理解だったのだが、彼は、ハイスクールの卒業行事のイベントシャツを企画して収益をあげたらしく、叔父さんの理解とは異なる方法で収益をあげて残りは叔父貴からの特別仕送りを期待しているわらしべ長者状態のようだった。振込み先の再確認を電話でも告げたのだが、翌日になっても電子メールの連絡がないので諦めて強制代執行に移り、土産の間に100ドル札を挟みFEDEXの一番不安全な方法で送付することにした。受取人がいなくてもドアに置いてくればよくて早く着けば良いというような選択である。結果、かえって何も怪しまれることも無く無事送金の目標は達成した。 例によってほとんどコンボイ通りの和食系のレストランで夕食をとっていたのだが食べる量は半端じゃないというのが毎度のことだが驚かされる。チョップスティックという日本食堂でとんちカツ定食というのを頼んだところチキンと豚のカツがハーフアンドハーフで出てきたのだが、そのトンカツだけでも日本では定食の量なのだと思う。 中華レストランでは、4人で行き4人のコース料理を頼んだのだが、ウェイトレスのお姉さんは、もう一品頼まないのかと引かなかった。実際に4人で食べて更に少しだけ残る程度で「ほらね美味しかったし十分だよ」と説明して漸く納得したようだった。 最近は日本でもあるFRIDAYというレストランに入りステーキとエビフライとポテトというプレート料理を頼み、スープにはオニオンスープがカップという名前の小さなボウルに入って出てきた。仲間はポークスペアリブとオニオンリングとエビフライのプレートを頼んだところリブの骨の分もあるのだろうが山盛りの料理が登場して、彼はさすがにドギーバックにしてもらい、翌朝食べたようだ。 今日は最終日でもあり、海の見えるデルマーという海岸地区の日本食堂に向かった。店内ではなくテラスで青空の下で夕食を食べて酔いの回った顔に夕陽が映えるといった中で寿司のコンビネーション弁当というプレートを各人が選んで食べた。私は照り焼きチキンと天ぷらとカリフォルニアロールのプレートで当然ご飯は寿司とは別に盛ってあり、味噌汁がつくということだ。六人ほどで食事をしてビールとつまみを食べたのだが$200ほどだった。まあ、出張中の食事は、全て会社の経費となるので建設的な意見交換が出来るビジネスミールとしてはお安い費用だろう。 ホテルに帰ってくると回廊の部屋の入り口には、食べ終わった皿や料理が置いてあり食べ散らかしたという印象の食べ方のまま残してあったりする場合も多いようだった。ともかく沢山盛っていないと気がすまないというのが米国流の感じ方のようで、それを食べきる人もいるし、食べきれず残すのでドギーバックにするという習慣もあるし、そのまま残してゴミにしてしまうという姿も、普通にある。さぞやゴミが出て漁るカラスで困ると思いきや日差しが強すぎるかカラスは全く見かけないのだ。普通ならカラスが氾濫して外のテラスで食事などできないのが日本なのだが、こちらではやせたすずめが落ちた食材を食べたりしている。 気になることも多い米国なのだが、そうしたことが気にならなくなっていくのが米国なのかも知れない。

業界独り言 VOL116 天動説から地動説へ

少し古い話になるが、リアルタイムOSを開発したことについて記しておこう。坂村先生の果たした功績は大きい。組込の世界でのITRONシェアは凄いものだ。先だって坂村先生の講演を拝聴することが出来たが、BTRONへの想いは現在の携帯のGUIすら視野においていたものだったようだ。透徹した思想だ。
 
さて、私はリアルタイムにBTRON事件が起きたころを渦中のBTRONの開発を推進してきた会社に暮らしていた。80286のアーキテクチャを使い切ろうとしたのはBTRONだったのかも知れない。インテルのアーキテクチャには不備もあったようでBTRONでは特殊なAPIを取ることになったようだ。
 
そんなことは、無線機器開発に身をおいていた自分には知る由もなかったのだが、仲間には、BTRON開発に参加した経験のものもいた。組込システム用のRTOSを開発することになったのは、偶然の所産であった。予めスレッドを分割したコードを作り出すプリコンパイラという機構を発案し、この実装を進めてきた。
 
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業界独り言 VOL115 新技術の追っかけは好きですか 発行2001/7/26

じりじりと暑い日々が続いている。最近は、帽子を被り首筋の日焼けをガードしているのだが、リュックを背負っている、その姿には採集網が似合うと言われている。ゆりかもめの週に続いては、品川港南口でのトレーニングセミナーが二日続き、叉サンディエゴからは仲間達が支援に駆けつけてくれた。HDRのセミナーだった。

最近のQUAD社の製品展開は、必ずしも日本のキャリアのスケジュールにマッチしている訳ではないが着実に製品を出してきている。マイペースと映るかもしれない製品群によっては山ほどのお客様に対して広いホールを借りてのセミナーもあれば、こじんまりとしたセミナーを会社の会議室で行ったりもする。

規模に限らず出来る限り日本語でセミナーを実施したいというのが私達の思いではあるのだが、支援してくれる仲間は逆に日本語で説明している間に繰り出された、質問についてのキーワードのみが耳に引っかかり気になってしまったりもするようだ。しかし、この二年間の間にお客様のトレーニング対応力も随分進展したようだ。

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業界独り言 VOL114 携帯業界は夏休み?

東京ビッグサイトの一週間が明けた。月曜日の設置以降、3日間の立ち尽くしの日々であった。展示会の中での説明員という立場で過ごすのは、この会社に移ってからは初めてのことである。携帯を中心とするこの展示会は、携帯電話業界の現状を映しているのだろう。掛け声のみが空回りしているような雰囲気が感じられる。

展示会はトレードショーを標榜しているのだが、実際のところお土産狙いでカタログコレクターになっているのが日本人の姿の多くのように映る。QUAD社のチップを契約して利用するのは、限られた製造メーカーの方であり、そもそも展示する意味があるのかどうかという本質的な問い掛けすらあるのだが・・・。

そうした対象となりうるお客様の訪問も当然あるし、モバイルブロードバンドという時代に向けてPCやPDAの業界の方が開発の対象として捉え始めているのも事実ではある。そうした時代の要請として、3GPPが推移してきたはずなのだが、二年間あまりの推移を見直してみると果たして狙いどおり進行してきたのだろうか。

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業界独り言 VOL113 真夏のビッグサイト

ワイヤレスエキスポの季節がやってきた。独り言の発端にもなった展示会でもある。あれから三度目の展示会には、日本事務所として説明員として動員されることになった。昨年はと思い返すと、どこかの顧客の支援作業を進めていたようにも思い出す。こうした展示会も雨後の筍如く登場したものの沙汰止みになるのではないだろうか。
 
最新の情報を収集するのに使うというよりも各社の学芸会的な様相を呈してきていて出資を求めるベンチャーは手の内を美味しそうに見せることに終始しているのが実情だろう。火中の通信キャリアは、全てが順調の様に振舞うだろうし、追っかけをしている通信キャリアも、手を変え品を変え臨んでくるだろう。
 
サンディエゴからマーケティングのメンバーが来たので昼食時でもあったので近くの弁当屋まで案内した。一人はハワイ出身で片言日本語交じりでの会話もする。風貌からは、日系だと伺える。梅雨が明けたらしく、夏空になっている。高層ビルから出た都心の蒸し暑さは、さしずめサウナの如き状態だ。弁当屋には寿司や弁当が並んでた。
 
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業界独り言 VOL112 ワールドカップに向けて

次世代携帯が、華やかな情報と昨今の回収問題との狭間でゆれている。期待に満ちた動画ケータイが投入されてめくるめく魅力的なコンテンツが出回るのだろうか。試験運用からシステムの運用上の技術的な課題が解決されて、端末のプライスも安く抑えられた「すごいケータイ」が登場する筈なのだ。顧客は、皆待っている筈なのだ。

さて、次世代ケータイのターゲットは、当然ワールドカップなのだ。中村俊輔のフリーキックの瞬間を誰かが録画した内容が「俊輔くーん」と叫びながらメールに添付されて、送付されたりするのだろう。メインスタジアムの最上段で観戦している人たちにとってはフェンス越しに誰かが撮影したMPEGの瞬間ムービーが、あれば超嬉しい。

面白いコンテンツが増えて今までよりも高速にダウンロードが出来ても、その請求書をみて更に縮こまってしまうのでは、致し方ない。ワールドカップの開催会場である韓国で使えるようにWCDMAに乗り換えてくださいというのはメーカーの勝手な言い分である。しかし、横浜国際スタジアムで利用できるような動画インフラは無い。

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業界独り言 VOL111 ベンチャー気質の仲間達

株主総会の季節を迎えた、各社各様の迎え方をしているようだ。駅前から、会場までの道案内が出たりしている会社もあったようだ。会社の方針が大変更になりハードからソフトに切り替わった会社もあるし、カリスマトップが逝去されて会社の方向性が取りざたされている会社もあるようだ。トップに限らずカリスマ技術者もいるらしい。

オーバーアクションなパッション一杯の技術者がいる。「これが判らん奴は来るな」と迄言い切る彼の言動には、今までの技術者としての実績に裏打ちされているようだった。一億円で一部開示、三億円でパッケージとして開示、十億円で移籍すると断言する彼の説明には小気味よい響きがある。部門としてのベンチャー気質を感じた。

ハードとソフトの境界がはっきりしなくなった昨今ソフトウェアで実現する性能差別は容易に他社がキャッチアップ出来ると思われがちだが実像としては、提供されている数々のフィーチャーのインプリメントに追われているのが実情のようで、既に各社がインプリメントしたフィーチャーの数は各社の開発能力のバロメータとなっている。

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VOL110 Javaの楽しみはこれからか 発行2001/6/25

Javaの実用化時代を迎えようとしている。「携帯にスクリプト言語を搭載しよう」という暴言を吐いたのは94年頃だっただろうか。インタプリタで動作するスクリプト言語の多様な応用について研究してきた西海岸の研究所生活の成果を実践していた技術者との出会いがそれを携帯への実装という展開への取り組みになった。

まだJava以前の時代にそうしたものを米国に対して提起したというのも時期尚早だったのに違いない。PHSの32kbpsのデータサービスを使い切って実験をしていた仲間との出会いが早すぎる時代の扉に手をかけてしまった理由でもあった。ソースコードを飛ばしていた当時の実装が中間コードになれば、凄いことが・・。

そうした思いに突き動かされて初芝電器の技術力を総動員してのプロジェクト推進という展開になった。エージェントを飛ばしあい受け入れあうという概念は、今のJavaと何も違いは無かったし実際問題スクリプト言語もスタック型の言語だった。コンパイルした中間コードを飛ばそうというのが合言葉だった。

赤外線の規格であるIrDAの標準化も離陸しそうな状況だったこともあり今の愛のサービスとノキアの電話機とIアプリも含めて実装しそうなトンでもない内容ではあった。中間コードの実装検討と上位層のアプリケーション設計などをマーケティング推進の中でカスタマーである米国キャリアと詰めていたのだが、頓挫してしまった。

一つはデジタル無線機のコストが顧客の要望価格に至らないこと。一つは年明けに発生した阪神大震災である。中核の技術者が被害地域にすんでいたことも有り仕事に大きな影を落としてしまった。初芝の既存技術の集大成ともいえるプロジェクトではあったがビジネスユニットである事業部の価格理由などから中断となった。

プロジェクトは中断したものの、一度意識を高めてしまったことからJavaの前身となるプロジェクトなどの情報やWAPなどの立ち上がりを見つけて情報交換しつつ自分達の取り組みが時期を得たものだと納得していった。インフラを起こし端末を開発してアプリケーション開発ツールまでも提供するという仕事は大仕事であった。

Javaのコードが提供されたときには、VMを実際にコンパイルしてみて速度やサイズの評価などをしたりしてもみた。まだ実際の端末に展開していくにはVMのコードサイズが大きすぎた時代でもあった。速度はPCの上でも不十分であったが、評価用の画面やUIの設計をしていくことへの適用を試みたりしていた。

単なるインタプリタとして捉えた場合にはBASICも同様の制限があったはずでVMとしての問題点については解決すべき共通項があった。バーコードリーダ端末を開発した際にSDKの開発も含めて行ったのだが、当時としてはC言語のクロスツールを自前で提供していた事が時期尚早すぎてBASICの提供を要望された。

BASICについては当時すでに色々な端末にマイクロソフトベースのものが実装されていた。CのSDKも自前で提供していたこともありBASICについては、更に色気を出して高速なインタプリタを提案して開発を行った。ハードウェアによるインタプリタである。中間コードの割り付けを工夫して機械語と共存させた。

無論、当時の8ビットマイコンの命令セットがbasicに適合するわけもなく、16ビット整数演算の命令範囲のみが機械語となり、文字列演算やら倍精度演算達は中間コードとなった。コンパイラとの併用で中間コードと機械語を混在させる形を取っていた。インタプリタという仕組みは機械語と中間コードの識別だった。

結局、中間コードは例外割込みの処理として組み込まれた。現在のJavaの実装でのハードウェアインタプリタと同様な概念である。この際にパテント申請はしたものの、事業部の本業と関係の無い特許に光があたることはないだろう。無線端末を開発している事業部で「プログラム実行方法」に関する特許は、蚊帳の外だ。

Javaの実装技術としてマイコンコアの命令セット切り替えで対応するコア技術が登場した。レジスタの割付の意味などをJava状態と従来状態とで切り分けた上で不足する命令群は、拡張命令として処理を実装されている。拡張命令の実装は割込み処理としてのインプリメンテーションに依存する。先の特許に抵触する。

とはいえ、転職した先では、こうした早期の基本特許に相当するものに光が当たらないほうが良いのかもしれない。いろいろな意味で特許について提出や申請を求められてきた結果が、有用な特許が埋もれてしまうのは皮肉なものであるが、大企業の実体としては、きっとそんなものなのだろう。灯台もとくらしという奴である。

マイコンコア技術の一角になるかも知れない技術ではあるが、インタプリタの歴史というホームページでも作ったほうがよいのだろう。Linuxの上で動作する、CPMエミュレータが雑誌に掲載されていた。そういえば、VAXのエミュレータをUNIX込みで作成したことも、もっと陽のあたるところに出すべきだろうか。

いずれにしてもJavaの楽しみはこれからだ。携帯コアに搭載されて登場するのは来年だろうが、開発環境やアプリケーションのスタイルなど色々な物が改革時期になってくるのだろう。エンジニアの面接を行いながら、彼らが活躍する時代の姿が少しずつはっきりと見えてきた今日この頃でもある。

VOL109 次世代携帯の夢を追う 発行2001/6/20

二週間の出張が終わり帰国すると、国内での出張ラウンドが待っていた。一日に二つのお客様を回るペースで四日間を過ごした。まとめをする金曜日にはかなり疲れてしまった。プロダクトマネージャーやソフトウェアリーダーを日本のお客様に連れていき問題認識を深めて次世代チップなどへの反映が図られた。

同一時差で暮らしてきた仲間とそのまま時差に突入してしまったせいもあり、互いに疲れを感じつつの出張行脚となった。西東京の一部のお客様は、乗り換えも含めて気持ち的にはかなり遠く感じたりするし、新幹線で向かう必要のあるお客様が、かえって近く感じたりもする。

奈良駅に直結したホテルに泊まることになったのだが、学研都市線で奈良に向かう途中ではラッシュアワーと共に途中からは車両切り離しに出くわして木津につく頃には周囲の風景は一転しまっていた。木津から奈良までは程なく到着しようとしていたのだが周囲の夜景からは、果たして夜の食事の心配を始めていた。

幸いにもホテル内のレストランでのラストオーダーにはまにあった。こうした規模のホテルには珍しく大浴場もありゆったりと浴槽で足を伸ばすことも出来た。修学旅行の団体もフロアによっては使っているようだ。夜中に電子メールが繋がらずに閉口したが、交換機が無料通話のダイヤルを国際電話と解釈したのが理由だった。

ほぼ田植えの終わった水田風景の中を雨を縫って顧客先をタクシーで回るのだが、サンディエゴのメンバーは当然の如く傘など持ち合わせてはいない。昼食を顧客近くのハンバーグレストランで取ってから距離的にはほどない中も折りたたみの傘ではビショビショになってしまった。待ち合わせのショールームにはPDAがあった。

次世代携帯の中核となっているPDAライクな世界は、まだ誰も信じていないのが事実だ。現在全く存在しない市場には、PDAの世界からの延長線あるいは携帯からの延長線という事で予想していくしかないというのが各メーカーの方々の考え方だ。検討してみた上で弾き出したコストでの採算性と商品力と利便性は不透明だ。

個々の要素技術に立ち返ってみて、徐々に取り込んでいくというのは考え方としても納得性の高い方法である。昨今慌しい携帯ソフトの完成度を高める方法として、製品としての回収を避ける目的でメモリプロテクションを採用するのも考え物だったりする。開発プロセスの改善といった長期的な観点での取り組みでは不足なのか。

誰が使うのかという観点、そしてそのコストおよびビジネスモデルなどがコンセプトから実需への展開のなかで迷走しはじめているようだ。オプションで接続する事でお茶を濁そうという展開も当初のメール端末などからみると正しい選択肢かも知れない。端末との接続仕様が性能を満たすのかどうかの議論はあるだろうが・・。

携帯電話から次世代携帯に移ろうとしてベースとなるチップセットも産みの苦しみを感じている。コアの改変やら開発環境の整備など難題が山積している。携帯というビジネス全体が要望しているものに応えようとしているのだが、ライセンスビジネスとの関連などまだまだ難関は多いようだ。気がつくとコピーライトだらけだ。

コピーライトを進めている会社でコピーレフトなLinuxでも採用すれば面白いと思うのだが・・・。サポーター体制などが課題になるようだ。いずれにしても、メモリ保護のかかる時代に突入しようとしている。コストと品質の二つが背景にはあるようだ。性能向上に押されてキャッシュもつみモードも増強する一途だ。

電話機としての性能を高めていくべきか、モデムとしての性能バランスに傾注すべきなのかという議論がある。ターゲットとする分野は異なるからだ。ただし、後者については新たなジャンルであり次世代携帯とPDAの中間的な位置付けの不透明な状況である。ザウルスもありEPOCもありCEもあるわけだ。PALMも・・

忙しい開発アイテムを戦略マーケティングと共に配置していくことが、必要ではある。実際にお客様方が成功して達するのであり現在のWCDMAのような見世物であっては困るのだ。ビジネスモデルとしてコンテンツ屋とチップ屋(ソフトもあるが)と製造屋さんと方針を決めていただくキャリアという構図である。

自分達の技術ロードマップに自信を持ちつつも現状の動きとの綾なす中、激論を太平洋を挟んで戦わせているトップマネージメント同士の戦いの記録なども非常に参考になる。記録が残るメールの仕組みで戦いあうのは相互に確たる自信や意見があるからに相違ない。電話で説明をするような類のマネージメントとは一線を画す。

みな、次世代の現状と未来について色々な意見があるからだ。色々な方式を開発している人たちの状況などをみているとまだまだ判らないというのが正直な感触だ。サンディエゴで大学のセミナーコースを一日受講してGSMのおさらいなどをしたが、インフラ構築の話などが中心で既に欧州をカバーしたことの裏返しだった。

もう技術論ではなく、政治の話となっているような気がしてならない。技術論から展開を予測していた人たちがいるとすれば、その予測は外れてしまったようだ。GSMとCDMAの両用機がワールドな答えになってしまいそうだ。その次のワイドな展開に繋がれば良いのだが、技術論の好きな欧州人の議論とビジネスは別だ。

次世代のキーフィーチャーとして画像センサーやユビキタスコンピューティングの為のシンクロナイズ技術やマルチフォーマットのビューワなど楽しいテーマが盛り沢山である。提供する側、使う側ともに大変なボリュームの仕事になりそうである。RTOS開発していたメンバーもアプリを含めた広がりを楽しんで(?)いるようだ。

日本語のアプリケーションを実際にデモしたいので実機で開発させてほしい・・・と単身、サンディエゴに乗り込んできたのは彼であり、おかげで二週間の滞在の後半も車に不自由することはなかった。渡航決済などの手続きはメールの返事のみでOKである。マイペースな中で時期を得た開発を分担して、彼は光っていた。